龍淵に潜む秋——序

綴る君への想い——序 1ページ





 蒼天の濃いいろどりに描かれた毛筆の軌跡が白く流れる。遥か遠方の自衛隊のヘリの轟音が段々近づく様相に耳を塞ぎたくなった。しかし、横に座る充希の寄せた眉間の皺があとにならないか心配をしていれば、空を切り裂く音も気にならない。僕が見つめていることに気付いた充希と目が合うと、互いに破顔した。


 計算式が解けなくて、悩む僕の頬を指で突く充希の顔は悪戯心いたずらごころいっぱいで。



「これじゃ、勉強にならないよ」


「うん。ごめんごめん。春夜くんが悩んでいる顔見ているとつい弄りたくなっちゃう」


「……これ、全く解けないんだけど」


「ごめんね……理系の問題って参考書見ても分からないかも」



 確かに文系の大学生だし、充希にしてみれば専門外なのは分かる————仕方ない。僕だって分からない。それに、こうして勉強に付き合ってくれている充希に文句を言うのはお門違かどちいというものだ。



「高校生でこんな難しいことしてたんだっけ……」


「うん……当時は覚えていたんだけどね。ごめんね。ちょっとわたし、集中して勉強するね。そしたら、春夜くんに教えてあげられるでしょ」



 立ち上がり、参考書を持ったまま部屋を出ていく充希の背中に視線を這わせて、僕は嘆息した。高校時代の充希は、アイドル活動をしながら移動中に勉強をして、学年上位をキープしていた。信じられないくらいに集中力のある子だった。日本のトップアイドルとしての地位を保つためには、只ならぬ努力をしていたのを僕は知っている。



 尊敬しかなかった——いや、今でも尊敬しかない。



 しかしながら、こんなことでテストに受かるとも思えない。




 ☆




 瞬く星のきらめき静かに、まだ夏の匂いの残る空から吹き降ろす風の、無味無臭は秋色で、肌寒くなった夜空に幾何かの侘しさを感ず。開いていた窓を閉めて、ノートも閉じた。



「ちょっと、春夜、充希ちゃん、ご飯たべないの?」



 キッチンから聞こえる姉さんの声に「ごめん、今行くよ」と返して、思いきり伸びをした。一日中こうして座っていると、身体が石化してしまうのではないかと危惧する。おまけに、頭の中では、桶狭間おけはざまの戦いで敗れた今川義元が大群を率いて搔き乱す。結局、日本史の勉強を楽しくやろうと意気込んだのはいいけれど、戦国時代あたりしかやっていない。かなり偏っている。



 ダイニングテーブルで、先にチンジャオロースを摘まむ姉さんは半ば呆れて言う。あんたたち、勉強も大概にしなさいよ、と。充希に関しては、姉さんの声も届いていない様子。これには、姉さんも、また始まったか。充希ちゃんの覚醒モード、と揶揄やゆする。




 仕方なく、僕が充希の作業部屋——音楽を編集したり書き物をしたり仕事をしたりする部屋——におもむいて引き戸をノックすると、「はい」と中から声がする。良かった。とりあえず無事みたい。



「充希、そろそろご飯の時間だよ」


「え? もうそんな時間っ!?」


「うん。もう四時間くらい勉強してるよ」


「やだ。飛鳥さんに夕飯全部作ってもらっちゃったの?」


「ああ。姉さん明日休みだし、今日は手抜きだって言っていたから大丈夫だよ」


「そういう問題じゃないの。飛鳥さんとお料理しておしゃべりする時間、毎日楽しみにしてるのに」



 ああ、そういうこと。なんて納得してしまった。視線を机に落とすと、ノートにびっしりと書かれた計算式と蛍光マーカー。僕の心臓が悪化した時に、病に関する勉強をしていた充希を思い出した。あのときは充希を一生大切にしよう、なんて当たり前のことしか思い浮かばなかったけれど。




 ノートの端に描かれた下手なイラストのクマさんの顔と吹き出し。




『春夜くんのためにがんばろーっ!』





 やっぱり充希は結婚してからも、何も変わっていない。胸を打たれて、しばらく言葉が詰まってしまった。

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