魔法使い
坂崎かおる
一〇六号室のカスミさんは人形でした。
カスミさんと会ったのは年も明けて間もない頃でした。母は仕事や新しい恋人のことで忙しく、あまり僕の存在を気にかけることはありませんでした。冬休みの午前中を、無為に空を眺めたり、小さなボールを転がしたり、僕はそんな毎日を過ごしていました。そんなとき、カスミさんと会ったのです。
アパート前の廊下に出ると、コロコロと何かが転がってきました。それは小さな真珠でした。いくつもいくつも転がってきます。僕がそのいくつかを拾い上げているところに、カスミさんがいたのです。カスミさんは車いすに座って、微笑んでいました。
「ありがとう」
旦那さんが、僕に向かって丁寧にお辞儀をしました。どうやら、カスミさんの首飾りが切れて落ちてしまった様で、旦那さんの手にも、いくつか真珠が握られているみたいでした。カスミさんの表情は変わりません。微笑は顔に張り付き、瞳はまばたきをしません。カスミさんは人形でした。
僕が一人でいることを知ると、旦那さんとカスミさんは、彼らの部屋に招いてくれました。中はほんのりと暗く、電球の明かりがオレンジに部屋の全てを染めていて、何かおとぎ話のような色合いでした。旦那さんは僕にココアを出してくれて、火傷をしていないか確かめるように、僕が口をつける様子を大事そうに見つめていました。
それから僕は、学校のことや、自分の毎日のことを話しました。旦那さんは話を聞くのが上手で、僕がとつとつと話す、クラスメイトや先生のエピソードを、興味深そうな様子で相槌をうちました。そして時々、カスミさんの方を向き、「どう思う?」とか、「そんなこともあったよね」と、話を促しました。もちろんカスミさんは答えませんが、数秒間の沈黙を、旦那さんは愛おしそうに頷いて耳を傾けていました。
それがきっかけとなり、僕は一〇六号室のカスミさんたちと仲良くなりました。夕食を一緒にするようになったり、時には出かけることもありました。出かけるといっても、近所の公園とか、遠出をしても、隣駅にある市営の動物園とか、それぐらいでしたが、みんなで過ごす時間は、僕にとってかけがえのないものでした。
旦那さんは、出かける時も、必ずカスミさんを連れていました。車いすにのせ、帽子をかぶせ、あの真珠の首飾りをつけて。すれ違う人々は、奇妙な表情で僕たちを眺めることもありましたが、旦那さんは気にする様子もなく、コウゲンヤギやロウソクネズミの生態について細かく話したり、時には黙って何十分も草を食む様子を見ていたりしました。
「カスミさんは、どうして人形になってしまったんですか?」
ある日、僕が訊ねると、旦那さんはまばたきもせず、じっと考えていました。
「魔法がかかってしまったんだよ」
魔法? 旦那さんは深く頷きました。
「おとぎ話によくあるだろう? カエルにされたり、声を奪われたり。カスミは、呪いがかかってしまったんだ」
いくら子供だったからといって、僕もその話を額面通りには受け取りませんでした。でも、僕は、旦那さんの話を、深く心に留めました。
「僕は幸せだよ」旦那さんは、カスミさんを見ながら、付け加えました。「こうして、一緒に、カスミと生きていられるんだから」
そんな二人の様子を見ながら過ごす毎日が続くと、だんだん、僕にも、カスミさんの表情がわかってくる気がしました。今日は楽しそうだな、とか、ああ今、旦那さんのことを見つめているな、とか。僕は、旦那さんこそ、魔法使いだと思いました。二人で暮らす様子は、魔法がかかったように、幸福に見えたのです。
しかし僕は、小学校を卒業する前に、そのアパートから引き離されました。児童養護施設に引き取られることになったのです。突然だったので、荷物を持っていくこともままならず、カスミさんたちに挨拶もできませんでした。
アパートが取り壊されることを知ったのは、高校を卒業し、就職した年でした。独身寮のポストに、そのアパートの大家さんから、解体されることを伝える手紙が入っていたのです。大家さんはとても優しい人で、当時から僕のことを気にかけてくれて、施設への引き取りについても尽力してくれたと、後から聞きました。幾つか預かっている荷物もあるから来ないかと、手紙で彼は誘ってくれました。
僕が訪れた日は、梅が咲く頃でした。アパートの周りには既に工事車両が並んでいました。たった五部屋しかなかった平屋のアパートは、僕の思い出よりも古びて見えました。大家さんは僕を見つけると、懐かしそうに何度も手を握り、目にはうっすら涙すら浮かべていました。
「これを渡したかったんだ」
大家さんは、人形を手にしていました。女の子の人形で、首には、白いプラスチックの玉がいくつも連なったネックレスが、ついています。
「ほら、子供のとき、よく遊んでいただろう」
僕はあの二人と過ごした時間を、久しぶりに思い出しました。橙色の電球。あたたかなココア。転がる真珠。あれは本当に、魔法にかけられたような日々でした。
「ただ、ひとつ申し訳ないんだが」大家さんは、人形を僕に渡すと言いました。「もう一つの、男の子の人形は見つからなかったんだ。ちゃんととっておいたはずなんだが」
構いません、と僕は答えました。東から風が、あたたかく吹いてきました。僕はわかったのです。いや、わかっていたのです。初めから。最初から。
魔法使いが、自分だったことに。
魔法使い 坂崎かおる @sakasakikaoru
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