二人の「自分」

 硬い床の感触で目を覚ました。俺はどうやら床の上で寝入ってしまったらしい。節々の痛みをこらえながら、俺は身を起こした。寝ていた角度からは時計は視界に入らず、したがって今が何時なのかもはっきりしない。とはいえ早めに起きておく方が得策だ。朝食の用意もどのみち俺の役割だから、ぐずぐずと寝ていても誰かが起こしに来るだけだし。


「アイタタタタ……やっぱり節々が」


 部屋にいるソレが、諦観の混じった声で呟くのを俺は耳にした。聞き覚えのある、しかし若干聞きなれた物とはわずかに違う声だった。

 ソレは半身を起こした俺同様にむくりと上半身を起こしていた。室内には俺とは別の存在がやはり床で寝ていて、今しがた目を覚ましたところだった――いや、部屋にいるのはやはり俺だけだ。間の抜けた声を上げ、しょぼしょぼと目をしばたたかせるその存在もまた俺であるからだ。

 ヤツガシラと名乗る色々とイカれた美少年がどのような御業を使ったのかは解らない。しかし彼は俺の願いを聞き入れ、もう一人の俺を俺の許によこしたのだ。


「おう、おはようだな。俺よ」


 しみじみと感慨にふけっていると、分身が声をかけてきた。


「おはよう、俺。ああ、お前がヤツガシラとかいうおかしな天使に遣わされたわが分身だな」

「分身っていう言い方はよしてくれ」


 俺の言葉に、もう一人の俺は片眉を吊り上げた。これは紛れもなく気分を害した時の俺の仕草だった。無意識にやっていたものだから気付かなかったが、こうして見ていると中々どうしてイラっと来る仕草である。


「その言い草じゃあまるでお前は本物だが俺は後からやって来た偽者と言わんばかりじゃあないか。俺はあくまで俺、不二原文彦だ。そしてお前も俺も俺。それでいいじゃないか?」

「……それもそうだな。何か申し訳ないな。朝っぱらから」


 短い会話ののち、俺たちは互いに見つめ合っていた。まるで鏡に映ったおのれの像を(実際には向き合っている「俺」の顔と鏡に映った像は左右逆なので全く同じとはいかないが)ためつすがめつ眺めているようであったし、或いは単に向こうの出方を窺っているだけなのかもしれない。向こうからしびれを切らして喋ってこないだろうかと思いもしたが、或いはこちらが話しかけない限り、向こうも発言しないような気がした。何しろ向き合っているのは他人ではなくて俺そのものなのだから。


「俺たちが、俺とお前が俺なのはさておいてだな。実に見事に二人になったものだなぁ、俺たちは」

「全くもってその通りだぜ。俺たちはどっちも俺だから同じなのは当然だが、衣装もきちんと再現されているっぽいし」


 案の定とでも言うべきか。俺が喋ると向こうも思っている事を口にした。しかも口にした内容は俺自身が考えている事でもある。


「全くもって、ヤツガシラ殿はどのような御業でもって俺たちを二人に分けたのだろうか。人ひとり分の肉体と記憶のみならず、衣服と眼鏡まで複製するなんて。この事を科学者が知れば卒倒ものだぞ」

「やっぱりそこは、えげつない邪神の遣いだからなんじゃないかね。俺はあいつの……ヤツガシラ殿の異様な儀式を見ていたんだ。全くもって人間とは思えない、いや既存の動物とも違う感じの輩だったんだぞ。その名に違わず八個の頭を持っていたんだからな」

「……ヤツガシラ殿の事なら俺も知ってるさ。ヤツガシラ殿に出会った時までは、俺たちはまだ一つだった訳だしさ。しかし、余分に七つもある頭部を、ファーボールみたいな首飾りに見立てて姿を現すとは、中々小粋な奴だった」


 俺たちは奇妙な出来事について話し合ってみたものの、何度か言葉を交わしたところで打ち切りとなった。ヤツガシラという異様極まりない存在が俺たちを二つに分けた。詳しい事は判明していないにも関わらずそれで納得しようとしていたためだ。適切な喩えとは言いがたいが、ウェブ小説の中で物理的心情的に不自然な展開を迎えたとしても、「魔法の力によって」もたらされたという事で周囲と読者を納得させようとする状況とよく似ている。

 それに、俺も相棒も何故二人に分裂したかをあれこれ考えるのは徒労だと考え始めている。それよりも考えるべき事が、俺たちにはあるからだ。


「しょうもない提案になるかもしれないが」


 会話をしながら思っていた事を、俺はおずおずと切り出した。


「これから俺たち同士で会話をするとき、相手を指すときには『お前』じゃあなくて『自分』と呼び合おうじゃないか。俺たちは互いに俺たちなんだからさ、なのに『お前』を使うと、何となく乱暴な感じもするし」

