天蓋都市

深夜太陽男【シンヤラーメン】

第1話

     〇


「こちら二等空尉より、現在『イカロス』は高度10km地点を通過、機体に異常なし、引き続き上昇を続ける、以上」

この定期報告は通信されず、ただ録音されるものだけなので運用試験にとって大した意味はない。機体やパイロットの記録データも任務終了後、回収された後に詳しく分析される。だからこうやって声を出させる行為はパイロットの集中力や意識を保たせるための儀式のようなものに近い。棺桶に閉じ込められて、精神が発狂しないためには自分自身を騙さなければならない。

 分厚い雲の層を抜ければ透き通った青空が広がっていた。機首は上げたまま、闇より暗い天を目指す。地球と宇宙にはっきりとした境目はない。団体によって定義する数字は変わるが、一般的にはカーマン・ラインと呼ばれる地球の大気がほとんどなくなる海抜高度100kmを基準に分けている。だが実際に目に見える線引きがあるわけではなく、グラデーションのように高くなるにつれて空から宇宙の色へと溶けていく。今いる対流圏は旅客機も飛行するし雲もある。さらに高度を上げればオゾン層のある成層圏、流れ星が焼けて消滅する中間圏、そして約80kmを超えれば熱圏でありほぼ宇宙だ。オーロラが発生し、もっと高度を上げればカーマン・ラインを超えて宇宙ステーションや低軌道人工衛星が周回する。さらに先に進めば外気圏、そして完全な宇宙でも地球の重力は存在し月や多くの人工衛星が公転している。

 超航行ステルス偵察戦闘機『イカロス』は、勅許指定自治国家極東諸島連合の『軍』が開発した新型兵器の運用試験機だ。この国には条約による専守防衛のため『軍』は存在せず自衛隊がその役目を果たすことになっているが、未然に平和を守るという名目で隠密に行動を実行する部隊が陰ながら『軍』と呼称されている。『軍』は『敵』と認証されたものを破壊する。それが個人なのか組織なのか、兵器か国そのものかは作戦規模が変わるだけであまり関係がない。ここ数年の世界情勢から『敵』の持つ偵察衛星や衛星兵器を単独で隠密に速やかに無力化する必要があった。表向きな政治事情で地上や海上の戦艦から仰々しく弾道ミサイルを発射するわけにはいかない。膨大な予算を小回りのいいステルス機に注ぐことになった。

 『イカロス』は重力下低空域から無重力宇宙空間までの広範囲運用を想定された汎用性、発射台やマスドライバー、スイングバイを必要とせずに第一宇宙速度まで到達可能な推進力と戦闘時には常軌を逸する急旋回を行える機動力、表層を特殊ゲル素材で覆い色素や吸光率、電波攪乱・吸収さえ意のままに制御できる迷彩能力を併せ持つ。兵装はステルスの性能上外付けはできず機体内格納式となるため最小限の機関砲とミサイルのみとなる。キャノピーと兵装及びランディングギアを格納すれば表面に一切の継ぎ目や凸凹はなく、異質な正三角形のデザインはSF映画の宇宙船のようだ。オーバーテクノロジーの塊である。

 問題はこの機体の制御システムをどうするかだった。ドローンのような無人の無線通信型が好ましいが、ステルス機の特性上自ら電波の送受信をすると敵に逆探知され機体位置を補足されるリスクがあるし(使用は最小限に定められ、新型通信案も開発されるがそれらを傍受するシステムも開発されるイタチごっこ)、通常の戦闘機が飛行する範囲よりハードな状況での運用を想定しているため通信障害も起こりやすい。そうなれば選択肢は二つ、人工知能か有人パイロットかだ。前者の開発と運用は現在の技術ではほぼ問題はないレベルまで進んでいるのは事実だが、『軍』上層部の堅物たちはいい顔をしなかった。基本的に外部接触ができない機体が暴走した場合、破棄と破壊しか道がないとなると、それはまた税金を値上げする原因になる。しかし『イカロス』のオーバースペックを扱える技量と過酷を超えたGに耐えうる肉体を持った人間となると、それは本当に人間なのかすら存在が怪しくなる。そこで『自分』が保険として用意された。

