お仕事で運転中の女性が、カーラジオから流れてきた歌声をきっかけに、かつての失恋の記憶を振り返る物語。
いわゆる恋愛もの、と言い切ってしまうとちょっとイメージが違うかもしれませんが、恋について描いたお話です。出会い、恋に落ち、ときにすれ違って煩悶する、等々、恋愛としての醍醐味はしっかりとあれども、それらはいずれも過去の話。すでに終わってしまった恋であり、逆説、決してハッピーエンドではなかったことまで伺えるという、その前提を基本線として進む物語です。ほろ苦い、というかもう、普通に苦い。
主人公がかつて交際した相手である『彼』、ミュージシャン志望の男性の存在が好きです。彼の人物造形が、というよりは、その人物造形に百パーセントの確証の持てないところが。この物語の語り部(視点保持者)は『私』であり、畢竟ふたりの間の出来事は、すべて彼女自身の認識や記憶を通してのみ語られるため、少なからず信用の置けない部分が生じてしまう。
なにしろ、どうにもその場の勢いと雰囲気で始まってしまったような、それも決して円満には終わらなかった恋の思い出です。彼女の様子、激しく情緒を揺さぶられたような振る舞いを見てもわかる通り、その語りには多分に思い入れのようなものが含まれているのではないか、と(もちろん、それは第三者の下賤な勘繰りでしかないにせよ、それでもなお)、そのように予感させてくれる、この不安定さ。語り口から滲む情緒そのものはもとより、それが内容の公平性にほのかな疑念を与える、そのこと自体が想像の余地として働いているのが魅力的でした。
きっとどこかしら美化されていると思うし、逆に悪い印象に塗り替えられているところだってある。少なくとも、もし自分ならきっとそうしちゃう。本当の『彼』がどんな人間なのかはぼやけていて、それはおそらく彼女にとっても同じ(連絡先すらろくに知らなかったくらい)。畢竟、その曲を彼がどういうつもりで作ったのか、その答えもまるで深い霧の向こうを眺めるかのよう。答えのない問いのような状況に、それでもどうにか自分の解答を用意する、主人公のその心の動きをなぞるのが楽しい作品でした。