おなかのケムリが重いけど

柿尊慈

おなかのケムリが重いけど

 気候変動ががんばりすぎたために、「地球温暖化!」なんて叫ばれていたのがおかしくなってしまうほど、日本の気温はかなり下がり、7月なのに、ここ数日の最高気温は10℃に達するか達さないかという状況になっている。

 数年前までは、この時期は多くの人が半袖を着ていて、腕や脚を隠している人は強すぎる日差しから肌を守っているだけで、寒いから着ているという人は全くいなかった。

 だが、今では、寒いから長袖を着ていますという人がほとんどで、半袖を着ているのは、体温調節機能の狂った高齢の方か、体罰に近い過酷な環境でトレーニングされている、部活動真っ最中の中学生くらいだ。

 数年前、突然季節感がなくなったことで大混乱に陥ったのは、ファッション業界であろう。夏物の特集を既に組み始めていたのにもかかわらず、4月になっても冬の気温のままで、「あれれ? おかしいぞ?」などと思っていたらそのまま気温はほとんど変わらず秋に突入した。季節が変わらないので身につけるものそれ自体の流行がつくりにくく、手袋やマフラーの色が「流行り」という名の元にコロコロ変わるだけで――要するに、ただの色違いになっていくだけの日々が続いている。

 そんな状況で、かなりトレンドとなりつつあるのが、焼きイモだった。毎日毎日、彼らは石の上で焼かれて嫌になっていることだろう。

 異常気象が極みに達するよりも前から、焼きイモはどういうわけかスーパーマーケット等で年がら年中販売されていて、「いや、こんな時期に誰が買うんだよ」と思っていたものだが、今では老若男女問わず、そして季節を問わず、多くの人々に食されている。女子高生や女子大生にいたっては、クレープやタピオカミルクティー、なんとかフラペチーノといったものに名を連ねる、写真としてネットで共有するアイテムに焼きイモを置いてしまった。焼きイモに顔を書いてやるのがトレンドらしいが、男の俺にはよくわからない。

 ハワイなどの一部の場所ではあまり数年前から状況は変わっていないようだが、この異常な冷え込みは他の国々でも発生している。もちろん、反対にクソ暑くなった国もあるのだが、それはいったん置いておこう。年中秋か冬という状況に陥った国々では、ジャパニーズフードとして、ヤキイモがどんどん浸透していった。スシ、サムライ、ゲイシャ、ニンジャ、スキヤキ、そしてヤキイモ。

 国内外でヤキイモの需要が高まり、ビジネスとして注目されつつあったのだが、今ではそれも困難であろうと見直されている。というのも、特別な資格を必要とせず、初期投資も控えめで済むという強みがある一方で、限られたイモ資源を奪い合うことになるので、コネクションがうまく形成されていないと「設備はあるけど焼くイモがねぇ」という詰みの状況になりやすく、あるいは、製品自体の差別化が図りにくく接客術等のスキルで差をつけることが必要とされるため、気楽に始めると客がつかなくてイモが余る。流されやすいフリーター等が一攫千金を狙ってイモ焼き機を購入して自滅する、さらに、不要になったイモ焼き機械が公園等で不法投棄されることがやや社会問題になりつつあった。

 そんなニュースが見られるなんて平和な国だなと思いながら、公園のイモ焼き機が中途半端に破壊され、子どもたちがカードゲームをするのにちょうどいいテーブルのような扱いを受けているのを見て、その感覚に拍車がかかるのである。




「まあ、ありがたいよね、本当に」

 俺が焼きイモを受け取ると、お姉さんはぽつりと呟いた。顔を上げると、お姉さんと目が合う。言葉のわりに、温かさはあまり感じられない視線。だが、それがいい。

「何がですか?」

 年中冬になった日本の、夕方の寒さには焼きイモが合う。俺は皮も食べる派なので、皮ごとイモにかじりつく。

「君のおかげでね。こうして、固定客がいるっていうかさ」

 俺が、大学の近くという理由で選んだアパート。その目の前の道を、石焼きイモのトラックが通りかかるのをある日見つけて、たまたま買おうとしたところ、店の人は小汚いおっさんではなく、美人な女性だった。