 偽装された家族ごっこをしながら公立学校で義務教育を行うプログラムで国民の良識を把握し、それ以外の時間は『軍』の育成機関で部品として形成されていった。肉体が成熟する前に、成長期の身体にはいくつもの調整が施された。特殊な訓練を受け続けて兵士になることになんの疑問もなかった。ホルモンバランスや脳に作用する物質も徹底的に管理されていたので、もはや自分にとっての感情や意欲が本当は誰のものなのかはわからない。それでも不思議なことに『妻』だけは自分で選んだ。国民の良識に従った結果なのか、『軍』が用意したのかは問題じゃない。自己決定が自分の存在証明だった。しかし妻は三年前に亡くなった。自分が感傷に浸っていれば任務に支障をきたすので、『軍』によって記憶を薄められている。妻がいたという事実だけが残る。死因も、どんな声をしていたかも、思い出せなくても決して気にはならない。

 とにかく自分は『イカロス』の適正パイロット候補一位としてロールアウトされた。同様に人工知能パイロットも装備されることになる。結局のところ人間も機械もかかる開発コストは同程度だということ、実験結果を基にどちらの量産を進めるか検討するらしい。『イカロス』は複座ではないが二名のパイロットが同乗することになった。任務や状況においてはメインパイロットとコーパイロットを切り替えながら運用される。人間には扱えない制御を人工知能が補い、人工知能に何かあれば人間がキルスイッチとなる。ちなみに人間の手足などの末端部位や感覚器官が欠損された場合でも操作ができるように脳波による送受信制御操縦も可能となっている。戦闘で怪我をして操縦桿やペダルが扱えず視覚聴覚が欠如しても、脳さえ残っていればなんとかなるのだ。これでは人工知能と人間の違いとは何になるのだろうか。


     ●


「こちら二等空尉より、現在『イカロス』は高度60km地点を通過、機体に異常なし、引き続き上昇を続ける、以上」

 人間単体では成しえない速度、一秒がとても長く感じられるのは集中力増大で思考が引き延ばされているからなのか相対性理論なのか。『イカロス』の五回目の運用試験となる今回は、カーマン・ラインを基準とした宇宙空間への到達と大気圏再突入だ。いずれは低軌道外や地球同期軌道へを目標にしている。つまり距離的には月世界旅行だ。

 瞬きをしたら高度100kmを超えていた。深淵の暗闇に『イカロス』は浮遊していた。機体に異常はない。自身の身体もグレイアウトなど起こすことなく正常だ。後は地球を数周して下降ポイントを目指すだけだ。予定通り機首を下げる。しかし反応がなかった。どういうことだ? 接触不良など初期ミスがあるわけがない。しかし何度やっても制御装置は操縦桿の指令を受け付けない。脳波による思念コントロールにも応答がない。人工知能を呼び起こすが正常作動と認識しており役に立たない。なおも上昇と加速を続ける。計器類の数値はデタラメな羅列となり電子画面はダウンする。強烈な磁界にでも阻まれているのか。

「こちら二等空尉より、『イカロス』制御不能。原因は不明。緊急停止信号を作動させる」

 こんなときでも声に出してから実行させるのは自分を落ち着かせるためだ。瞬間、有視界が暗転する。手元さえ見えない。こんなときにブラックアウトか。ハイパーベンチレーションも機能していない。酸素が欠乏する脳はパニック状態だ。秒数経過から熱圏は超えている。このまま月まで行くつもりか? 運が悪ければスペースデブリにでも追突するだろう。棺桶め。

 一瞬よりも短い時間だった。回復し開けた視界。眼球が捉えたのはこちらの進行とは逆方向へと頭を向けた『イカロス』だった。世界で一つしか存在しない機体がなぜ今、宇宙空間ですれ違う。あっという間にそれは過ぎ去り後方へと流れた点は消失する。幻か。もしくは鏡面のような反射現象が起きていたのか。自分の頭が本当にイカレたと解釈するのが一番合理的だろう。

「こちら二等空尉より、……『イカロス』とすれ違った」

 馬鹿げている。だがもうこれを聴く人間はいないだろう。意識が朦朧とする。一秒が長すぎる。時計の針が限りなく静止に近づいていくようだ。自分の浅い呼吸音だけがはっきりと脳内にコダマする。視野が今度は赤くなっていく。おかしい、なぜ今レッドアウトが起こる。

「緊急事態適応プログラム強制作動、制御姿勢を大気圏突入シークエンスへ移行する」

 急に、人工知能が人間味のない音声で喋り出した。耐Gスーツ内の生命維持装置が身体の異常を検知して稼働し始める。呼吸、脈拍、意識が正常値へと押し戻される。回復した頭が理解する。上昇を続けていたはずの機体が、いつの間にか機首を下げて地球へと下降している。計器類も正直な数値を並べている。高度はゼロに向かって刻み始めていた。ここから一瞬でも判断を鈍れば機体もろともバランスを崩し、地球の空気と重力に分解される。

