はじまりのお話 君と綴る日常の3ページ目 見開き右




 目覚めれば充希はすでに起床していて、ベッドに残る温もりに寂しさを感じつつ、起き上がって伸びをした。充希よりも先に起きたいけれど、それは非常に困難なこと。なぜなら、充希は僕よりも先に起きると決めているからだ。



 薫り気高くラズベリーのわずかな記憶の、その蜃気楼は掴みどころのない影のように僕の身体を覆っていく。これは僕が心臓移植のためにアメリカに渡っていた日々に会えなかった充希の残像が、今でも色濃く脳内で依存のように駆け巡っていることに由来する。失ってしまうかもしれない恐怖が焼き付いて離れないのだ——現在いまはそんなことがあるはずもないのだが。



 充希にしてみれば僕と同じ。後から起きると寂しいから。寝顔を見られないから。抜け殻になったベッドで一人寂しい思いをしたくないから——実際は、いなくなってしまう恐怖に喘いでいる可能性も否定できない。だって、僕たちは似たもの同士だから。



 寂しさと悔しさが入り混じったジュースを、グラスの内壁に沿ってマドラーでき回すような感情を胸に閉じ込めたまま、キッチンに向かう。



 僕の家族とも仲が良い充希は実家から出たいと言ったことは一度もない。ここで家族の話をしよう。


 東京にマンションを持っている母さんは、女優業という多忙な職業に刻苦こっくする故に、なかなか帰ってこない。

 フォトグラファーとして東京での仕事が多くなり、母さんのマンションに入り浸っている父さんもやはり同じ。せいぜい月に一回程度二人して仲良く帰ってくる。父さんは母さんがいない生活は耐えられないと晩酌をしながらうめいていた。恥ずかしくないのか、と姉さんに呆れ返られる日々に耐えきれず、東京の仕事を増やしたようだ。


 東京でデザイナーをしている姉さん——倉美月飛鳥くらみつきあすか——は、どんなに打ち合わせが長引いたとしても必ず帰ってくる。しかも茨城北部からの自動車での移動はさぞ大変だろうとねぎらったところ、「私は運転が好きだから」と一蹴された。元女優のデザイナーだけあって、ツテが多く仕事は順調のようだ。



 今日も料理をする姉さんのとなりで談笑しながら、手際よく盛り付けをしている充希は満足そうに言う。飛鳥さんの料理はなんでいつも美味しいんですか、と。お世辞にも聞こえる台詞せりふだが、実際のところ美味い。僕も理由は知らない。センスの問題なのかもしれない、なんて思っていると、姉さんは、センスよ、なんて。さすが姉弟きょうだい



 姉さんと親友のような間柄の充希は、唯一その共有できる姉さんとの朝食の時間を大事にしているようだ。



「シュン、あんた相変わらず起きるの遅いよ。充希ちゃんなんてとっくに起きてるのに」


「飛鳥さん、春夜くんはお寝坊さんなんです。だから大目に見てあげてください」


「そんなところに肩を持っても仕方ないでしょ」


「ふふ。だって、夜遅くしちゃっているのわたしですし」


「……はいはい。じゃあ、そういうことにしておきますか。まったくいつまでノロケんのかしら」



 二人の会話に入るとろくな事がない。それは結婚する前から実証済みで、僕は大人しく丸みを帯びた大正浪漫たっぷりのダイニングチェアに座って、二人の会話に耳を塞ぐくらいしか抵抗する術がない。



 今朝は紅鮭とスクランブルエッグ、それにトーストと軽めだった。電光石火のように食してすぐに出かけてしまう姉さんに、「いってらっしゃい」とダイニングテーブルから廊下に顔を出して言葉を贈る。これが朝のルーティンとなっていて、ここからが僕と充希のゆったりとした朝の時間が始まる。



「充希だって姉さんに負けないくらい料理上手じゃない」


「飛鳥さんに教えてもらったんだもん、それは上手になるよね。でも、飛鳥さんを超えるなんて無理」


「そうかな」



 仕事は夕方からだから、それまで僕たちは時間に余裕がある。毎日、家でまったりしているわけではないが、特にやることもなく、なにか趣味を見つけようと話をしていた。そんな折に、偶然僕と充希の共通の友人である野々村朱莉ののむらあかりから、山登りに誘われた。大病を患った僕が山登りなんてできるのか、と訝しむ充希を諭して、挑戦してみようということに。



「そういえば、例の山登りだけど、下見がてら今日行ってみない?」


「………だめだよ。準備を怠ると大変な目に遭うかもしれないし」


「だって、往復一時間くらいの距離だって朱莉も言っていたし。水分と糖分を持っていけば、難なく登れるって言っていたじゃない」


「でも、今日って随分唐突じゃない?」


「そうかな。毎日同じこと言ってる気がするんだけど」



 登る山は灼熱の地獄に覆われて、さぞ辛いのだろうなどと思っているのかもしれない。確かに身体に負担が掛かると思う。しかし、ダンスをしている身として、体力を付けなければならないのも確か。



