はたらけ、分身

斑猫

マウス殺しと謎の天使

 夕食を済ませ洗い物を片付けると、俺は早々に自室へ引き戻った。階下のリビングでは両親と社会人の妹がくつろいでいるが、俺はあいにく家族団欒にはさほど興味はない。俺ももうアラサーに近い年齢なのだし、それに俺が不用意に留まっている時に彼らが行う会話がなんであるか、大体予想はつく。

 部屋に戻り子供の頃から使っていた学習机に向かうと、俺は深々とため息をついた。家の中で完結する、変化のない一日が今日も終わりつつある。昨日一昨日と違うのは俺が作った献立くらいだろうが、そんなものは誤差の範囲内だし、違うと言ってもお米とタンパク質と野菜を使っているという所を考えれば、まぁ大きな差はない。

 ともかく俺は、机の上に万年スタンバイ状態のノートパソコンのボタンを押し、起動させる。新型とは言いがたい古ぼけたノートパソコンだが、俺にとってはどうにも愛着の湧く存在でもあった。かつての俺は、彼を使ってレポートを仕上げ、英語の論文を訳し、卒業論文を幾度と作り上げた。言うなれば苦楽を共にした相棒である。

 老骨に鞭打つかのように奇妙な作動音を時々聞かせてくれるこのノートパソコンは、今では俺の心の慰みのため、要するに暇つぶしの動画やネット小説を閲覧するためだけに活躍してくれる。仕事に励む相棒が、いつの間にか堕落し娯楽にすがる日々を送るようになった事を彼はどう思っているのだろうか。ノートパソコンは当然答えないが、その事に俺は安堵してもいた。答えが無いという事は、俺に反感も抱かないし叱責もしないという事だから。それにしても――反感や叱責が怖くなったのはいつからだろうか?


 脳内で浮かんでは消える取り留めも無い考えは、ブラウザを開いた頃には霧散していた。そう。今の俺は愉しむためにネットの海に飛び込んだのだ。その事は誰にも咎められない事だ。俺ハ何モ悪イ事ハシテイナイ。それに今日も俺は俺の務めを果たしたじゃあないか。パートで忙しい母に代わって料理も洗濯もついで部屋の掃除も行ったし。ただ、忙しい事を口実にして、求人情報を確認したり職安に行かなかったりしただけだ。

……考えるな考えるな娯楽の世界に難しい考えを持ち込むな。おのれに言い聞かせ、俺は今度こそ電脳世界の巡回を始めた。特に意味も無い動画を何度も眺めて一人で笑い、お世話になっている小説投稿サイトに来訪する。俺が投稿したつたない小説のPV数を確認したのち、目に留まった小説を眺め、感想や応援を残す。俺にとっては有意義な時間だ。

 だが、有意義もとい楽しい時間ほどあっさりと過ぎ去るのが世の常である。俺にその事を気付かせたのは、部屋に侵入してきた妹の存在だった。


「兄さん。お風呂あがったから入りなよ」


 妹の声は大きく、やや高かった。大昔に流行ったスピッツの吠え声に少し似ている。俺はイヤホンを引っこ抜き、斜め後ろに佇む妹を見つめた。風呂上りと言うのは事実だろう。くたっとした部屋着を着こんでいたが、洗い髪はしっとりとしていて、頬や耳元が赤く染まっている。


「もうこんな時間か……ここからが良い所なのにな」

「兄さんってばまたそんな事ばっかり」


 妹はノートパソコンの画面と俺を見比べてからあからさまにため息をついた。


「兄さんが見てるのは動画でしょ? 生放送でも何でもないんだから、お風呂に入った後でも見れるじゃない……それよりお風呂に入りなよ。あんまり遅くなると冷めるとか何とかって、お母さんがうるさいよ」


 お母さんがうるさい。その言葉を聞いた俺は重い腰を上げる事にした。すまし顔で、「正しい」事をしたと言わんばかりの妹を見据え、思わず毒づいていた。


「全く、妹だというのに小姑みたいになってきてるじゃないか。昔はフミ兄ちゃんすごいとかって言ってくれて可愛かったのに」


 そうだったかしら。妹はさもとぼけたように小首を傾げた。


「まぁ、私も兄さんがすごいって思ってた時期があったのかもしれないわ」


 過去形かよ――ツッコミを入れたかったが、俺はどうにかしてその言葉を飲み込んだ。おのれの身の不甲斐なさを誰よりも知っているのは、他ならぬ俺自身だ。俺は確かに家事に精を出し、家族に食事を提供し家を清潔に保つよう心を砕いている。しかしそれは、仕事を辞めてフリーターともニートともつかない生活を行っているからに他ならない。