「こちら二等空尉より、システムが回復。指定ポイントより下降準備に入る」

 眼下には白い雲、青い海と緑と茶の大地が広がっている。人間が帰るべき場所だ。冷静になった頭でシミュレーション通りに手順を実行していく。今は機体の突入角度の調整も、操縦桿でも脳波でも操作ができた。人工知能は現状の分析と解析計算を行儀よくこなしている。

「こちら二等空尉より、これより帰還する」

 指示されたタイミングに合わせてフットペダルを軽く踏み込んだ。

 『イカロス』という名称は正式なものではないが技術者の一人がそう呼び出してから共通の呼称となった。それから自分のコールサインにもしている。皮肉のつもりだったのだろうが、事実になってしまったと報告しよう。


     ●


「世界が一変したという報告は、公的な書類としては受理できないな」

 極東国本州東北部の山奥、岩盤採掘現場と工場倉庫にカモフラージュされた『イカロス』試験基地・地下のミーティングルームの一室で直属の上司である一等空佐は苦笑いをしながら目は笑っていなかった。

「機体から回収されたデータでも、こちらの地上と衛星の追尾観測システムでも今回のテストは何も問題は発見されていない。離陸、上昇、周回、下降、着陸、シミュレーション通り完璧だ。もちろん観測所から機体自体を断続的にロストした報告はあるが、それは『イカロス』のステルス機能を褒めるべきことだ。確かに君のバイタルサインに乱れはあったが、それは想定内のケースであるし修復機能も役目を果たした。この客観的事実は否定しようがないだろう。主観的な音声記録と君の証言はなかったことにしよう」 

「しかし、あの『イカロス』と自分がこの世界と常識的に乖離してる事実は無視できないものだと思われます」

「……結論は焦らないほうがいい。言葉は通じ合うし君は相変わらず利口だ。何も問題はない。まあ少し休みたまえ。悪い夢から醒めるだろう。任あるまで待機、だ」

 敬礼を崩さぬまま一等空佐が退出するまで姿勢を維持した。扉が閉まり一分数えてから力を抜き、そして肩を落とした。あの人は『イカロス』の実戦投入を焦っている。だから余計なトラブルは極力排除したがるのだ。性格は変わっていない。しかし特徴的な泣き黒子の位置が線対称に左右逆転しているのは覆せない。自分の記憶が正しい限りは。

 カーマン・ラインから大気圏再突入と基地への着陸は無事に済んだ。自分と機体は医療班・技術班に回収され全員を困惑させた。自分は状態だけ見れば健康そのものだった。しかし、客観的に言わせれば自分の身体の内部構造は鏡映しのように左右反転しているということだった。主観的に言えば、この世界は何もかもに左右逆転現象が起きていた。基地の棟配置から部屋の間取り、文字の形成と横書きのそれを追いかける向き、世界地図の大陸の位置、見知った人間の細かい顔面のパーツ、利き手の分布率、記憶する限り全てが反転していた。逆にそれ以外は変わっていなかった。自分の個人証明から人間関係、世界情勢や社会常識はそのままだ。酸素欠乏したときに脳に後遺症などができたのかと疑った。しかし五日間の検査入院で外的に異常はないと診断される。なにより自分が搭乗していた『イカロス』、外見こそ完全な左右対称にデザインされているが、内部の設計やマーキングが反転している事実にテクニカルスタッフは驚愕した。自分の頭が狂っただけならまだ事は簡単だったが『イカロス』がそれを否定している。

 とにかく『イカロス』の三か月予定だった運用試験は半分より前の段階での一時中断となった。別に機体自体は左右が逆転しているだけで作動に問題はないし、自分のスペアだって何人か用意されてる手筈だ。様子を見てすぐにでも再開されるだろう。

「失礼します」

 ドアのノックに答えると若い士官が入室してきた。二年前から配属された自分の部下だ。

「二等空尉、帰宅命令に応じて自分がご自宅まで送ります。仮宿舎の荷物をまとめられたら第二駐車場までお越しください」

「いや、このまま頼む。どうせすぐにこの基地へは戻ってくるだろうし」

 二人とも制服から私服に着替えて、自分は必要最低限の日用品だけをまとめていれた鞄を抱えて部下について行く。街中でも目立たないよう一般的な乗用車を指定されて乗り込もうとする。

