燃せる

坂崎かおる

 

 子供の頃は東京に住んでいた。東京と言っても郊外で、駅から少し離れれば畑がぽつんぽつんとあるような、それぐらいの東京だった。

 僕の家は一軒家で、庭があった。柿の木が一本、遅咲きの八重桜が一本植わっていて、それ以外は名も知らぬ草やら花やらが、申し訳なさそうに生えていた。広い庭とは言えないが、猫が散歩したり塀にのぼったりして楽しむ程度には庭として機能していた。

 今はほとんど見なくなったが、当時は庭先でゴミを燃していた。書き損じの紙とか、チラシとか、いらなくなったハガキとか、そういったものを月に一回か二回ぐらいまとめて燃していた。少し記憶はあやふやだが、ドラム缶のようなものにゴミを入れ、油をちょろちょろかけて、マッチか何かを投げ込んで燃していたと思う。火がつけられた紙は身を捩るようにして黒く消えていく。灰が風に舞う。多くの子供がそうだと思うのだが、僕もそうやって何かが焼ける様を眺めるのが好きだった。

 あれは六年生の時だった。その日僕は熱が出て早退をした。後の出来事を考えると、家には特に連絡をしていなかったのだろう。鷹揚な時代だった。

 帰ると家の中はがらんとしていた。ただいまと声をかけたけれど、返事はない。父親は仕事をしていたが、母は家にいるはずだった。買い物にでも行っているのかと思ったが、それにしては鍵が開いていた。ランドセルをおろし、居間や二階の寝室を覗いてみたが、姿はない。誰もいない家というのは寂しいというより、異質な感じがした。当時の僕はうまく言葉にできなかったが、なんだか自分の家から「自分」が外れてしまったような感覚だった。

 母は庭にいた。ようやく僕は、ものが焼けるにおいを感じとった。母は僕に気がつくと、横目でちらりと見て、おかえり、と短く口にした。落ち着いた表情だったものの、どうしたのとも、具合でも悪いのとも聞かず、またドラム缶に何かを入れた。僕はサンダルを引っかけ、母の隣に立った。母は特に何も言わずに、燃し続けた。

 母が燃していたものは男物の下着だった。細かな形状は忘れてしまったが、ごく普通の、白い、ブリーフ型のパンツだった。僕が覗いた時は、最後の一枚をくべるところだった。それは僕の下着にしては大きかった。ならば必然的に父のものになるはずだが、使い古された感じもなく、どちらかというと新品に近いように見えた。僕は何かを訊ねようと口を開いたが、声にはならなかった。僕と母は、しばらく、その白い下着が灰になっていく様を眺めていた。後にも先にも、下着が焼ける様子を見たのは、この時だけだった。

 全て尽きると、母は水をかけ、僕の額に手を当てた。火にあてられたせいもあり、僕の身体は帰って来た時よりも熱かった。それにしても、母の手は驚くほど冷たかった。もう寝なさい、と言い、僕を寝室まで連れて行った。後のことはよく覚えていないが、そのまま眠ってしまったのだろう。その日のことは、次の日の食卓にも、それから先のどの場面にも、ついぞ会話の端にすらのぼることはなかった。

 だから、と言えばいいのか、母は父の棺には何も入れなかった。兄弟たちは色々ととりなしたが、結局最後まで、花の一本も入れなかった。皆は不思議がったが、僕には、その理由がわかる気がした。代わりに、僕は、父が就職祝いでくれた、紺色のネクタイを入れた。とても深い青だった。

 それから、母や親戚と、父の棺が焼かれている間、東京の郊外の家について話をした。今は高速道路が敷かれ、柿の木も、遅咲きの八重桜も、名も知らぬ花もない。猫もとうの昔に死んでしまった。そんな思い出話をしながら、僕は胸の中に灰が溜まっていくのを感じた。

「ぜんぶ燃したかね」

 母が独りごちたところで、火葬場の職員が呼びに来た。立ち上がるときに母がよろけたので、僕が手をとった。母の手は冷たかった。

 そんな母も、もういない。棺には素朴な名前の花を入れた。


〈了〉

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