はじまりのお話 君と綴る日常の4ページ目
奏でる音楽に傾けた耳が、
カーテンを閉めた。遮る光とともに、考えてもどうにもならない心の声を塞ぐ。
寝ている充希の髪を
ダンススタジオが休みである日曜日は、こうして二人、部屋で流れる時間に身を任せる。ホットラテのような甘さと、少しビターの利いた
それは充希も同じはず。それでいい。ただ、今、現に充希とこうして過ごせるのだから贅沢は言えない。
充希が起きたのはそれから一時間程してからだった。カーテンの切れ目から覗く夕闇に嘆息した充希は、「寝ちゃったぁ」なんて呟いて両手で重い空気を押し上げながら伸びをした。
「気持ちよさそうだったから、起こさなかったんだ。まずかった?」
「ううん。ただ、夕飯が絶望的に遅くなっちゃう。ごめんね。ダメな主婦で。それに今日は飛鳥さん打ち合わせで遅くなるって言っていたから、食べてくるよね……」
「ダメな主婦って。全然そんなことないけど。いつまで経っても料理が上達しない夫よりは、幾分マシな気がします。はい」
「うむ。では、今日のところは朱莉ちゃんのお店でイタリアンを食べるという手段を取らせていただく。よろしいでしょうか。旦那様」
「よろしい。では、早速準備して向かおう。奥方様」
心臓を移植しなければいけないほどの大病を患った僕の身体を気にかけて、充希は基本的に外食を好まない。というのも、食材や添加物にこだわりを持っているから。但し、共通の友人である
「朱莉ちゃん、久しぶり」
「朱莉、久しぶり」
「いらっしゃい。ミツキちゃん。シュンも。今日も熱帯夜っぽいね。ほら、エアコンの冷気逃げちゃうから早く入って」
一時的に伸ばしていた髪をばっさりと切って、ショートカットになった野々村朱莉は、屈託のない笑顔で僕たちを迎えてくれた。
ネイキッドオータムカフェの店内は、変わらずにミモザやシルバーブルニア、ソフトストーベなどのドライフラワーがいくつも活けたツリーで飾る柱が中央に立つ。それを囲むように、昭和に使用されていたミシン台が今では、テーブルとなって客をもてなしている。壁に掛けられたモザイク調のゴッホのひまわりが、周囲に溶け込めずに、その存在を誇張していた。
そう。充希は高校時代からの友人である朱莉を信頼している。彼女は僕の病気のことも知っているし、充希がよく泣いていたことも理解していた。充希と喧嘩もした。だからこそ、充希は朱莉を信用しているし、朱莉は充希を信用している。そんな朱莉の料理は真っ直ぐで、いつも美味しく、
「最近、朱莉ちゃんスタジオ来ないから、寂しいんだけど」
朱莉はたまに僕たちのダンススタジオに手伝いに来てくれる。高校時代の朱莉はダンス部の部長を努めていたほど、ダンス好き。それは今も変わらないはず。
「ごめん。バイトにも行きたいんだけど、実は……」
「え。なに。朱莉はうちのバイトが安いって思ってるの? 時給上げてもいいよ?」
「あ、違うよ。二店舗目を出そうと思って。こっちはバカ兄貴に任せて、二店舗目をね、あたしがやろうかなって」
「へえ。朱莉ちゃんのお店儲かってるんだね。どこに出すの?」
「駅前。シュンとミツキちゃんの家の近くだよ。ほら、駅前のコーヒー屋さんの入っているビルの隣。あそこの喫茶店のおじさんが店を締めるんだって。それで、売りに出すって言うから譲ってもらったの。おじさん、ゆっくりしたいんだって」
ああ、夏祭りでまだ現役のアイドルだった充希と僕が囲まれてしまって、
「朱莉があそこに出店するなら、足繁く通うよ。ね、充希」
「うん。おじさんに会えなくなっちゃうのは残念だけど、朱莉ちゃんが引き継ぐなら、おじさんも喜んでいたでしょ?」
おじさんもたまに食べに来てくれるって言っていたの、なんて言って他のテーブルのお客さんから呼ばれて席を立った。どのテーブルでもまるでお客さんに友達のように接する朱莉は、その性格が功を奏して、馴染みの客で溢れかえっている。リピート率は線グラフを振り切れていそうだ。
「今日は……春菊とあさりのパスタにしようかな」
「それ好きだよね。僕は、海賊パスタにする」
「春夜くんもだよ。毎回それじゃない」
戻ってきた朱莉に僕と充希の熟考の末に選びだした至高の逸品を告げて、飲み物は当然のようにレモネードを頼む。
ネイキッドオータムカフェに来ると、高確率で『ラジオ・スターの悲劇』のレコードがアンプから流れている。怜さんの趣味なのだろうと思っていたが、朱莉の好みだったことに充希は愕然としていた。だが、その影響でレコード集めを始めたのだから、充希も人のことは言えないと思う。懐古主義もいいところだ。かくもいう僕も好きなのだから、文句を言っている場合ではないのだけれども。
やがて、運ばれてくる春菊とあさりのパスタと海賊パスタをテーブルの中央に置いて、小皿に充希が取り分ける。皿の半分に春菊とあさりのパスタ、もう半分に海賊パスタを乗せて、「はい。どうぞ」と。
何でもシェアをするのが僕たちの外食のセオリー。カレーの場合は、少し——いや、かなり悩んでしまう。皿を沢山使うのはお店に悪い、なんて充希が気にしてからは、直接大皿にスプーンを入れて食べるようにしている。
「相変わらず美味しいね。朱莉って料理するイメージ全然なかったんだけどな」
「そう? 大学生時代は、結構ごちそうになっていたし、高校の時だって、すごく上手だっ——」
漏らした言葉を飲み込もうと口を塞ぐ充希は、己の言葉が失言だったと言わんばかりに俯く。そして、きつく口を結んだ。気にし過ぎだと思う。僕がアメリカに渡っていた期間の話は極力しないようにしているようだ。
僕が闘病しながらアメリカに渡った
「そんな顔しないでよ。確かに僕は高校三年生とか大学一年生時代を過ごすことのできた充希や朱莉が………羨ましいって思うこともあるけど。でも、気を使ってもらうほどじゃないし。僕だって、もういい加減大人だよ?」
「うん。分かっているけど。自分だったら、
「やっぱりエスパーだね。以心伝心してる。だけど、今があるからいいじゃない」
「春夜くんがおおらかなのも分かるし、ポジティブすぎるくらいポジティブなのも分かるけど、やっぱり……なにかしてあげたいな」
全然エスパーじゃなかった。ポジティブどころかいつまでもネガティブで、すぐに悪い方に考えが寄ってしまうし、充希になにかをしてもらいたいなどと思うこともない。ただ、今を静かに、優しく、
「気持ちだけ受け取るよ。充希ありがとう」
「ううん。あ、パスタ冷めちゃうよ」
この時、充希が僕のために考えてくれていることを知る余地もなかった。
青春は終わっていない。いや、終わらせないという充希や朱莉たちの想いは僕にまで波及しようとしていた。
日常を綴る僕たちの物語の一ページが夏の
あの頃の僕ができなかったことを。
今、成すように。
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