「あ、先輩、逆ですって。僕が運転」

 運転席と助手席の関係が逆になっているのも忘れていた。それにしてもこいつは早くも勤務外の調子だ。まあそのフランクさが今は少し気晴らしになる。部下は自分と違い一般的な国民生活からコチラ側に転入した。『軍』の訓練を乗り越え主義主張をそれ色に染められたが、根や芯と言った部分は変わっていないだろう。基地を出て山を降りるとすぐに高速道路に合流した。

「どうもその感じだと、先輩の噂も本当っぽいですね」

「本当も何も機体の報告は誤魔化せないだろう。それより車内でも基地の外で仕事の話はするなよ」

「すみません。……先輩、じゃあアベコベな世界って知ってます?」

「知らない」

「ほら、あの青いたぬきロボットの漫画のエピソードなんですけど、秘密道具でたまたま左右が逆転した地球に似た惑星を見つけて覗いてみると同じような自分たちが存在しているんですよ。でも性格までアベコベだからこっちではダメ少年があっちでは天才と呼ばれていたり、暴力任せが気弱だったり。色々あるけど、元の世界のほうがいいねって話」

「そりゃそうだ。元の世界に帰りたいよ」

 気を抜くと車線を逆走しているのではないかと勘違いし冷や汗が出そうになる。しかしこの世界ではこれが正しく部下は安全運転を続けている。まあ国によって左右の概念は違うものだし、すぐに慣れるものだろう。

「ま、久々の奥さんにたっぷり癒されてくださいよ」

「……悪い冗談はやめろよ」

 妻が三年前に亡くなっている事実を知らないわけがない。

「あれ、やっぱりおうち不在にしすぎて仲悪いんですか? でもなー、こんな組織いたら出会いなんて皆無ですよ。もう僕ほぼ諦めてますよ。自分の時間はほとんどないし仕事のことは全部機密だし。頭の中の架空の彼女を崇めるしかないですよー。先輩どうやって結婚までいけたんですか?」

「やめろって言ってるだろ」

 制止すると部下は黙って運転を続けた。自分は感情を抑制されているので怒りとかそういうものはない。だが思い出せない自分に、何かが引っ掛かる。まとまらない思考。思い浮かべる妻の全体像はピントがずれてぼやけている。架空の彼女……?

「着きましたよ」

 意識が現実に戻る。軽く寝てしまっていたようだ。ガラス越しに見えるのは三年前まで妻と暮らした小さめの一軒家だった。自分一人では広すぎたのでとっくに売り払っていた。その後は『軍』が管理する単身者向けの宿舎の一つに引っ越し住んでいる。

「おいおい、ここにはもう住んでないって」

「なに寝ぼけているんですか。早くおうちで休んでください」

 追い出すように荷物を持たされる。意図はわからないが、こいつなりの配慮なのか。まあ久々に思い出の家を眺めておくのも悪くないのかもしれない。部下の車が去り、一人残された。ちょっと様子を見たらすぐに宿舎へ向かおう。タクシーでも数十分とかからない距離だ。

 部屋からは灯りが漏れていた。空き家ではなくもう誰か住んでいるのだ。それだけわかれば、それでいい。踵を返すと同時に背後から玄関のドアが開く音が聞こえた。不審に思われただろうか。正直に前の住人と説明すればいい。

「やっぱり、車の音がしたから、そうだと思った。おかえり」

 そうだ、妻はこんな声をしていた。振り返れば妻がいた。夢から醒めない。ここはアベコベの世界だ。


     ●


「職場の上司さんから話は聞いてるけど、本当に大丈夫なの? 事故なんだから労災でがっぽりもらわないとね。ああ、ご飯どうする? こんな時間だと思わなかったから、残り物しかないけど」

「……いただくよ」

 妻も家も、三年前そのままだった。もちろん間取りや家具の配置が左右違うが、もう大した問題じゃない。この世界では妻が生きている。左右逆だけだと思っていたが、これはズレすぎている。時間そのものを疑うがカレンダーの日付も時計も自分の記憶と合致して進行している。部下が前に話していたドッキリテレビの類い、任務的に『軍』も大規模な偽装工作をすることはあるが、自分をターゲットにしてこんな茶番はメリットも面白味もない。

