第2話:憧れるものたち

「ねえ、どうしてあなたは空が飛べるのですか?」


 竜はどこからか聞こえて来た声に耳を傾ける。

 しかし今日飛んでいる所は海の上だ。

 生き物は一見、なにも居ないように見える。

 よおく目を凝らしてみると、その生き物は水の下に居るものだった。


「空を飛ぶ大きなお方。あなたはどうして空を飛ぶのですか?」


 それは竜からすればとても小さな魚。

 水面から顔を出して、遠く彼方を飛んでいる竜に問いかけていた。

 竜は水面にまで急降下して降りてきて、着水した。

 ほぼ垂直に落下するような速さで降りて来たので、水面近くに居た魚たちまで巻き込んで爆発したような水しぶきを上げた。

 それでも魚たちは再度集まり、水の上を優雅に浮かんでいる竜を見つめている。

 

「ああ。ごめんごめん。つい速度を出しすぎちゃったよ。それでなんだっけ、空を飛ぶ理由とか飛べるわけか」

「そうです。私たちは貴方を一目見て憧れました。自由に空を飛べるなら、どんなに気持ちがいいだろうかって。それに、水から一旦でも逃れられれば、おっきくてコワイ奴らからの目も逃れられるだろうし」

「切実だねえ」


 竜は呑気に魚たちの質問を聞いていた。

 竜は太古の昔からずっと生物系の頂点に立っていたし、自分は食べる側であって食べられる側の気持ちはわからない。

 飛ぶ事だって生まれてから気が付けば空を飛んでいたわけで、何故空を飛べるのかなどと考えた時は無かった。

 爪や牙、鱗があるように翼があるのも竜だと思っていたからだ。

 しかし、言われてみれば自分は何故空を飛んでいるのだろう。

 問いかけられて初めて生まれる疑問だった。

 竜は長い事考えていた。

 一昼夜明け、海面でしばらく首を傾げながら難しい顔をしてうなっていた。


 魚たちは辛抱強く待ち続けた。


 待っていたら捕食者の大きなマグロやカツオ、イルカなんかに食われてしまうのではないかと思うかもしれないが、竜という圧倒的な存在のおかげで小魚たち以外には寄って来る生き物は居なかった。

 ようやく竜が頭を上げた時には既に一週間が経過していた。

 

「わかったよ! 僕はきっと、空を飛ぶのが好きなんだと思う」

「空を飛ぶのが好き、ですか?」

「そうじゃなきゃ空を飛ぼうだなんて思わないんじゃないかな?」

「それはそうかも……」


 魚たちの間でもにわかにざわめきが起きる。

 空を愛する。空が好きだ。

 それ以外に空を飛ぶ理由などあるのだろうか。


「空を飛ぶためには、その為の形になる必要がある。僕の翼だってその為にあるわけだし」

「なるほどぉ」

「君達の体の中で、空が飛べそうな形になるものはなんだい?」

「それは……たぶんこのヒレですかね」


 魚は小さなヒレをぴょこぴょこと動かした。


「僕の翼を見てごらん。大きいだろう。僕の体は大きいけど、それを覆うくらいには翼も大きい。空を飛ぶってのは大仕事なんだ。わかるだろう? 君達を食べようとする鳥たちも、体の骨を空洞にして脆くなってでも、体を軽くしている。だから飛べるんだ」

「うーん……。飛ぶためにはそれくらいやらないといけないんですね」

「憧れだけじゃ飛べないからね。それなりの覚悟ってものを示さないといけない」

「わかりました! 僕たちはいずれ空を飛べるようになってみせます!」

「頑張るんだよぉ」


 魚たちは竜に挨拶をした後、どこかへと去っていった。

 それ以降、竜は魚たちの事なんかすっぱり忘れてしまっていた。

 

