キスよりも先に

柿尊慈

キスよりも先に

 朝起きて、彼女の寝顔が目の前にある時に、愛おしさからキスをしたくなるものの、その前に歯を磨いた方がいいのかもしれないと毎回毎回悩んでいる。

 寝起きの口内環境というのは、なかなかに酷いものであるらしい。眠っている間は唾液が分泌されないから、というのがネットの情報での見解だ。基本的には起きているときに――主に食事をしているときに分泌される唾液は、睡眠時に副交感神経とバトンタッチした交感神経の担当であり、こいつが夜眠っている間は休んでしまうから、とのこと。

 毎度毎度、そんなにねっちょりとキスをするわけではないからいいかな、なんて思って、軽く触れるだけのキスを頬にして、するとそれを合図にするかのようにパチリと彼女が目を覚ますから、寝汗で少し湿ったその黒い髪を撫でて、彼女を寝つけさせるのが常だ。そして彼女は、僕が先に起きて朝食等の準備をしている間に目を覚まして、歯を磨いてから食卓に座る。僕の方も、様々な準備と同時並行的に歯磨きを済ませているから、ふたりして快適な口内環境で朝食を取ることになる。


 ちなみに彼女はすぐそこで歯科助手をやっており、その歯医者は、遅くまで働くサラリーマンなどからのニーズに応える形で夜20時頃まで治療をしていて、そのために彼女は昼からの出勤をしている。朝に余裕のある彼女は、僕が出勤するのを玄関で見送り、また2~3時間ほど眠るのだった。

 歯医者さんは夫婦で経営をしていて、どちらも歯科衛生士の資格を持っているため、前半は夫、後半は妻、というような形で日々治療に励んでいる。もう50代も半ばになっているものの、昔からそのスタイルで、バトンを絶えず渡し合いながら、日々の生計を立てているようだった。

「同じ仕事してるの、羨ましい」

 彼女は時折、そんなことをぽつりと呟く。交代で仕事をしているとはいっても、もう一方に働いてもらっている間は本当に仕事をしていないかというと、そうではないようだ。妻は、夫の治療が落ち着いた時にお茶を淹れて持っていき、逆もまた然りという形で、まさに夫婦で支え合いながらお仕事をしているらしい。

 まあ、うちはそんな風に、同じような仕事を交代しながら、なんてできやしないので、「来世はそれがいいなぁ」くらいの感覚なのだろう。ちなみに僕は、そこまでその生活に魅力を感じていない。僕も彼女も、穏やかな性格だという自覚があり、それを証明するかのように、周囲の人たちに比べればケンカや対立はかなり少ない方である。とはいえど、時には少し衝突してしまうこともあるのだが、そこで必要なのは衝突を繰り返して相手を壊すことではなく、距離を取って余裕をつくることだと考えているので、相手がいない時間というものは、そのように利用されるという点で非常にありがたい。これが、文字通り寝ても覚めても一緒にいては、クールダウンの時間が十分に取れないだろう。

 以前、休日にケンカをしたと友人から相談され、ひとりになる時間を取るといいよとアドバイスをしたら、何を血迷ったのか彼は自宅のトイレに閉じこもってクールダウンを試みたらしく、1時間以上トイレから出てこないことに怒った妻と別のケンカが勃発したと聞いたことがある。これについては彼が悪いような気がするが、とにかく、相手と距離をとれる時間というのは重要なのだと僕自身は実感している。

 ところで、そのことについて彼女はというと。

「まあ、私たちって、ケンカしないからいいんじゃない?」

 なんてことを、僕の取り分であったはずの鶏の唐揚げを口に運びながら言うのである。ちなみに、これが僕の方が誤って彼女の取り分を食べようものならケンカになる。穏やかではあるが、彼女は食事についてはかなりシビアなので、僕はひたすらに食事の時は楽しみながらも細かい配慮をしながら箸と口を動かしているのだ。


 さて、普段であれば何のためらいもなく軽く頬に唇を押しつけるものの、どういうわけか今日は毎度の葛藤が長引いて、それどころか天秤は「先に歯を磨いた方がいい」と手を挙げて提案してくる。

 行動できずに、5分くらいが経過しただろうか。今日は僕も彼女も休日であるから、時間に追われているようなことはないので問題ない。しばらく髪を撫でてみるものの、彼女が目を覚ますことはなかった。寝息がすうすうと小さく聞こえるが、まぶたは完全にスリープモードである。

 起こさないように、こっそりと布団から出てみた。彼女の眠りが深いのか、あるいは僕の布団抜けスキルが高かったのかはわからないが、それでも彼女は、特に反応を示さない。そのまま、洗面台に向かう。この頃暑くなってきたから、裸足で踏むフローリングは涼しくて心地がいい。まあ、床が程よく冷えているのは、眠っている間に窓を閉めてエアコンをかけていたからだろうと思うけれど。