「利き手が変わるってことは、怪我してる?」

「いや、違うんだ。どこまで聞いてるか知らないけど、工場の視察中に事故で軽く頭を打って。外傷はまったくないんだけど、脳が混乱して、事故前後の記憶と、左右が逆転して捉えられるんだ」

「左右が逆?」

「右が左で、左が右で、みたいな」

「よくわかんないけど、私もあるかも。地図で右って言われてるのに勘違いして左折しちゃったり」

「そんな感じなのかなあ。とりあえず、しばらくは休めるよ。生活には支障ないから、家のこととかやりながら頭をスッキリさせるよ」

 妻には『軍』のことなど一切話していない。表向きな身分として『軍』が用意しているダミー企業の社員で製品開発に携わっていることになっている。自衛隊ともたまに付き合いがあると説明している。業務上出張が多いことも納得してもらっている。妻との間に子どもを授かることはなかったが、それは今でも同じらしい。

「じゃあね、庭の草むしりと花壇の整理。あと物置に棚が欲しいのと、二階の廊下の窓が閉まりが悪いのと」

「時間はあるから、全部やるよ」

「うそうそ、とりあえずゆっくりしてよ」

「うん」

 妻の身体を抱きしめてみる。柔らかさ、温もり。生命の実感がある。三年前に失われたものがここにはある。半分終わったような自分の人生、やり直せるんじゃないだろうか。妻の死因が思い出せないのは、妻が亡くなっていないからだ。君はずっとここで生きていたんだ。棺桶の中で精神を発狂させない術は知っている。自分自身を騙すことだ。


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 今まで自分の時間というものを与えられた経験がないので、ゆっくりするということができない。少年期の偽装家族中でも勉学と『軍』から与えられた課題があった。正式に『軍』で働き始めてからも少ない自宅待機時間では雑務を処理していた。公私混同という言葉があるが、自分には公の部分しかない。妻と同棲するようになり、対外秘な仕事を持ち帰るわけにはいかないので初めてプライベートの時間というものを確保された。休日という概念をどう捉えればいいのかわからなかった。普通は趣味なり興味のあることや休息目的の行動をとるらしい。自分にそんなものはない。妻の趣味に付き合ったり妻から家事の指示があればその通り動いていれば時間は潰れた。しかし今、妻は日中仕事に出ている。昨晩言われた庭の草むしり、花壇の整理、物置に新規棚作成と設置、二階廊下窓枠の修繕はすでに作業を終了させてしまった。家の状況を分析して普段手入れできない部分の掃除やメンテナンスも残り数時間で終わってしまう。帰ってくる妻に夕飯でも調理してやれればいいが冷蔵庫内の食材運用については彼女しか把握しておらず、自分が勝手にその計画を邪魔するわけにはいかない。テレビやラジオを視聴しても、自分のためになるとは思えず落ち着かない。『軍』に再度招集をかけられるまでの時間がが永遠のように長く感じられる。この時間を有効活用しなければならない。

 とりあえず、あの『イカロス』運用試験後に身に起きたことを整理して問題点を処理すべきだ。自分の記憶では『イカロス』は上昇を続けひたすら宇宙空間へと進んでいたはずだ。原因不明の操縦拒否反応と計器のエラー、自身の想定タイミングのズレたブラックアウトやレッドアウト。そして左右が反転した地球へと至る。さらに三年前に亡くなったはずの妻が生きている。『妻』以外の要点に関しては、カーマン・ラインに巨大な鏡面のような現象が起こされていてそこに飛び込んでしまったと考えれば無理矢理納得できる気もする。正確に言えば鏡は左右ではなく前後を逆転させるものだが、この際細かいことは気にしてられない。『イカロス』は反転した地球を誤認しながらも計画通りに任務を遂行しようとした。鏡の中の世界、しかしそんなことは趣味で書かれたSF小説のような内容で、作者だってありえないと笑いながら自覚してるだろう。だが『イカロス』の設定自体トンデモ理論ではあるので笑えるもの笑えなくなる。

 妻の生存、時間軸そのまま世界戦や運命線といったものが分岐したパラレルワールドと呼ばれる世界が存在するのかもしれない。けれどそういうものを扱う作品にはバタフライエフェクトと呼ばれる現象についても追及される。風が吹けば桶屋が儲かるように、些細なきっかけが世界全体に大きな変動をもたらす。しかし、この世界では妻の生存と売り払ったはずの家にまだ住んでいるという差異以外に違和感はない。右と左が違うというだけで、命の運命が大きく変わったりするものだろうか。