 家にいるなら家事を行ってよ。母のこの言葉によって、俺は主夫よろしく料理と掃除を行っているだけだ。日中は家の中で雑事を行い、夜の一人っきりの時間にネットの海に身をゆだねる。そうして日々を無為に過ごしていた。

 ともかく俺は部屋を出た。妹はそんな俺に憐みか侮蔑の視線を向けていたかもしれないが、彼女の顔を見なかったからどんな表情を浮かべていたかは解らない。


 運命の、俺の人生の歯車が狂いだしたのはいつだったのだろう。生命科学団地にある製薬会社に就職してからか。それとも調子に乗って大学院に進んだせいなのか。

 俺は元々大学では植物の研究を行っていた。もう六、七年前の話になるが、その時の日々を俺は時々思い出す。「大学生活は人生の夏休み」という言葉と共に。

 別に研究室に所属していた頃からぐうたらしていた訳ではない。むしろ誰も信じないかもしれないが――今の俺でも信じられないが――あの頃の俺は勤勉で、嬉々として植物を扱った研究に励んでいた。

 清潔な培地で育った植物の子供を分析する。ニンジンのかけらにホルモンを与えていびつな塊として培養する。時には植物を切り刻みすり潰し、彼らの細胞や遺伝子を分析する……これらの事柄に費やした日々を思うと、やはりどうしても「人生の夏休み」という言葉が脳裏をかすめるのだ。深く物事を考える事は無かったが、目先の出来事を楽しみ、牧歌的に過ごす。そして先輩や研究員や教授たちのような「大人」が見守ってくれる。このような至れり尽くせりの日々は、課題を忘れて遊び呆けた長い長い夏休みに本当によく似ていたのだ。夏休みはいつか終わり、陰鬱な九月がやってくる事など、その時には気付いていなかった。

 三年間の研究生活ののちに製薬会社の研究員に就職したのは、ひとえにツテによるものだった。教授の威光にすがっての就職に恥ずかしさを覚えたが、致し方ない事だと思う事にした。研究職の業界は狭く、すがれるものにすがらなければ就職もままならないものなのだ。

 して思えば、俺と同じく理系に進学しつつも、研究職にこだわらずにさっさと就職した妹の方が或いは先見の明があると言う他ない。

 妹の事はさておき、就職してからの話に戻る。ツテで就職できたとは言え、実際の業務は実験用のマウスの飼育と実験とだった。研究内容どころか、ツテすらも無関係な業務内容ではないかと思ったが、俺はそれでもそんなものだと思う事にした。研究室に所属していた者たちは、学部卒のみならず院卒の身分であっても望み通りの職場に就く者はわずかであると聞き及んだためだった。

 俺が職場で働いていたのは一、二年ばかりの短い期間だったが、そこで殺したマウスの数が何匹だったのか、俺には解らない。世間では動物愛護だとか動物福祉だとかが叫ばれているらしいが、職場では多くのマウスが実験体となり、されていった。俺は先輩や上司に命じられるままにマウスの面倒を見、世話に慣れた頃には実験や用済みになったマウスの屠殺を行うようになっていた。

 死んでいくマウスたちを見ても吐き気を催さなくなったのに、それほど時間はかからなかったはずだ。業務に手早く慣れる事は良い事だと新人向けのビジネス書には書かれてあるが、あの業務に慣れる事が果たして善い事なのだろうか。マウスの無残な終焉と俺自身の心痛。それらに目をつむる事で、心の一部を鈍感にする事で、俺は仕事に馴染んだだけだった。マウス殺しに心を痛めるのは欺瞞だ。学生の頃は散々植物を切り刻んだだろう、と。

 こうして得たマウス殺しの仕事をあっさりと手放したきっかけは、実に些細な事だった。――いや、今となってはなるべくして起きた事のようにも思う。自分よりも若い同僚や年下の先輩と上手く行かなかった事も、俺よりもうんとマウスに慣れた後輩に馬鹿にされる事も、マウスを屠殺する手つきを体得した事すらも慣れたと思っていた。