 寝癖が1箇所できていて、それを濡れた左手で梳かしながら、右手は忙しなく歯ブラシを動かしている。滅多にないが、彼女が友人と泊まりの旅行に行っているときなど、僕ひとりしかこの家にいないときは、朝起きてすぐに歯を磨くのが習慣だった。要するにこれは、「仕事と私どっちが大事なのよ」問題ならぬ「歯磨きと私どっちが先なのよ」問題なのだ。大事なのは間違いなく仕事よりも彼女だし、歯磨きよりも彼女なのだが、どっちが先かという問いにすれば、検討の余地が出てくるだろう。「仕事と私どっちが大事なのよ」などと言われた場合の模範解答のひとつは「もちろん君だけど、君と一緒にいるためには仕事をしなければならないから、うんたらかんたら……」らしいが、さて、日々僕を悩ませる問いの場合は、どのような言い訳が正解になるのだろうか。

 彼女と仕事、という場合は、彼女を目的にしつつ、生きるための手段として仕事を設置するのが正しい。これを入れ替えてしまうと、仕事を目的、手段に彼女を置くことになるので、「仕事をするためには家事をやってくれる人が必要で、それがお前」というような、悪しき日本の過去の遺物をそのまま体現したかのような横柄な態度が形成されてしまう。結局、彼女の方は目的であって、それ以外はすべて手段にしかなりえないのだ。

 とはいっても、「仕事と私」問題と「歯磨きと私」問題には決定的な違いがあり、それは「別に今すぐ歯磨きしなくても支障はない」という点である。働くのを放棄すると自転車は倒れてしまうが、歯をすぐに磨かないでいたところで未来の道が潰えてしまうわけではないのだ。事実、これまでそれを選んできているが、変わらず彼女は自分の横にいる。そうであるならば、どう考えても「別に歯磨きなんか今しなくても全然大丈夫ダヨ笑」という結論しか出てこない。

 また、「歯磨きを先にしてしまうとヤバイ」という仮説も否定しきれない。歯を磨くと彼女が爆発する、といったような明らかな問題が起きない限りは、「え、別に磨いてもいいんだよね?」という声は変わらず僕の胸の内で響くのである。

 かといって、実際に彼女に爆発されても困るし、どうせあるならもう少し、小さなデメリットの方がいいだろうな、とも思う。キスよりも早く歯を磨くとその日は必ずケンカが起きるとか、そういうレベルの。あるいは逆に、歯を先に磨かなくても問題はないが、磨いておくと少しいいことが起きるというような、メリットでもいい。

 などと考えていたら口の中がかなりの洪水状態になってしまった。ずっと口の中に歯ブラシをつっこみ、また、泡が発生していたために、唾液が多量に分泌されていたのである。口の液体を吐き出す。ほとんど、唾液であった。あのね、寝ている間君が分泌されないから、僕はこうして意味があるんだかないんだかわからないようなモヤモヤを抱えて生きているんだよ?

 結局のところ、不衛生な口内環境を閉じ込めた唇でキスをするのは汚らわしくないのか、というところが問題なのである。




「身近にあるもんだねぇ、神社って」

 朝は曇り気味だったのだが、昼を過ぎると太陽は重役出勤をしてきて、遠くのアスファルトは陽炎でぼやけていた。未だに陽炎を見ると、自分の視力が低下したのかと疑ってしまうから、勘弁してほしい。

 歯を磨いて、実験的に少し様子を見ていたら、彼女は寝息を立てるだけの生き物になり、一度たりとも目を覚まさないまま10時を過ぎていた。さすがにそろそろ起こすかと体をゆすっても、声をかけても、起きる気配が全くないので、歯磨きの方に――正確には、考え事の方に――夢中になっていて忘れていた「目覚めのキス」をしてみたら、すぐにパチリとまぶたが開いたのだ。歯磨きを先にしたことの弊害というよりはキスを忘れたときの弊害だったのだが、普段と違うことをすると普段と違うことが起きるのだと実感した。

 おそらく彼女のスリープモードは、解除するために僕の唇を頬で認証する必要があるのだろう。なんて、しょうもないことを考えたが、調べてみたら唇認証のシステムは指紋や網膜と同じように実在するらしい。まあ、彼女はメカでもなんでもないので、実際に彼女にそんな機能が搭載されているとは思えないけれど。仮に、僕が彼女を愛するあまり彼女を肉体改造し、そんな認証システムを搭載したのだと考えてみたら、なかなか趣味の悪いというか、マッドな愛情だなと笑ってしまった。当たり前だが、僕は彼女を改造した覚えはない。