 自分の考えだけでは到底結論に辿り着けそうになかった。部下が言っていたアベコベの世界が気になってきたので本屋に出向き、青いたぬきロボットの漫画を買った。何巻にそのエピソードが収録されているかまでは知らなかったので全巻購入するとかなりの量となった。帰宅してリビングのソファにもたれながら読みふけっていると妻が帰ってきた。

「えっ、そんなにたくさん、どうしたの?」

「いや、後輩に勧められたから買っちゃった」

 無駄遣いだと怒られるだろうか……。

「なつかしー! ねえ、ここの話、小さいとき映画館で観て泣いちゃった。ちょっと悲劇すぎてトラウマってのもあるけど、ずっと憶えてる」

 妻は自分の隣に腰かけて一緒に読みだした。早くページをめくれだの、ページをめくるとまだ読めてないと注意される。別々に読むのが一番合理的なはずなのだが、一緒に笑って共感できるこの時間が、なんとも言えず楽しかった。


     ●


 その日、日没から約五時間後。『軍』からの招集指令は『イカロス』の試験基地ではなく自宅から一番近い東部方面指令支部だった。例の一等空佐のオフィス奥にある応接室に呼び出された。机上にある資料に目を通すよう指示される。

「君のよく知る人物だと思う」

「ええ、とても」

「『敵』に所属する特殊作戦部隊の一員だと発覚した。正確には、もう泳がせる価値がないと判断し無効化することになった。この任務、実行するのは一番近しい君が適任だ。心苦しければ諜報部が代行する。どうする?」

「自分がやります」

「君の口の堅さと、利口さが証明されたよ。方法は任せよう。連絡をもらえれば後処理はやっておく。君のケアについても保障する」

「ありがとうございます。拝命しました」

 資料には『妻』について知らない情報が並べられていた。呼び覚まされる記憶、三年前と同じだった。『敵』スパイの抹殺任務、それが妻の死因だった。実行者は自分だ。


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「……今夜は少し眠れそうにないから、ちょっとだけ馬鹿話に付き合ってほしい。前に説明した通り、僕の頭の中は混乱してる。右と左が入れ替わって、アベコベの世界にいる気分なんだ。それと変な記憶がある。怒らないで欲しいんだけど、君が三年前に死んじゃったっていう。そして原因は僕にある。でも実際君は今こうして生きている。僕たちは普通に今までどおり生活をしている。疑うことさえしなければ、何も問題はない。それで、それだけでいいんじゃないかって。気づいていると思うけど、僕は君に言えない秘密がある。たぶん君にだって秘密くらいあるだろう。だからって全てを共有する必要はないんじゃないか。偽物は偽物と名乗らない限り本物だ。僕はただ、君と過ごした時間が好きだった。それを大切にしたい。……話がまとまらないな、困った。僕の人生は何もかも用意されてきて、自己決定に意味はないと思っていた。与えられた命令は全て絶対で、逆らっても別の誰かが実行するだけだ。引き金を引く重さはどんな対象でも変わることはない。……でも、本心はずっと三年前のことを後悔していたんだ。ようやく自分というものを見つけられた気がする。そして三年前と同じことが起こっている。これは挽回できるチャンスなんだ。僕が、用意された正常を実行すれば君を殺している。でも今は幸いにも混乱している。アベコベなんだ、合理的じゃない判断ができる。君は君のやるべきこと、やりたいことをしてほしい。僕はこれから少し仕事をしてくる。帰ってくるから、待っていてくれたら嬉しい」

 日没から六時間以上経過していた。月も星も見えない、闇が世界を包んでいた。


     ●


「二等空尉、迎えに来ました」

 家の前に『軍』の送迎用車両が、運転席に部下、後部座席に上司の一等空佐がいた。促されるまま上司の隣に座り込む。車は走り出す。

「知っているとは思いますが、任務は失敗しました」

「……そんなことは今どうでもいい」

 不機嫌な声色だった。しかし失敗は『死』と同等であると叩きこまれたにも関わらず、それを無視できる事態となるとよっぽどのことだ。雰囲気に緊張している部下がバックミラー越しにこちらを心配そうに盗み見ている。