 それは職場で使っていた白衣を、家で洗濯してもらった時の事だった。母は白衣を受け取るとあからさまに顔をしかめ、俺の顔を見て言い放った。


「文彦。相変わらずあんたの白衣は臭いわね。どうすればこんなに臭うの?」


 あの頃の俺は、自分の衣服にマウスの臭いが染みついている事に気付かなかった。マウス自身の体臭や排泄物の匂い、そして血や臓物の臭いに俺自身が辟易していた事もあるにはあった。しかし就職してからある程度の月日が経ち、その初心を忘れていたのだ。

 だから俺は、臭いの正体について何気ない調子で言及した。


「今は職場で、マウスを扱っているからね。解剖とか後始末はひところよりも減ったけど、それでもマウス自身の臭いなのかな」


 その時、怪訝そうに白衣をつまんでいた母の顔色が鮮やかに変化した。彼女は疑わし気に眉をひそめ、今までに見た事のない眼差しで俺を見つめていた――そう、犯罪者でも見るような目つきで。

 動物実験で動物を殺す事は、ガイドラインに則って行っていれば犯罪にはならないらしい。しかし法律が罰しなかったとしても、俺の罪過が消えるわけではない。俺は幾度となくマウスの身体を切り拓き、無慈悲に屠殺を繰り返した。俺の手は血で穢れているのだ。

 これが、俺が職場を離れる事になったきっかけだと思う。部外者には些細な事と思われるかもしれないが、些細な事こそが物事を動かす事が往々にしてあるのだ。一滴の滴が、冷え切った水を瞬く間に凍らせてしまうように。

 それ以来俺は、気が向いた時に働くフリーターとなり、最近ではフリーターとして働くよりも家にこもりがちの、暇つぶしのネット小説閲覧と動画観賞に勤しむ男に変貌してしまった。一度目の職場、そして転々としたバイト先で、俺は他の誰かと協力して働く事が絶望的に苦手であると悟ってしまったのだ。

 動画やネット小説にのめり込んだのは、元々そういう物に興味があるという事もあるにはあるが、やはり現実逃避、ささくれた心の慰めにしている意味合いが強かった。学生の頃からサブカル研究部に所属していたが、あの頃はまだ娯楽に大きな意味を見出しておらず、現実に満たされない者たちの慰めなのだろうと鼻で笑ってさえいたくらいだ。

 そんな俺が、それこそ藁にも縋るような思いで、荒唐無稽なネット小説を眺めて一喜一憂する未来が訪れるなんて、当時の俺が知ったらどんな思いをするのだろうか。

 ともあれ、俺の中での「夏休み」はこのようにして過ぎていったのだ。そして過ぎ去った夏休みとは異なり「陰鬱な九月」は長々と横たわっている。


 入浴後、部屋に引き戻った俺は所在なくノートパソコンを眺めていた。身体と心は確かに疲れているのに、入浴のために頭が冴えて眠気が吹き飛ばされてしまったのだ。早く眠ってしまいたかったが、眠ったところで何が変わるというのだ? そんな厭世的な気分の俺は、再びノートパソコンに向き合い、ネットサーフィンを続けようと思った。パソコンの画面を見ていると目が疲れるが、その方が眠くなると考えたのだ。

 ところがネットサーフィンを決め込んでから五分後、異変が発生した。俺の喜びも仄暗い感情も知っている相棒が、とうに型落ちしたノートパソコンの画面が、何の前触れもなく暗転したのだ。一体何だ。故障か。間違ってウィルスを開いたのか……

 あれこれと考える中で、俺は更に異変に気付いた。暗転したノートパソコンの画面が鏡の役割を果たし、背後の風景をおぼろに映していた。間抜けな俺の顔と見慣れているために説明するまでも無い部屋の風景とは別に、一つの人物の影が映っていた。身を縮めながら、俺は影を凝視した。妹などではない。遠近法を考慮してもその影は妹よりも小柄だし、何より――普通のサラリーマンである妹は発光などしない。


「こんばんは、おにーさん」


 そこに立っていたのは一人の少女だった。特に発光はしていない。言うまでもなく俺や妹よりも若く、いや幼げだ。多く見積もっても十五、六程、場合によっては十四くらいかもしれない。百均で売ってそうなピンポン玉サイズのファーボールを七つ連ねた珍妙な首飾りと、フリルのようなひらひらの目立つ衣装の、胴部分と袖部分を連結させるダボダボとした皮膜を想起させる布地が妙に目立つ。少女の面立ちはすっきりと整い、清楚な美少女といった塩梅だ。