 当時はまだ、石焼きイモの商売を始めたばかりで、どこのエリアを重点的に回ればいいのだろうかと、試験的に車を色々なルートで走らせていたのだった。たまたま、そこで俺が見かけただけで、だけど、妙にアンニュイな雰囲気で接客しているお姉さんを見ていたら、何か手伝えることはないものかと、考えてしまって。

「ここは結構、男子学生が住んでるし、美人が商売してるってわかれば、余裕で貢ぎますよ。焼きイモだから、単価も安くて、ハードルも低いから」

 とはいっても、さすがに毎日購入しているのは俺くらいのもので、他の学生たちは、週に1回か2回、まるでゴミ出しのついでに購入するような感覚である。

 俺の住んでいるところだけではなく、知り合いたちのアパートのあたりも紹介したので、かなりの利益になっているのではないだろうか。焼きイモそれ自体であれば子どもがかなり興味を示すであろうが、俺がターゲットにしているのは子どものいる家庭ではない。俺と同じような、美人好きな、煩悩の塊の、男子大学生。お姉さんには申し訳ないが、彼らにとって焼きイモは付録にすぎない。むしろ、お姉さんの方が付録かもしれない。付録目当てで購入する読者は、どこにでもいるだろうから。

「まあ、今日は君だけみたいだけどね」

 そうでしょうね。だって今日は、ゴミ出しの日じゃないんだから。家に帰ってきたら、わざわざ夕方に出る意味はない。俺のような、お姉さん狂信者でない限りは。

「毎日毎日、同じことの繰り返しで、嫌になりませんか?」

 イモをかじりながら、咀嚼中の口内を見せないよう俺は話題を振る。

 俺の問いに、お姉さんは車のドアに寄りかかったまま首だけをこちらに向け、火のついていないタバコをポトリと落とした。お姉さんはそれを拾うと、トラックの荷台にぽいっと放り投げた。イモと一緒に焼けてないといいが。

「それは、毎日毎日イモを売り続けて、ってこと? それとも、毎日毎日、年下の男子大学生と雑談していること?」

「――両方、かな?」

 後者の方はやや予想外であったが、せっかくだからまとめて聞いておこう。

 お姉さんはポケットからタバコを取り出し、指でトンと叩いて1本取るとそれをくわえ、長く綺麗な黒髪が燃えないように耳にかけてから、ライターで火をつける。俺はこの仕草が、たまらなく好きなのだ。

「……昔話、好き?」

 お姉さんは、宙を見つめている。カレンダーは7月だけど、空は冬。灰色の空に、彼女の黒髪は非常に映えた。どんよりとした重い空が、彼女の、気だるげな雰囲気にとても合っている。そして、焼きイモ。最高の時間。大学の講義など、この時間に比べれば何の魅力も持っちゃいない。

「俺、思うんですよ。この世は、昔話をするのが好きな人か、聞くのが好きな人か、2種類の人間しかいないんだって」

「……君は、どっちなの?」

「後者の、聞く側ですね。聞く側ってことは、たぶん、俺の若い頃は、私の若い頃は、なんて話を喜んで聞くことになるから、つまり、年上好き。話すのが好きな人なら、年下に喜んで話をするんだろうから、年下好き」

「――同い年が好きな人は?」

「話すのも聞くのも、大嫌い」

 お姉さんは笑った。タバコの灰は、ポケット灰皿の底に吸い込まれていく。

「――私は以前、雑誌の編集者をやっていてね」

「へぇ」

 たしかに、バリキャリなイメージはある。

「ファッション誌でさ。私自身はあんまり、オシャレとかは楽しまなかったんだけど、流行を、自分の手で作って、それを読んだであろう人たちが、自分の手の平で転がされていることも知らず、その人工的なトレンドを鵜呑みにして、流行の色やアイテムで身を飾っているのが、滑稽で滑稽で」

 あまり性格がよくないんだな、と思った。もちろん、それが全身からにじみ出ているので、幻滅することもないのだけれど。

「けど、数年前から、急に、こんな風に、季節感がなくなっちゃって、どこ見てもマフラーで、手袋で、ロングコートで、せいぜい色くらいしか変わらなくて、挙句、どんよりとした空の色が、それに拍車をかけて、しばらく仕事は続けてたけど、ああ、やりがいがなくなってしまったなぁ、そんなことを思った次の日には、退職してた」