「日没からすでに十三時間以上経過している。この夜空、どう思う?」

「季節外れの冬至ですね」

「冗談を言ってる余裕はない。これが衛星が記録した上空写真の詳細だ」

「……地上の間違いでは?」

「だったら良かった。今、間違いなくそれが上空にあるんだよ」

 印刷された資料にはゴクトー国の都市部を俯瞰した街並みが写っている。この世界と、左右反転した状態だ。

「二等空尉の妄想が現実になってしまったよ。鏡面反射のような現象を疑ったがそうでもない。実体のある反転した地球が近づいている。原因は不明だが太陽が見えないわけはわかった。わけがわからないが事実は事実、現実的に対処しなければならない」

「向こうの地球と戦争でもしますか?」

「馬鹿馬鹿しい。学者が言うには世界でも肉体でもシステムでも、異常に対しては修正の力が加わり結果として全体に影響を与えるらしい。異常や歪み、現時点でそれはなんだ? 『君』と『イカロス』だ。だったら元の状態にさえ戻ればいい。君たちはあちらの地球に帰り、同じ確率で本来の二等空尉と本来の『イカロス』がこちらに戻ってくる。それだけやって効果がなければ、戦争でも地球外への脱出でも好きにすればいいさ」

 もう一人の『自分』、本来こちら側の世界にいたはずの『自分』が存在する。なんとなく予想はしていたが、他人から肯定されてしまうと妙な気分だった。この意識の主体である『自分』ともう一人の存在する『自分』は誕生してから今までの行動履歴に齟齬はないようだ。きっと今も同じように、向こうの地球で『自分』は職場の人間に囲まれた車内で揺られているだろう。そして『妻』について以外は、同一の思考をしているに違いない。それが世界の理のようだ。あのカーマン・ラインを超えた宙域ですれ違った『イカロス』を思い出す。あの瞬間から世界は歪み始めたのだ。

 それにしても、『軍』の飲み込みの早さは異常であると改めて思う。元々上層部が黒と言えば白も黒となる、先入観を度外視した縦割り体制と迅速な機動力だが、こんな常識離れした状況でも決断し手を打てるとは。有能なブレインが有効な情報を掴んでいるのかもしれない。もしくはヤケクソだ。

 まだ地球の構造や宇宙の理屈も知らない幼少期、空は巨大な殻か蓋だと思っていた。あの空が落ちてくるんじゃないかと怖くなったこともある。今まさに、天蓋に聳える都市たちが歩み寄っているのだろう。線対称に入り混じってしまった二つの世界が、修正しようと互いを蝕み一つに融和しようとしている。カーマン・ラインを軸としてもどちらが天蓋でどちらが天底かはわからない。それは砂時計みたいなものだ。

 朝日の昇らない朝だった。車は『イカロス』運用試験基地へと到着する。


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 車を降りる。車内の上司も部下も動かなくなっていた。帰還した際に障害になる可能性が高いからだ。不安要素は可能な限り排除するという教えを忠実に実行したまでである。暗殺用の超小型静音注射銃をその場に捨てる。 

 基地内は無人だった。こんな状況下で『軍』がどういう人員配置をしているかはわからないが、ただ都合が良かった。格納庫の主幹ブレーカーを上げると照明機器や整備機械たちが唸りをあげる。『イカロス』は変わらず、発進直前の状態で鎮座していた。パイロットスーツを着込みコックピットに乗り込む。本人認証が完了するとシステムが立ち上がる。計器メーターや各種ランプが点灯する。推進剤も満タン、エンジンを機動させる。微振動をシート越しに感じる。脳にフィードバックされてくる情報は『自分』も含めて全て問題がないことを告げる。

「こちら二等空尉より、スクランブルにより『イカロス』を発進させる。以降当機はスタンドアローンで作戦を遂行する。テイク・オフ」

 羽ばたく機体の浮遊に連動して格納庫のハッチが開く。ピッチアップしながら垂直離陸を続ける。見上げたら夜空には、うっすらともう一つの地球が見える気がした。地上から地上への夜間飛行だ太陽を拝めない下界ではまだ電気灯の光点が散りばめられている。これも星空だ。そして、正反対にあるもう一つの星空へ向かう。