 にこやかな様子で立ったままの少女とは異なり、俺の動きは速かった。俺は手許にあったスマホを引き寄せた。もちろん通報するためである。そりゃあまぁ、俺とて美女や美少女には興味はある。しかし、住居侵入を行った挙句勝手に光り出す不審者を野放しに出来るほど俺も寛大ではない。


「あぅっ、ぅ……」


 通話モードを発動させようとしたその時、静電気に似た衝撃がスマホを持つ手のひらを襲った。俺はでたらめに手を動かし、そのはずみでスマホは地面に落下した。スマホの画面も勝手にブラックアウトしている。ノートパソコンと同じ状態だ。


「ちょっとちょっと。せっかくボクがおにーさんに会いに来たのに、警察を呼ぼうなんてヤボなまねはしないでよぉ」


 気付けば少女は俺の手が届く場所に近付いていた。俺は目を白黒させながら、彼女を数秒間眺めていた。首飾りのファーボールに円錐状の樹脂や黒々としたビーズが二つ三つはめ込まれているという、至極どうでもいい情報が脳内に送り込まれていく。


「ボクの事はヤツガシラって呼んでくれると嬉しいなっ」


 ヤツガシラと名乗った少女は、近年量産されているアイドルを想起させた。声は良く澄んだソプラノでその身に違わず綺麗なのだが、発声の仕方か物言いのせいか、どことなく軽薄で頭が弱そうな印象を与えるのだ。


「ちなみにボクはボクっ娘じゃなくて男の娘だからねっ!」

「その情報はどうでもいいわ」


 何を思ったかスカートをたくし上げようとするヤツガシラを、俺は手で制した。こいつの正体が少年だろうが少女だろうがそんなのはどうでもいい。それよりも何者なのか、何のために俺の許にやって来たのかが気になった。

 何となくであるが、この奇妙な闖入者が人間ではないと俺の本能は告げていた。


「……それよりも、どうして俺の部屋に入って来たんだい? 憐れで惨めな落伍者に、一体何の用があるのかね?」


 質問を投げかけると、ヤツガシラはぱぁっと目を輝かせて俺を見つめた。


「スゴいねおにーさん! 自分で自分の事をきちんと認識できてるんだねっ! 小難しい哲学者のオッサンなんかは自分で自分の事を知るって大事だって能書き垂れてたけれど、おにーさんはばっちりだよ。ま、ボクが見込んだだけの事はあるね」


 ヤツガシラは俺を称賛していたが、俺は乾いた笑みを浮かべるだけだった。彼の物言いは何となく癇に障るし、ましてやおのれの惨めな境遇を把握している事を褒められただけなのだ。それでイラっと来ない聖人君子など、現世にはいないだろう。


「不二原文彦さん。ボクはね、おにーさんの願い事を叶えるためにここに来たんだよ」


 内緒話でもするかのようにヤツガシラがぐっと顔を近づけ、右手を口許に添えながら言う。そんな虫のいい話があるんかい。ツッコミを入れる暇も与えず、ヤツガシラは言葉を続ける。


「何かおにーさんからは不浄な気配が満ち満ちていて、こっちとしても丁度いい感じだったんだ。あ、実はねボクはボクのご先祖さまになるヨグ・ソトースっていう神様にお仕えしててね、時々こうして人間たちに接触して願いを叶えさせるんだ。えへへ、高貴なる全能な神様の許で働くボクだから、天使みたいなものだって思ってくれたら良いよ。実際に飛べるし」


 言うに事欠いて自分を天使とか言い出したよこいつ。これが普通の人間だったならばとっくに警察に突き出しているところだが、生憎彼の謎のパワーによってノートパソコンもスマホも機能を停止させている。

 それにしても、彼の言葉が本当かどうかさておき、邪神を「高貴で全能な神様」として崇めているとは……一応俺もサブカル研究部に入っていた身分だ。クトゥルー神話もかじった程度だが知っている。だがあれは架空の神話ではなかったか? しかしこの少年は何をどう考えても人間では無さそうだし……