「じゃあ……絶対に無理しないって約束してくれるなら……」


「うん。約束する。充希も一緒に登ってくれるんだよね?」


「当たり前でしょう。春夜くんと離れて一人ふもとで待ってるなんてできないよ。それに、心配だし」



 充希のほうが体力があるかもしれない。充希はアイドル時代から、寝ずにダンスをしても翌日に全く体力が衰えないという根からのアスリートのような人。運動神経は抜群で、なにをしても卒なくこなす。但しバレーボール以外は。




 ★




 自動車で約三〇分。御石おいし神社という人気のスポットは、平日にも拘らず多くの人で賑わっていた。その大社の背後にそびえるのが御石山おいしさんという神域に属するいわば聖域のような場所。古くから修行のため、願掛けのため、様々な理由で人々は頂上を目指したという。今日までその登山道は存在しており、標高にして約五〇〇メートルながら急斜面が多く、下山した者は口を揃えて言う。意外と辛かった、と。


 いや、口ぶりからすれば、辛いけど登れないことはない、と言っているのだと解釈できる。



 登山道の入り口の鳥居にお辞儀をして、いざ進む。登山靴を買ったものの、履いていなかったためにまだ新品同様なのだが、足場は泥に塗れていた。雨が降ってもなかなか乾かない土質なのだろう。早速泥だらけ。



「森だね。木がみんな立派。登山って言う割には、なんだか楽しいね」


「いや、充希のいう登山は、海外のそれこそエベレストとかヒマラヤとか、そんなイメージなんじゃないの?」


「違うの? 雪山で寝たら死んじゃうやつ」


「真夏だからね……むしろ、焼き殺されるんじゃないかな」


「……確かに。尋常じゃないくらい汗かいてる……」



 緩やかな坂を一歩ずつ進んでいく。木陰の隙間から差す陽光が陽炎かげろうのようににじんで体中の水分を奪っていく。滴る汗が瞳に入れば、深碧しんぺきに染まった視界が奪われる。瞳閉じれば神木の立ち並ぶ麗しい夏の葉の薫り豊かに、鼻の中から脳幹に至るまで色づいていく。再び瞳を開く頃には、充希が笑顔でこちらを振り向いた。



「大丈夫? もし無理なときは早めに言ってね。さすがにおぶって下山は厳しそうだから」


「全然大丈夫だから。充希のほうこそ、しっかりと水飲んでよ」


「わたしは大丈夫。なんなら走って登れると思う」



 強がりではない——はず。充希はストイックに筋トレとジョギングを欠かさず毎日行っている。それに加えて、ダンスの自己練習を二時間。有酸素運動しすぎで早死するんじゃないかなと思うくらい身体を動かしている。



「うん。なんとなく充希ならやれそうな気がする。でも、置いていかないで」


「えぇ〜どうしようかなぁ。春夜くんって、意地悪するから、こういうときくらいしかお返しできないんだよね」



 意地悪したくなっちゃうの。可愛いから。悲しそうな表情のあとにぱっと明るくなる顔が好きなんです。ごめんなさい。

 例えば、充希との『付き合い始めた記念日』を忘れた振りをして、思わせぶりな充希を無視し続けたら本当に泣いちゃって、「嘘だよ。ちゃんと準備しているよ」なんて慌ててケーキとプレゼントを渡したのが結婚したばかりの四月。



「そう言わずに。帰りにスタービックスおごるから」


「やったぁ。じゃあ、がんばって登ってカロリー消費しなきゃね」



 やがて中腹に差し掛かると、木の根が張り巡らされて、それが階段のようになっていた。傾斜はきつく、脚への負担が相当掛かっていることを実感した。身体の軽い充希は難なく小走りで登っていく。僕もまだ余裕だけど、充希のように軽やかにステップを踏むことは難しい。



「大丈夫ですかぁ〜〜〜? まだまだ続きそうですよぉ〜〜〜?」


「大丈夫です〜〜〜。ただ、ちょっと滑るよね」


「うん。気をつけて」



 心配していた心臓は、全然を上げる様子もなく、僅かに心拍数が上がっているだけ。リンゴマークのスマートウォッチの心拍数は一一九と、普通の運動程度。履歴を見る限り、なんの問題もない。血中酸素濃度も九八%をキープしている。



 すべて登り切ると、石段の上に鎮座する神社が見えた。まだ登山コースの参道の半分地点らしいことが立て看板にて判明。愕然とした。



「すごいね。ここに神社建てちゃうなんて、昔の人はすごい体力あったんだね」


「ほんとだね。ペットボトル四本でひぃひぃ言っている場合じゃないよね」


「うん。材木をここまで人力で運んだなんて、本当にすごい」



 階段を上がって、お祈りをする。もちろん、願い事は一つだけ。




 ————充希といつまでも健康で一緒にいられますように。




「充希はなにお願いしたの?」


「春夜くんと同じだよ。いつまでも一緒にいられますように、って」



 分かっているけど、嬉しくなってしまう。一緒にいられることが当たり前ではないことを僕も充希も理解している。だからこそ、互いの気持ちに重みがある。




 ————充希。一緒にいられることは、この登山みたいなものなのかな。



 苦難を乗り越えて、互いに手を引き合う。息切れしながら僕が登るのを待って、僕が充希を待つ。一緒にこうして木陰に座って水を飲みながら休む。




 それって最高じゃん。


 

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