 推進出力を最大限に振り切ると、景色は一瞬で過ぎ去り縮小されていく。雲の層を貫きながら機体は加速を続ける。なんの抵抗も感じられない。まるで地球同士が互いの重力を相殺してしまったかのように、『イカロス』はゆるやかに超音速を超えて巡航する。大気は薄くなる。宇宙の色が濃くなっていく。自分の魂や肉体というものが本当についてきているのかどうか不安になる速度だ。瞬きをしている間にカーマン・ラインを過ぎた。そして予想通り、もう一つの『イカロス』を有視界に捉える。次の瞬間にはもうすれ違っていた。キャノピー越しにもう一人の『自分』がどんな表情をしていたかはわからない。わかることは相手と自分が同じ思考をしているということ。二機は同時にインメルマンターンを行い再度向き合う。妻と生きる人間は二人もいらない。妻のいない地球に向かう意味などない。自分自身と決着をつけ帰還するだけだ。たとえ地球同士が互いの引力で消滅するとしても、それを避けて得られる平和に価値などないと思った。一瞬でも、それを永遠にしてみせる。速度が意識を膨張させていく。存在の怪しまれる人間の第六感、それすらも拡張させてセンサーに組み込む『イカロス』は確かに互いの意識を強く感じ取り、ステルス機である標的を感知していた。鳴り響くアラート音。ドッグファイト開始の合図。敵の放つミサイル、急上昇旋回をしながらチャフをばら撒く。爆発、閃光、煙幕、敵は自分の尻を追いかけている。狙い撃ちされないためにブレイクを続ける。立場を逆転させるチャンスが中々なく、ローリング・シザーズが起こる。このまま月までいくつもりか。急上昇と急加速、敵との距離がやや広がる。機体を失速させて機首を落とす。ストール・ターンを決めると照準は敵を捕まえた。ファイア。ダイブしながらミサイルを撃ち放つ。しかし自分と同じやり方で回避される。だが尻尾を追いかけるのは今度はこちら側だ。バレル・ロールしながら追撃する。機銃を掃射するタイミングで向こうはうまく旋回し弾道をかわす。残弾数は減っていく。追う側と追いかけられる側はなんども繰り返し入れ替わる。同等の頭脳と同等の機体、勝敗を決めるのは『運』しかないのか。三年前に失った者と失わなかった者、その差は。

 突然、強烈な光が視界を奪った。閃光弾の類ではない。太陽だ。地球と地球の隙間から矢のような光が差し込み射抜かれた。一瞬の判断の遅れ、気づけば敵は頭上にいた。追い越してしまった。木の葉落としだ。銃弾が降り注がれる。被弾する機体。穴の数は一気に増えて翼がもがれる。飛行能力を失い、軌道が大きく歪みながらも敵からのスコールは止まなかった。注がれた大金と最先端技術の塊である『イカロス』は無残なスペースデブリとなった。バラバラの鉄塊を見届けたのか、敵は妻のいる地球へと去っていく。任務完了だ。それが自分の役目ではなかっただけだ。クローズしていたはずの通信回路は壊れた誤動作で誰かの声を拾った。

「こちら二等空尉より、『イカロス』と共にこれより帰還する」

 初めてもう一人の『自分』の声を聞く。あいつは本物になれたのだ。


     〇


 悪い夢から醒めたみたいだ。左右の反転した地球などもう見えなかった。引き延ばされた思考の中で、妻のことを思い出していただけだ。眼下に広がるはよく知る地球だった。ただ分解された『イカロス』は大気圏に突入し、散り散りになった部品たちは燃え尽きようとしている。これは現実だ。自分の肉体の損傷を確認しようとする。手先も足先も存在しなかった。血が流れた形跡すらない。そういえばそうだ。肉体などとっくに失っていた。三年前に妻を殺害すると同時に自分は自害していた。『軍』は脳から記憶と人格を人工知能に移し『イカロス』に植え付けていた。自分は人工知能だ。最初からコックピットは空席だった。

 高度100kmまでは憶えている。運用試験は正常に行われていた。なぜ今『イカロス』は大破しているのか。自分を抹消しようとする存在から攻撃を受けたのか。それは『敵』か、それとも『軍』か。原因不明のダメージを受けると共に、一瞬を永遠近い時間まで引き延ばされた思考の中で、記憶をランダムに繋ぎ合わせたバグのような仮想シミュレーションを追体験していたのだ。まるで走馬灯のような経験だった。なぜそんなことが起きたかは知っている。棺桶に閉じ込められて、精神が発狂しないためには自分自身を騙さなければならない。それは三年前から続けていた。

 神話のイカロスは、蝋で固めた翼で空を飛び、太陽に近づきすぎて翼を溶かされ堕ちていった。勇敢か愚行かは知らない。自分にはもう太陽すら見えていなかった。

 妻のいない地球に堕ちていく中で、最後の定期報告を試みた。誰にも繋がらない通信。


「こちら二等空尉より――」

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天蓋都市 深夜太陽男【シンヤラーメン】 @anroku

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