「せやな」


 俺の提案に、相手は得心が言ったとばかりにほほ笑んだ。唇の左側だけが僅かにつり上がったように見える笑みである。


「それは丁度俺も考えていたところだったんだ。ナイスアイデアやな、!」


 相手の言葉を聞いて、俺は、俺たちはしばしの間笑いあった。関西圏では人称として用いる「自分」には、「私」や「俺」という意味だけではなく、「君」や「お前」に近いニュアンスを持つ。目の前にいる相手がもう一人の自分であると考えた場合、やはり二人称としては「自分」が最もしっくりくる。そしてもう一人の俺は俺の意図を汲んでくれたのだ。関西弁さまさまである。


「――さて、これからの事について話し合おうじゃないか、自分よ」


 俺は少し威厳を見せつつ相手に話しかける。相手も少し身を乗り出し、真剣に威厳を滲ませながら俺を見ている。


「そろそろ家族たちが目を覚まし、朝食を所望する時間が来るだろう。まぁ、それは自分も解っているだろうと思うがな。それで早速だが、自分がキッチンに向かって朝食の支度を行ってはくれないか。俺たちが二人してキッチンに居たら、母さんも父さんも妹の由利子も驚いてしまうだろうからさ。俺はこの部屋で息をひそめて待っているよ。自分は朝の団欒を楽しむふりをして、頃合いを見計らって俺の食事を持って来てくれればいい」


 ぶっちゃけると、俺はもう一人の俺に日頃行っている業務を振り分けようとした。もとより分身、いやもう一人の俺には俺の代わりに社会に出て仕事を頑張ってもらうつもりだ。そこまで突っ込んだ話は後でやるつもりだが、小手調べに食事の用意をお願いしてみたに過ぎない。

 相手はおとがいを撫で、腑に落ちないと言いたげな様子で俺を見た。


「自分の主張は俺も半分は理解できたぜ。俺たちが二人になった事を知ってるのは俺たちだけで、何食わぬ顔で俺たちが同じ場所に揃っていたら平和な家族団欒なんか吹き飛ぶって事ぐらいはな。

 しかし何故、だからと言って俺が食事の用意をせねばならないと自分は決めつけるんだ?」

「何だ、その言い方じゃあ、俺に作れって言ってるみたいだな」

「そこまで言ってる訳じゃあない」


 相手は少し表情を和らげ、妙な笑みさえ見せている。


「別に俺は、自分も知ってる通り料理は嫌いじゃないぜ。どのみちやらないといけない事だしさ、慣れたら慣れたら楽しいし。しかし、俺は、俺たちは誰かに命じられる事を好まないし、そう言う事は他の誰かにもやらないでおこうって思って過ごしている事を、自分だって知ってるだろう? なのにさっきの口の利き方は何なのさ。俺の耳に狂いがなければ、自分は今さっき、俺に命令を下したように聞こえたが」

「…………」


 俺は相手をじろじろと睨んだ。無論相手もこちらを睨んでいる。相手の言う事には間違いはない。正論であるしきちんと筋も通っている。しかしそれで大人しく納得できるかどうかは別問題だ。そうでなければ、どうして正論を指摘されたのちに発生する惨劇が発生すると言うのだろう?


「あー、確かに自分の言う事は筋が通ってございますねぇ。しかし落伍者らしい物言いだと言う他ないよ。正論ばかり口にしていたら向こうに意図が伝わるって思っているあたりがお粗末だよ。ついでに言えば可愛げがない。ああ、生意気になってしまった由利子に似ているぜ、自分」

「俺が由利子に似ている所があるのは当然だろう。同じ父母から生まれた妹なんだからさ。俺もあいつも同じような遺伝子を持っているんだから、性別は違えど似てるところもあるはずさ。

 妹の事はまぁ良いとしてだな。自分、よくもまぁ俺の事を落伍者だとか可愛げがないとか生意気だとか言えるもんだなぁ。自分が俺に向かっている言葉は、俺たちやネット民が蛇蝎のごとく忌み嫌うブーメラン発言そのものだって事に気が付かないのかい? 今俺たちは二人になっているが、俺も自分も同じ俺なんだぜ? 俺をけなすって事は、回り回って自分で自分をけなす事になってるんじゃないか」

「全く、まったく……」


 俺は深々と息を吐きながら相手を見やる。もう少し言い返してやりたかったが、多分もっとストレスがかかり血圧が上がりそうな気がした。彼の言う通り、俺は俺だが相手もまた俺なのだ。何を言い返したとしても、敏腕プレーヤーよろしく俺の心にグッサリと刺さる言葉を向こうとて放つだけに過ぎない。俺が言われて刺さる言葉を誰よりも知っているのは、俺以外の存在ならば彼になる訳だ。


「よーし。じゃあここはいっちょ勝負して、それで今後の事を決めようぜ」


 既に軽い言い争いでとうに血圧が上がっていたのかもしれない。俺がとんでもない発言をしてしまったという事は、相手の反応で解った。向こうはぎょっとしたような表情でこちらを見つめていたのだ。


「口で通じなければ力に頼るのは、まぁ昔から続く愚行だわな。しかしそんなんでいいのか? 思うに腕力も知力も俺と自分は互角だ。そりゃあ俺だって内心気は立っているが、衝動に赴くままに相争ったとしても、共倒れになる可能性だってあるぜ。そうなったらそれこそ大問題だ」