 彼女の職場の女性が産休に入ったらしく、今日はその女性のための安産祈願の守りを買おうと近くの神社へ向かっている。なんで起こしてくれなかったのと言われたが、「歯磨いてたから」と答えるとケンカになりそうだったので、「いやぁ、全然起きなくって」と適当に誤魔化しておいた。嘘ではない。キスを怠ったから、起きなかったのだ。まあ結局、僕のせいなんですけど。

 しっかりと手をつないでおかないと、陽炎なんかよりもよろよろ歩く彼女は危なくて仕方がない。縁石の上を綱渡りのように歩くのが好きな彼女であるが、家の前の道は、時間帯によっては大型のトラックがビュンビュン通るような道なので、少し自重してもらいたい。欲求を満たすために、家に平均台でも置こうかと考えた時期もある。しかしネットで検索をかけたら最安で4000円とかだったので、素直に「これは僕が手をしっかり掴んでいた方がいいな」と考え直した。危ないときは思い切り手を引いて、縁石から下ろしてしまえばいいのだ。

 年始には、少し遠くの大きな神社に初詣をするものだから、同棲を始めて3年くらいになるが地域の神社には行くのは今回が初だった。もう少しすれば祭があったりするのだが、この時期は恐ろしく何もないので、参拝に来る人は僕たちくらいしかいない。

 それでも、お守りはいつでも販売しているので、鳥居をくぐってすぐに、売り場の存在は認識できた。

 真っ直ぐにそこへ向かおうとする僕を、彼女が僕のシャツの裾を掴んで引き止める。

「神社に来たんだから、まずは、ほら」

 彼女が指を差す先には、手水舎。毎度毎度、綺麗な水だからそのまま飲んでみたいという想いはあるけれど、そんな囁きに誑かされず、きちんと水を吐き出している僕を誰か褒めてほしい。

「……ああ、そうか」

 ふと、納得した。

 神社のお清めは、儀式的なものなのだ。実際の汚れではなく、あくまでも祓うのは穢れ――まあなんか、スピリチュアルな、精神的な意味の穢れである。

 朝起きての歯磨きも、僕にとっては、彼女に触れる前の儀式みたいなものなのではないか。これまでは怠ってきたが、その度に違和を感じていたのは、まさに、神社に来たのに手を清めずに参拝するようなものだったからだ。彼女という――清らかというと言いすぎだが――大切な存在に対して、何の儀式もなく触れることに、謎の抵抗があったのだろう。

 手と口を清めてから、僕たちは賽銭箱に向かう。毎回毎回、何回礼をするんだっけ、何回手を叩くんだっけ、順番はどうだったけ、とわからなくなるので、適当にこなしているが、純粋な想いはきっと届いているだろうから、特に悪いことが起きるようなことはこれまでにない。

 手を合わせて、彼女が目を瞑る。僕はといえば、まあ、彼女がそうしているだろう、彼女の同僚の安産を一緒に祈願するべきなのだろうが……。

 まあ、虫歯にはなりたくないよね。

 さすがに彼女も、虫歯の人からキスを受けたくないだろう。寝ている間なら、尚更だ。寝ているうちに毒を盛られているような気分になるだろう。毒というのは、言いすぎかもしれないが。

 虫歯って、キスで伝染するんだっけ。あとでこっそり、調べておこう。一応、検索履歴もそのあと消して。

 顔を上げて、彼女が歩き出すよりも早く、僕は手を差し出す。そこに彼女が手を重ねて、ふたりで今度はお守りを買いに行く。

「何お願いしたの?」

「もちろん、職場の人の安産祈願」

「僕はね、君が早起きできますようにって」

「なにそれ?」

 彼女が起きるためには、目覚めのキスが必要だ。まるで、童話のお姫様。

 お姫様に触れる前に、これからはお清めを怠らないようにしよう。虫歯の予防にもなるだろうし、何よりも、僕が彼女をいつまでも大切に思えるために。先に歯を磨こうと思わなくなったら、終わりだろう。

 虫歯って、何のお守りが効くのかな。わからないけど、これだろう。

 財布の管理は僕なので、安産祈願のお守りと、無病息災を手に取って、お金と一緒に渡す。ふたつの袋を見て、彼女は首を傾げた。

「自分用?」

「そう、僕のためのやつ」

「家内安全?」

「秘密」

「えー」

 別に、教えなくてもいいのだ。

 僕が毎朝、キスよりも先に歯を磨くことを、彼女は知らなくていい。僕がどれだけ彼女を大切に思って、ありがたい存在だと思っていることは、彼女は知らなくていいのだ。

 そんなことを言わずとも、こうして手をつないでいるだけで、十分に伝わっているだろうと信じている。

 帰り道、たしかドラッグストアがあったはずだ。そこで、いつもよりも少し高い、質のよさそうな歯磨き粉を買おう。そう決めた。

 気温や日光が少し落ち着いたのか、陽炎はもう見られなくなっている。




(おわり)

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