第6話 震える足

 生きていた頃の私の方が、死んでいる様だった。

 

 学生時代から何の取り柄もなく、目標も無かった私は、地元の短大に入り、家政と少しのコンピュータの扱い方を学び、新卒と同時に派遣として小さな会社の事務員として働き始めた。


 派遣の契約が切れると同時に、短大時代の友人から今の職場を紹介された。社員数もわずかな小さな会社だったが、はじめて正社員として働ける事になり、離れて暮らす両親は喜んでくれた。

 

 入社したその日、業務の説明を一通り終えられた時にはもう二十二時を回っていたけれど、オフィス内にはまだ多くの社員が残って仕事をしていて、その全員が残業手当はもらっていないと説明された。

 

 自分よりずっと良い大学を出て、自分よりずっと優秀な先輩達が無給で毎日残業していた。


 私には、その事実が全てだったのだと思う。私なんかよりずっと優秀な人々が、お金をもらわず毎日寝ずに働いているんだから。

 休まずに働いているんだから。と。


 本当は全員が頭の片隅で何かがおかしいと思っていたと思う。でも誰も、働く手を止めることができないでいた。

 思考する力自体を奪われている様だった。


 ある日の朝五時、社用携帯がけたたましい音を立てて鳴り響いた。入社時、私に業務の説明をした先輩だった。つい三時間前に帰宅し、布団に入った私は、その着信を聞きながらも、電話に手を伸ばすことができなかった。あと五分だけ眠ったらかけ直そう。お願いします、あと五分だけ横にさせて……


 そう思った時だった。今度は私用の携帯が鳴った。同じ先輩からだった。

 

 さすがに驚いて、布団から顔を出した。

 三分間、休む事無くけたたましい音を鳴らしていた携帯の音が止むと、今度は社用携帯の方が再び点滅し、激しく着信を鳴らした。

 

 次の瞬間、私用の携帯にメールが一通入った。会社のパソコンからだ。

「明後日が締め切りの書類、出してないのお前だけだぞ。出社と同時に俺のところへ持って来る事。そして電話にはすぐ出ろ今すぐ。」

 

 背後では、まだ携帯が怒鳴り声の様な着信音を鳴らしていた。

 

 心臓が急に縮んでいくみたいな感じがして、それらを掴んで台所の流しに投げるように置いた。再びベッドに潜り込む。自宅で食事を取る事なんてここ数ヶ月無かったので、流しには水気など一切無く、乾ききっていた。

 

 一時間近く着信が鳴りつづけた所で、一旦記憶がぷっつりと消えた。


 次に思い出したのは、歩道橋から見下ろした早朝の道路のアスファルト。


私の最後の記憶だった。


 

…………


 


 夢から覚めると、額にも背中にもぐっしょりと汗が濡れていた。


 目覚めた場所がどこなのか、一瞬分からなかった。体を起こし、見慣れない小さなクローゼットやグリーンのカーテンが目に入ってきた瞬間、自分が居る世界がどこなのかを思い出した。


 テーブルには、昨日食べきれなかったサンドイッチの残りが置いてあった。生まれて初めて見た野菜が挟まれたサンドイッチ。


 念の為窓も開けると、外は見慣れたオフィス街の見える風景では無く、みずみずしい緑の葉が重なり合う新緑の町だった。


 まだかすかに震える両足を床につけ、ゆっくりと立ち上がる。


 何かしなければ、と思って、ケータイを左の手に取った。


 生活に必要な物を買いに行かなくては。

 仕事も探さなくてはだめなのかな?

 職業安定所みたいな所があるのかな……。


 色々な考えが頭の中に出ては消え、出ては消え、と繰り返した。

 しばらく立ち尽くした後、私はケータイをテーブルに置き、吸い寄せられるようにベッドに横たわった。


 窓の外から光が差しているのが見えた。

 

 今日はまた、昨日と同じパン屋でサンドイッチとコーヒーを買って来て、仁と約束をした夜の八時まで何も考えずゆっくり過ごそう。

 

 そう思ったとき、再び頬に涙が流れた。

 今度は悲しい涙でも無く、寂しい涙でもないことが自分でもはっきりとわかった。

 

 きっとこれは、生まれて初めて流す、安堵の涙なのだと思う。


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