「おにーさん、文彦さん。考え事はやめて、そろそろボクに願い事を教えてよ。願い事は何でもいいよ。欲張っちゃったかもなんて遠慮しなくて良いからね。美少女が欲しいって言うなら、何でも言う事を聞いて従順で可愛くておにーさんに無条件に惚れこんでる美少女をア・ゲ・ル」

「別に間に合ってるから構わない」

「それじゃあ美少年が良いの? おにーさんに惚れてて何でもえっちな事とかをやってくれる薄幸の美少年は? あ、それってボクの事かな、やだもー」

「美少女も美少年も要らんわ! 家族がいるからそんなんが急にやって来たら怪しまれるんだよ」


 たまりかねて一喝すると、ヤツガシラは困ったように柳眉を寄せた。しかしそれもきっと演技に過ぎないのだろう。彼の性根ははっきりと判らないが、ちょっとやそっとの罵倒でへこたれるような輩では無いだろう。人間かどうかも怪しい奴だし。


「うーんと……それじゃあ異世界転移とかはどう? ボク、おにーさん以外に色んな人のお願い事を聞いたけどね、異世界転移は結構人気なんだよ、当社調べでは八十七パーセントだったからね。もちろん、異世界を所望するお友達には、ドリームランドを案内したよ!」

「異世界かぁ……」


 俺は今しがた閲覧したばかりの小説を思い出し、深く息を吐いた。異世界もののジャンルはまぁ嫌いではない。そりゃあ細々とした展開や設定や人物造形には思う所があるが、頭を空にしてみる分には問題はない。

 だが――自分がそんなところに向かうとなると話は別だ。モンスターや山賊や「現世」とかから訪れた無法者どもがのさばるある種世紀末的な世界の中で、やっていける自信が俺には無いのだ。精神的な意味で。


「モンスターとかが怖そうだからあんまり興味ないかな……」

「モンスターが怖いんだったらさ、あんまり強くなくて素人でも素手で殺せるようなモンスターばっかりの世界を用意してあげよっか? 例えばこんなドラゴンならどうかな?」


 ヤツガシラの手許が怪しく輝き、ドライアイスでもたいたように白い煙が広がっていく。煙が収まった所には、ヤツガシラの言う「ドラゴン」が姿を現していた。こいつやっぱり人間じゃあなかった――だがそれよりも、ドラゴンの姿はだった。

 それは一見すると、フワフワとした羽毛に覆われた、妙に胴の長い鳥の子供みたいだった。大人の猫よりも一回りばかり小さく、身体の割に頭部と瞳が大きい。後脚はしっかりとしているが皮膜とも翼ともつかぬ前脚は所在なさげに揺らし、周囲を見渡して鳥の仔のようなか細い声を上げている。別段俺は鳥に愛着を持っている訳ではないが、ヤツガシラが召喚(?)したこのドラゴンには、思わず駆け寄って優しく抱き寄せたくなるような衝動をもたらす何かがあった。そういう意味で、くだんのドラゴンは衝撃的だったのだ。


「ほら、これなら簡単に出来るでしょ?」


 ヤツガシラは素早く「ドラゴン」を乱暴に掴みあげた。慌てふためき愛らしい抗議の声を上げるのをものともせず、細い右手でドラゴンの頭を握りしめ、そのまま雑巾でも絞るように捻り上げた。何をしたか悟った時にはもう手遅れだった。声を上げ立ち上がろうとしたときには、既に断末魔の悲鳴――この声も耳障りではなかったが、それが却って不気味だった――を絞り出し、ヤツガシラの手の中でだらりと垂れていた。彼は手に持っていたものを無造作に叩きつけ、だというのににこやかな笑みを俺に向けていた。


「こういうのもね、結構みんなに人気なんだよ? つよーい化け物に立ち向かっていくのには及び腰の意気地なしばっかりなんだろうね。もちろん、おにーさんみたいに嫌な顔をする人もいるよ。だけど初めから愉しむ人もいるし、嫌がってる人も結局は慣れてモンスター殺しを楽しむようになるんだ。ふふふ。モンスターを狩る側が心身ともにになっていくって所かな」

