はじまりのお話 君と綴る日常の3ページ目 見開き左




 石造りの賽銭箱に投げた小銭は十五円。十分ご縁がありますように、という願掛けに近いもの。充希の神妙な面持ちできつく閉じた瞳からは、その真剣さが伺えた。


 木陰で休んで続く坂道を望む。ペットボトルから注がれる水が食道の奥に到達する感覚は、カヌーが滝を落ちることに似ているな、などと思いながら靴紐を結び直す。


 風が気持ちいい。碧い森林の風が火照りを癒やす頃には、体力も回復してきた。


 立ち上がり充希に「そろそろ行こうか」と告げると、「うん。大丈夫?」と僅かに心配そうな表情で、僕の額のぬぐっても拭いきれそうにない汗をハンドタオルでいてくれた。



 小高い坂を登りきり、開けた木々の向こう側に見える那須連峰と、どこまでも続く蒼穹そうきゅうの深さに思わず息を呑んだ。こんなに高いところまで登ってきたんだ、なんて思うと充希に感謝をしたくなった。連れてきてくれてありがととう、と。



「すごいね! 確かに急勾配だったけど、こんなに高いところまで登ってきたんだ」


「うん。来られて良かった。でも、山頂ってまだまだなんだよね?」


「多分………」



 重くなってきた脚を上げて再び歩き出す。狭くなった道を二人並んで歩くわけにもいかずに充希を先頭に進む。やがて、歩いてきた道を眼下に眺めながら顔を上げると、再び急勾配が。



「この上山頂って書いてあるよ。もうすぐじゃない?」


「うん。なんとか登れそうだね」



 全く疲れを見せない充希は、時折振り返りながら僕に気を掛けてくれる。力いっぱい、転ばないように足の裏で地面を踏みしめて、膝においた手に力を込める。


 風の薫りが変わった気がする。感じる空の匂いに踊らせた胸が高鳴る感覚。これは、いつか充希と行った初めての海でつま先を波に付けた感覚と似ている。



 ————充希と初めてを共有するとき、いつも感じる薫り。風。そしてトクンと動く心臓。



 大きな岩をまたいで、見えた広大な空を望む景観に充希は感嘆の声を上げた。荒くなった呼吸も忘れて、ロープの張られた崖地に駆け出した充希の背中を眺めながら、僕はその隣に立った。



「すごいね! 頑張って登ってきた甲斐があったねっ!」


「気持ちいいね! 雲の影が動いているのが分かる。あ、海が見えるよ春夜くん」



 後方の窪みの奥に移動すると、御神体である石が地面に突き刺さっていた。神様に再び祈りを捧げて、十分ご縁のあるようにお賽銭をあげる。


 彩る夏の空は天色あまいろ紺青色こんじょういろを混ぜた色彩に、浮き出すほどの白の油絵の具を塗りたくったような雲が印象的で、外界の青々とした山肌の対比が脳裏に焼き付く。


 そして、隣を見れば充希と目が合う。本当に良かった。彼女と一緒に来られて。彼女と二人でこの景色を見ることができてよかった。いつも同じ景色、同じ空間、同じ時間を共有する中で、最近はこういった初めての景色を見て感動することもなかったから、余計に嬉しくなる。



「ハワイに行ったとき思い出しちゃった」


「修学旅行でしょ。飛行機苦手で、もう大変な騒ぎだったよね」


「そうそう。ごめんね。でも、飛行機から地上の景色見たら怖くなっちゃって。でも、ここは安心して見られるから……」


「ああ。なるほど……って高度が全く違うけど」


「またハワイ……行きたいなぁ」


「……飛行機克服してくれたら」



 飛行機は落ちるものだと信じて止まない充希は、機内でガタガタ震えながら念仏を唱えるたちの悪い性分。修学旅行でハワイに行くのもどうかと思うけど。充希のお陰で全く眠ることができずに二人して周りから白い目で見られたことを思い出す。今ではい思い出だ。



 大きい岩の上に腰を落として、しばらく風を感じた。汗にまみれた身体にみる冷めた風が仄かに碧く色づいて、瞳を閉じると感ずるどこかで鳴く油蝉の叫び。謳歌した生涯に何を思うのか、なんて辛気臭いことを考えていれば、充希が僕の手を握った。



「暗いねぇ。その顔、また重いこと考えてるんでしょ」


「ごめん。よく分かったね」


「春夜くんのことなら、だいたい分かるよ。エスパーだから」


「充希は超能力使いか。敵わないわけだ」


「なんて。顔に書いてあるからさ。分かりやすいの。それに付き合い長いでしょ」


「はじめて充希と付き合ったとき……僕、思ったんだよね」



 降りしきる桜の中で弾ける光がレンズフレアのように飽和して、充希の瞳の中の空に僕が映っていた。彼女が僕に告げた言葉は、とても信じられないものだったし、僕の気持ちも同じだった。このときから、運命付けられたように充希と僕の物語は始まった。



「おそらく、充希は僕の中に溶け込んで、一生僕から出ることはないんだろうなって。例え付き合わなくても、なにかの間違いで別れてしまっても、きっと僕の血液の中、心臓の血溜まりの中で溶け出しているんだろうなって」


「それは、春夜くんだって同じでしょ。わたしの中でいつも照らしてくれてるもん」


「……うん。だからさ、なんていうか、充希に僕を見透かされても当たり前というか、全然構わないというか。自分の中の住人になっているから、気にしないというか」


「つまり、分かりやすい春夜くんをわたしが見抜いていたとしても、気にしないってこと?」


「うん。むしろ、いつも見ていてくれて嬉しい……かな」


「また飛鳥さんにノロケだって言われるよ?」



 惚気のろけたっていいと思っている。触れ合うことができることは奇跡だし、ここにこうして生を根ざして充希と歩くことができる軌跡は僕の宝物であるとともに、残された人生という消耗する時間は、限りある蝋燭ろうそくのように今も短くなりつつある。一分一秒だって無駄にできない。だから、彼女と同じ空気を吸えるうちは、惚気ようと思う。



 充希の汗を今度は僕が拭う。手を引いてくれた充希を、今度は僕がエスコートしようと思う。下山は僕が先に。



 滑りやすい道を踏み固めて、充希が安全に歩けるように。少しは男らしいところを見せたいという見栄だと自分でも分かっているけれど、それでも格好つけたい。だって、充希に良く思われたい。それの何が悪いのか。


 

 好きな子には優しくしたい。好きな子には良いところをみせたい。



 それが、僕と充希の日常のくすっと笑われる一部分。

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