第7話 冷たい風と熱風

 辺りが暗くなり、外灯が燈り始めた頃、昨日買った紺色のワンピースを着て外に出た。

 

 夜の八時まではまだずいぶん余裕があったが、この町の夜を目にするのは初めてだったので、早めに出て歩いてみる事にした。

 

 この町にはテレビは無いが、本屋はたくさんあるようだった。しかし売られている本の作者は聞いたことの無い名前ばかりだし、出している出版社の名前も私が生きていた世界には無い名前の会社ばかりだった。

 

 化粧品店もあった。材料はほとんどが食用の花や聞いたことの無い名前の野菜で、町に住む人々の手作りだった。食用の花の専門店が多く並んでいたのは、その為だったのだ。

 

 生きていた頃に使っていたのと似た色味の化粧品を少しだけ買って、顔に塗った。待ち合わせまで、あと四十分以上ある。

 その時だった。


「あ。いた。」


 化粧品店を出て、ケータイで店の位置を確認していると、ごく最近に聞いた事のある声がした。


「ちょっと早すぎるんじゃねえか。真面目すぎだろあんた。」


 顔を上げると、そこには仁がいた。

 不精ひげは昨日よりも伸びていたし、服も昨日着ていた物と同じだった。フケは溜まっていないから、一応風呂には入っているらしかった。かすかに石鹸の様な香りもした。


「仁君も今行くところなの?」


 早すぎるのはそちらでは無いか、と言いかけると、

「俺は飲み物買いに一回出てきたんだよ。」

と言って、右手に持った紙袋を見せてきた。

「まあいいや。飲みには少し早いけど行くか。」


 飲み物を買いに出てきた、という事は、これから行く所は飲食店では無いのだろうか。そんな疑問をよそに、仁は淡々と前を歩いていく。


 仁は筋肉質なのに姿勢が良く、背はそんなに高くないのに、やたらと存在感のあるシルエットをしていた。

 

 ポケットに手を突っ込んで堂々と歩く姿は、きっと生前も気力が体から湧き出しているのが目に見えるような、たくましい青年だったのだろうと想像できた。


 本当に、私とは正反対の人間だ。ふと、そんな青年が、なぜこんな若さでこの世界にいるのだろう、と思ったが、さすがに直接聞くことはできないと思った。


「ついて来てるか?」


 ふいに仁が振り返って立ち止まった。見失わないように速歩きで追いかけていた私は、急に止まられてぶつかりそうになり、慌てて踏ん張った。


「近っ。」

 

 仁が顔を丸めた半紙のようにして笑った。

「俺歩くの速えってよく怒られるから、悪いね。」

「大丈夫。私もよく歩くの速いって言われるから。平気」

 

 そう言うと、仁は私の顔をまじまじと眺めて「嘘くせえ。」と笑った。


「あ、悪い。ちょっとここに寄ってくからな。」

 そう言った仁の指差す方向に目を向けると、おとぎ話に出てくるかの様なかわいらしい外観の喫茶店がそこにはあった。


 ピンク色の屋根の、小さな建物の入口には、淡い色の花がたくさん植えられていて、中から温かそうな料理の良い香りと、賑やかな笑い声が聞こえていた。


 もしかして、私に気を使ってこんなかわいらしい店を選んでくれたのだろうか。

 

 しかし、こんなかわいらしいお店の中に、こんな山で獲物を仕留めてきたばかりの猟師か、一仕事終えた後の木こりのかの様な仁が入っていったら、お客さんが皆驚いてお茶の入ったカップやお皿を落としてしまうのでは無いかと思ってハラハラとした。


 仁はそんな私の気も知らず、金色の華奢なドアノブを躊躇無くその大きな手で掴み、ドアを開けて中に入って行った。


 自分も入った方が良いのだろうかと迷っていると、仁がその目鼻立ちのくっきりした顔をドアの中からひょいと出して、「ちょっと待ってろ。」と言い残し、私を置いて一人で中に入って行った。


「わりいね。待たせて。」

 数分して、仁は戻ってきた。手に小さな鍵を持っている。

「今日飲むの、あそこな。」

 

 そう言って仁が顎で指した場所に視線を合わせると、この店のちょうど脇に、地下に続く階段があることに気がついた。


 その階段は、先ほど仁が入っていった店とは正反対で、静かでどこか冷たい空気を醸し出していた。


 仁について行って階段を下りると、町の暖かい空気とは裏腹の、ひんやりとした風が顔に当たった。


 階段の下には木製の飾り気の無いドアがひっそりと佇んでおり、開けようとした仁がふとこちらを振り返った。


「そういえばお前、大きい音とか大丈夫?」

「え?」


 一瞬どういう意味か分からなかったが、一応大丈夫だと答えると、


「そうか。でも気持ち悪くなったらすぐ言えよ。」


 そう言うと、重そうな扉を一気に開けた。


 冷たかった空間に、急に熱風が吹いて来る。そして大きく、しかしどこか懐かしい音色で奏でられる、聞き慣れた音楽が聞こえた。


 奏でている演奏者は、本来の曲のテンポより大分ゆっくりと、所々つっかえながら、しかし丁寧に一音一音、その曲をつむいでいた。


 懐かしいその曲の名前を、私は、はっきりと覚えていた。


「ショパンの子犬のワルツ。」


 私がつぶやくと同時に演奏が終わり、中から割れんばかりの拍手が、ぶつかり合う波のように沸き上がった。


 背伸びをして、仁の大きな背中ごしに室内を見る。


 観客が三十名も入れるかどうかの小さなコンサート会場のステージ。古びた艶のない小さなグランドピアノの前で、誇らしそうにお辞儀をする女の子の姿が、そこにはあった。

 

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