「あ、あんなおぞましい事を、異世界に行ってまでやるもんか!」


 俺はもはや動かなくなったドラゴンを一瞥し、へらへらと軽薄そうに笑うヤツガシラを睨んでいた。


「あ、おにーさんは殺しとかはご法度だったか……あんな仕事で気に病んでドロップアウトしちゃったから、そっちの方には敏感だったんだね。

 あ、だけど大丈夫だよ。あのドラゴンは単なるイメージホログラムで、本物じゃあないから。ボクは殺しをやってないし、おにーさんは可哀想な生き物を見殺しにしたわけじゃない。これでオッケーでしょ?」


 いつの間にか哀れなドラゴンは姿を消していた。俺はため息をついてからやはりヤツガシラを睨んでいた。


「お前さ、天使だなんて自称してたけど、本当は悪魔なんじゃないのか?」

「今、ボクの事を悪魔って呼んだね……?」

 

 毒づいた俺の言葉にヤツガシラは明かに反応していた。だがやはり手遅れだろう。ヤツガシラがまとう空気が変わったのを見て俺は静かに思った。


「地べたを這いずりせこい一生しか送れないちっぽけな哺乳類風情が、よくもまあ空っぽなお粗末な脳みそを疑わずに、このボクの事を悪魔だなどと呼んでくれたな。

 不二原文彦。別にボクはその他大勢からお前が違うからと言って選んだわけではないんだ。単なる気まぐれで選び取っただけだが、高貴なる血筋に連なるこのボクに、暇つぶしで願い事を叶えてくれるという栄誉に対して、這いつくばってボクを褒め称えるのが筋というものだろう。そうでなければ死んでくれないか?

 言っておくがボクはこれでもその昔、海底の龍王をそそのかして婿入りし、悪事を働かせた事さえあるんだぞ。貴様のような生物に対抗できると思うなよ」


 先程とは異なる口調と声色で語るヤツガシラから、俺は目が離せずにいた。中性的な容姿とは似ても似つかぬ低くどろどろとした声のみならず、一回り二回りと大きくなったファーボールの飾りも、ヤツガシラ一人しかいないのに複数人に睨まれているような視線を感じる事も、何もかもが異様だった。

 かつて育てていたマウスを眺めていた事を、俺は唐突に思い出した。実験に扱う前のマウスは丁重に扱う決まりがあったが、すぐに餌を食べない個体に毒づいた事もままあった。それを思い出したのは、今がまさに同じような状況だからだ。もっとも今は、俺がマウスの側なのだが。


「解った。解ったよヤツガシラ様。おま、いやあなた様は確かに高貴なる神様のみ使い、天使様だ。だから、俺の願いを聞いてはくれないか」


 尻尾やひげを震わせるマウスよろしく俺は呼びかけた。ヤツガシラの禍々しい気配が薄れ、あざとく可愛らしく小首を傾げたのだった。


「さっき、あなたは美少女や美少年を差し出せるっておっしゃってましたよね?」

「あ、やっぱりいるの?」

「いえ違うんです。そういう御業が出来るのならば――私をもう一人作ってはくれませんか。ご存知かもしれませんが、私は仕事をドロップアウトし、家でくすぶっている憐れな男です。ですが、もう一人の自分がいれば、その自分に仕事を――」


 あいわかったよ。大きいままのファーボールを首元で揺らしながら、ヤツガシラは応じた。


「もう一人の、寸分たがわぬ自分が君の望みだね! それじゃ、呪文を唱えるよ」


 そういうとヤツガシラは深く息を吸い、それからおもむろに口を開いた。


「いあ・いあ……夢見るままに、夢見るままに……!」


 ヤツガシラが唱える呪文は、何を言っているのか断片的に聞き取る事しかできなかった。日本語で語っている部分もあるにはあるのだが、それ以外の言語、若しくは動物の声を発している部分が往々にしてあった。

 そして何より朗々と呪文を唱えるのはヤツガシラ一人だけのはずなのに、笛の音やけたたましいカスタネットのドラミングさえも聞こえて来るではないか。

 視線をヤツガシラの首元に向けた丁度その時、俺は思わず悲鳴を上げそうになった。単なる奇妙な飾りだと思っていた七つのファーボールが、今や完全なる鳥類の頭部である事に気付いたのだ。しかも恐るべき事に、これらの頭部は生命を具えており、その証拠とばかりに喉を膨らませくちばしを打ち鳴らし、ヤツガシラの唱える不浄なる呪文の伴奏を務めていたのである。

 ここでようやくにして、眼前の存在がを、なかば失神しながら悟ったのであった。


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