 イモはもう、食べ終えてしまった。

「毎日毎日同じような日で、不機嫌な空に抗うかのように、服の色だけコロコロ変えてみても、もう私の心には1滴たりともペンキは落ちてこないから、いっそのこと、ずっと冬なら、冬にしかできなかったものを、延々と続けてみようって、ただそれだけのこと」

 そこにたまたま、俺が顧客になった。毎日の、常連になった。自惚れかもしれないが、その甲斐あって、彼女は少し繁盛している。

「ところで、さ」

 イモを包んでいた紙を折りたたむ俺の手を見ながら、お姉さんは尋ねる。

「君みたいに、毎日焼きイモを買いに来るお客さんがいないのは、どうしてだと思う?」

 そりゃ、何人も狂信者がいたら、取り合いになって、大戦争になるからでしょう。

 いや、そうじゃねぇな。そういうことじゃないんだよな、たぶん。

 飽きるから? 毎日イモは、飽きるのだろうか。米みたいなもんだろ? 国によっては、イモは主食だ。毎日米を食う日本人がいて、毎日イモを食う外国人がいるなら、毎日イモを食う日本人がいてもおかしいということはない。

「……高くはないけど、安くはないからじゃないですかね、単価が」

 タバコが、踏み潰される。

「ふふっ、なるほどね。じゃあ君のお財布は、かなりのプレッシャーを受けているわけだ」

「まあ、ノーダメージじゃいられませんよね。そろそろ、バイトでも始めようかと思ってまして」

「焼きイモのために?」

「および、あなたが暮らしていけるために」

 タバコに、火がつく。お姉さんは、声を出さず笑っている。

「ありがたい話だけど、それはちょっと、心が痛むなぁ。いっそのこと、私のところで働いてみる?」

「いや、お姉さんのそばにいれるなら、正直、イモはまかないみたいな感じで、タダ働きでも問題ないですよ」

 タバコをくわえたまま、お姉さんはやや眉をひそめる。喪服のような、黒いシャツ。黒い髪。白い肌。そこに明るい、タバコの火。石の焼ける臭い。ガスの臭い。タバコの臭い。

「働いてばかりだったし、学生時代も、こんな感じでドライだったから、全然恋愛の経験ないし、なんなら、君のこと好きになってあげる自信ないから、本当にイモ以外の見返りがないんだけど」

「いいんじゃないですかね。いうて俺も、お姉さんとイモなら、どっち選ぶか迷うと思いますし」

「イモと同等なのね、私」

「いや、俺的にはかなり順位高いんですよ?」

 客は来ない。石焼きイモの歌が、流れていないからだ。お姉さんは、俺と話し始めると、オーディオの電源を切ってくれる。俺たちの間を遮るのは、イモの香りと排ガスと、タバコの煙だけ。

「まあ、君がそれでいいって言うんなら、明日あたりから、手伝ってもらおうかなとは思うけど」

 彼女は、少し冷たく笑った。

「じゃあ、連絡先を交換しましょう。俺には十分過ぎる報酬です」

「かわいい絵文字とか、使わないよ?」

「いいんじゃないですか? 恋愛じゃないんだし」

 俺はスマホを取り出そうと、ポケットに片手を突っ込み、折りたたんだイモの包み紙を、逆のポケットに忍ばせた。

 スマホをいじって、下を向く。

「……けどまあ、最初だし、もう少しサービスしておこうかな」

 お姉さんの声に顔を上げると、俺は顔の前に突き出されたそれを、反射的にくわえこんでしまう。

「――はい。これであなたも、ニコチン中毒」

 俺はタバコなど、吸ったことがない。成人してはいるけれど、これはどうすればいいんだ。下手に息を吸い込んでむせ返ったら、お姉さんはきっと大爆笑してくれるだろう。というか、それを待っているのかもしれない。

「どんな味がする?」

 身動きが取れないことをいいことに、お姉さんは追撃してくる。

 俺は煙を肺に吸い込まないように鼻で息をして、熱く乾いた空気に鼻孔を震わせてから、タバコをつまんで口から離した。

「――焼きイモ味、ですかね」




(おわり)

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