「安心しろ自分。正直言って、取っ組み合いのケンカなんて考えちゃあいない。俺にとって分の悪い勝負だからな。代わりにしりとりで勝負だ!」

「よし、乗った!」


 しりとり。それは老若男女を問わず知れ渡り、年齢制限のない知的ゲームである。盤面を用意する必要も無ければ暴力沙汰にも発展しない実に平和的なゲームでもある。勝敗はもちろん自分の脳内データベースの豊富さにかかっているが、多少の運も関わっている。語彙力・知力ともに俺たちは互角だろうが、意表を突く言葉で翻弄すれば、或いは勝ちをむしり取る事が出来るかもしれない。

 まぁ、そんな事は向こうも判り切っているだろうけれど。

 ともあれ、朝食をどちらが作るか、そして今後の動きのために、俺たちは静かに勝負を開始した。


「初めはやっぱり……『しりとり』だ!」

「リゾチーム」

「無性生殖」

「クダクラゲ」

「ゲノム編集」

「ゲノム編集か……まあアリだな。うどんこ病」

「うをうで返すか……『ウラシル』で」

「る、る、あ、『ルビスコ』があった!」


 俺たちは真剣にしりとり勝負に興じていた。特にルールや縛りは設けていなかったが、出てくる単語は生物学絡みのものばかりである。単語は星の数あれど、縛りがあれば、その縛りが難しいほど熱狂するものだ。ついでに言えば俺も相手も知識をひけらかしたいわけであるし。


「ルシフェラーゼ」

「ゼット染色体」

「一卵性双生児」

「……え、……の?」


 しりとり勝負という、地味だが熱くなる勝負に興じていた俺たちは、ふとしりとりを辞めて互いに目配せをした。俺たちが放った単語たちの合間に、誰かが呼びかける声が聞こえた気がしたのだ。俺は相手に問いかけられ、素直に頷いた。


「兄さん。もう朝なのに部屋に籠って何やってるのよ」


 そこにいたのは妹だった。彼女は整えた眉を片方だけ吊り上げ、不思議そうに俺たちを見つめている。


「ご飯はお母さんがあらかた準備してくれたわ。それで、兄さんが中々起きないからどうしたんだろうと思ったんだけど……どうして兄さんは二人いるの?」


 妹は俺が二人になっている事に言及した。しかし予想していたよりも落ち着いた様子だ。リケジョって肝が据わった生物なのかもしれない。


「あ、ああ……これはだな、ヤツガシラとかいう変な天使に願いを言ったら叶えてくれたんだ」

「願いを叶えてくれる天使がうちに来てたの! それなら私も呼んでくれればよかったのに。兄さんを二人に出来るんだったら、をこの世に顕現できたかもしれないのに」


 食い気味興奮気味に語る妹に対して、俺たちは頭を振った。


「いや、あれはヨグ・ソトースの遣いで子孫だとかって言ってたヤバい奴なんだよ」

「そうそう。めっちゃ腹黒そうなやつだったよ。はじめは俺をドリームランドに勧誘するし、モンスターをぶっ殺すイメージを見せて来るし」

「ヨグ様って本妻の他に地球上の人間とか動物との間で婚外子を設けてるって言うもんね……ヤバいんだったら怖いけど、でも会ってみたかったなぁ」

「ヤバい邪神を昔流行った韓流アイドルみたいに呼ぶんかい」


 妹は俺のツッコミには応じず、部屋の出口を見やっていた。どす、どす、と低く重たい音が俺の耳と身体全体を震わせる。


「あ、お母さんがしびれを切らせてやって来たわ」


 妹は身体をずらし、母が部屋に入ってくるのを止めなかった。いつも見慣れた母なのだが、何となくいつもより身体が大きく膨らんでいるように感じた。


「あうっ」

「ぐぅっ」


 首元に衝撃を感じた俺たちは互いに間の抜けた声を上げた。母と俺たちからは数メートルしか離れていないのに、猫の仔のように首根っこを掴まれたのだ。掴んでいるのは母だった。彼女の両腕は、ゴム細工のように俺の元まで伸びていたのだから。


「……、……! ……」


 ずりずりとあり得ざることながら母に引っ張られる間、俺は母が何かを言っているのを耳にした。しかしヤツガシラの呪文同様何を言っているのか解らない。強いて言うならば電子音に似ていた。その間にも俺たちはなすがまま引っ張られていた。中年女性とは思えぬ膂力で引っ張られている俺たちは、彼女の手の拘束から逃れられなかったのだ。

 部屋から物理的に引き摺り出された俺たちは、そのまま奇妙な浮遊感を覚えた。勢い余って階段の段差まで飛ばされたのだろうか。今日の母さんはいつになく乱暴じゃないか。


 階段にぶつかる衝撃に怯えていた俺だったが、ぶつかる寸前で目が覚めた。俺は床に伏したままだった。アラサーの癖に不自然な体勢で眠ったために節々は痛んでいたが、誰かが、もう一人の俺が声を上げているなどという事は無かった。

 さんさんと陽光が差し込む部屋の中で、俺はたった一人だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る