 竜は何年の間も眠り続ける事が出来る。


 ひと眠りして目覚めた竜は、いつものように飛んでいると水面に何かが跳ねているのが見えた。

 いや、それは跳ねているだけではない。

 海面から飛び出て、空を飛んでいる。

 さすがに竜のようにずっと飛び続けるわけにはいかないが、魚と言う体でありながら彼らは確かに空を駆けていた。

 見れば、あの小さかったヒレは遥かに大きくなっている。

 それはまるで、竜の翼のように大きい。

 そのヒレをもってして彼らは空と言う新たな場所を得た。

 

 魚たちは竜の姿を認めると、ヒレを振って挨拶してくれた。


 覚えていますか。

 私たちはこんなにも飛べるようになりましたよ。

 もっと後の世代になったら、貴方のように飛べる子たちも現れるでしょう。

 飛べるようになったことで、大きな魚たちから逃れ、空から襲い来る鳥からも逃げられるようになって、更に私たちは飛ぶ喜びを知りました。

 これほどの気持ちよさはありません。

 貴方に感謝しています。竜よ。


 竜は魚たちが何時の間にやら自分の言った事を実行し、進化している事に驚いた。

 何気なしに気軽に放った一言だったけども、彼らの心に刺さったのだ。

 同時に、生物の進化とは面白いものだと感じた。

 生物はそのように願えば進化し、形を変えていく。

 

 自分も願えば更に進化出来るのだろうか?


 竜の心の中には一つの疑問が芽生えていた。

 自分は既に完成している生き物だと思っていた。

 既に天敵はなく、故に生物系の頂点に立ち、何一つ悩む事も憂う事もなく優雅に生きて来た。他の竜との争いはあるとしても、それだって縄張り争いであって死ぬほどの怪我を負うわけでもない。

 なんとなしに、竜は自分が進化するのならどのようになるだろうかなどと考えていた。


 

 そして、小魚が飛べるようになってトビウオと呼ばれるようになった頃にまた同じような質問が竜にされた。

 今度は木登りが得意なネズミの仲間で、彼もまた飛べるようになりたいと願っていた。

 しかしヒレのような、飛べるような部位が見当たらない。

 これには頭を悩まされた竜だったが、皮膚が割と伸びる事に気づいたので、これをどうにか飛行に利用できないかと言ってみた。

 割と苦し紛れの助言で、竜も今度ばかりは駄目かなと思っていたが、ネズミの仲間の子は元気な声でありがとうと言い、去って行った。

 そしてまたひと眠りして起きると、彼のねぐらとしていた森の中では驚くような光景が広がっていた。

 ネズミの一種だった彼らは、前脚から後ろ脚の皮膚を伸ばして滑空する事を覚えていたのだ。

 流石に竜のように永遠に飛び続ける事は出来ないが、それでも彼らは空を飛べるようになったのだ。

 竜が起きたのを見た彼らは、木の実を集めてお礼をしてくれた。

 竜は木の実を食べながら、やっぱり面白いものだなと呑気に思っていた。

 彼らはのちにモモンガやムササビなどと呼ばれるようになった。


 そして今度は、陰気な生き物がやってきた。

 手の指が異様に長く、そして木にさかさまになって吊り下がっている。

 彼が空を飛びたいと思った理由は語らなかったが、モモンガやムササビの例の事を語ると彼は分かったと言い、その後しばらく姿を現さなかった。

 あくる日、竜が夜中の飛行を楽しんでいると、不規則に飛ぶ何かの影が見えた。

 それは陰気な逆さまの生き物で、彼は竜に出会うとにやりと不気味に笑ったのだった。


「貴方のように綺麗には飛べませんが、私も空を飛べるようになりましたよ」


 ゆらゆらばさばさと不規則にではあるものの、先ほどのトビウオやムササビたちのように一時的な飛行ではなく、彼は完全に空を飛んでいる。

 体の変え方や飛行のコツをちょっと喋っただけで、驚くほどの進化を遂げていた。

 彼は後にコウモリと呼ばれるようになったが、逆さまにゆらゆらするのは相変わらずであり、不気味な様子が他の生き物に嫌われる要因になっていた。

 それは竜には全く関係の無い事だけど。

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