はじまりのお話 君と綴る日常の2ページ目




 未就学児と小学生のレッスンが終わると、しばらく時間が空く。高校生のレッスンは親御さんや本人たちの意向を聞いて、夜の八時三〇分からになった。それには理由がある。近隣の塾が八時まで講義が行われるからだ。塾の時間に合わせてこちらが時間の変更をした。みんな勉強してからレッスンに来てくれるなんて、嬉しいじゃない。



春夜しゅんやくん、こっちの編曲は終わったよ。そっちは?」


「うん。だいたい終わりかな」



 次のイベントに向けてのダンスの振り付けと選曲、それに時間配分に合わせた曲の切り方は僕たちの仕事。こういう空いた時間に行う。最近では、充希みつきが選曲してくれる。意外にも選曲には気を使う。


 だって、高校生は敏感だから。少しでも外すと、チクリと刺すように言われてしまう。その点、充希は抜群のセンスだった。それに加えて立ち位置とかそれぞれの時間配分——一人の子がステージに上っている時間——も胃が痛くなる。




 充希のセミロングの髪は出会った頃と変わらない。えがいた淡いパステルの一つ一つが途切れることなく鮮明に浮かび上がるように流れて、その薫りが鼻をかすめていく。


 初雪の中から顔を出す溝蕎麦みぞそばのような頬と、大海原おおうなばらに映す太陽と月が交互に揺らめく硝子玉がらすだまのような瞳。すべてが愛おしくて、毎日恋に落ちる。



 ノートパソコンの前で頬杖を突いた充希のとなりに腰掛けて、振り返る彼女に微笑みを返した。何も言わなくても気持ちは通じる。



 

 ————抱きしめたい、なんて職場なのに。




 スマホのアプリを立ち上げて、流すジャズが四隅のアンプからにじみ出る。緩やかな空気のよどみが心地いい。大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。ピアノの旋律が好きだ。それは、最近激しい旋律の調べを身体に叩き込んでいるからなのか、それとも好みが変わってきたからなのかは分からないけど——充希と同じ空気を吸えるのなら、もしかしたらこだわりなどないのかもしれない。


 ゆったりとした曲を彼女が好むから。その空気に溶け込んでいくように。ただそこに、その中に、その世界の一部に僕と充希が存在するような感覚。


 充希が好きだと言えば、僕も好きだ。感覚まで充希の中に溶け込んでいるよう。それは、充希も同じことを言っていた。充希が好きな曲を流しているときの充希の顔が好き。すると、その音楽が印象付けられていき、僕までその音楽が好きになる。好循環の一言に収束する。



 つまり、充希と僕は一心同体。



「さて、もうひと仕事だね。がんばって春夜先生」


「うん……充希もね」



 高校生クラスはすべて女子。男子も受け入れたいのだけれども、圧倒的な女子の多さに面食らってしまい、見学に来たとしても入会には至らない。それは、運営をする充希も頭を痛めていた。要するに、彼女たちの団結力とパワーに圧倒されてしまうのだ。



「充希ちゃ〜〜〜んっ! おはよ!」

「春夜っち、おっはっ!」



 こんな感じでフレンドリーに話す彼女たちの憧れの存在である充希は、彼女たちとの距離の取り方がうまい。充希はそもそも誰からも好かれる性格で、見た目から感じる柔和な雰囲気も相成あいなって溶け込むのが早い。それでいて、計算高くない。要するに素なのだ。狙ってやっていないのが分かるからこそ、彼女たちから信頼される。



 それに比べて僕は——割と苦手だ。本来、こういった職業だからこそ、充希のような処世術しょせいじゅつが必要なのにも関わらず、僕には備わっていない。備わる要素もない。



 レッスンが終わると、彼女たちは充希と世間話をするルーティンがあるみたいで、中には恋愛の相談をする子もいるくらい。


 そもそも、充希は元アイドルという肩書がある。そこに彼女たちの想像が肉付けされていき、恋愛経験豊富だろうという推測がなされている。だが、初恋が僕で、そのまま結婚をしたなんて聞くと引き気味で言う。


 うわあ、あり得ないくらいに純愛だわ、なんて。僕もそう思うよ。だって、充希のような人が僕一人を愛してくれているなんて、未だに信じられないから。



 スタジオを閉めて家路につく。



 充希の運転はとてもじゃないが上手いとは言えない。むしろ、事故に遭わないのが不思議なくらい運転が苦手みたいだ。



 帰る頃にはもう二三時を過ぎていて、お風呂に入って寝たらもう朝になってしまう。だからこそ、お風呂に入ってから寝るまでの時間を大切にしたい。



「旦那様、今日もお疲れ様でした」


「充希もお疲れ様」



 僕たちは晩酌をしない。僕の身体を思ってなのか、僕がお酒にあまり強くないことを知っているのか、充希は炭酸水を箱買いしてくる。充希自身はお酒が飲めるのだけれども、僕に合わせてくれている。申し訳ない気もするけど、充希が不平を言ったことは一度もない。



 グラスの中で弾ける気泡の向こう側に望む充希の笑顔は、相も変わらずに僕に降り注いでいて、乾杯をすれば僕に抱きついてくる。これも毎日のルーティン。そして、キスをして、今日一日が終わろうとする。



 ベッドに入って僕の腕枕に顔を寄せた充希の瞳が、僕を見つめる様相は何度も見ているし、その顔は心に刻んでいる。だけど、飽きるはずもなく、毎日、毎晩、この夜に、この瞬間に恋に落ちる。



 充希を抱きしめて、一つになって、その乱れた髪を彼女が直す頃には、時間は二時を過ぎていて、ようやく眠りにつく。僕の腕の中で眠る彼女の髪を何度もいて、一日の尊さを噛み締めて一日が終わる。





 これが僕と充希の日常の一部。こんな日々を過ごしている。

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