第4話
ー15年前
「きゃっ!」
「おっと、失礼」
まりが書類を抱えて、18階の廊下を小走りで法務部に向かっていると、エレベーターホールから出て来た男性とぶつかった。大柄でがっしり体型が相手では、うさぎのようなまりでは勝負にならない。ぺたんと尻餅をつき、持っていた書類は男性の足元を通り過ぎて床に散乱してしまった。
「申し訳ありません!」
太ももまで露わになったスカートを慌てて元に戻し、さっと立ち上がリぺこっと頭を下げる。咄嗟の時でも、まりは可愛い仕草を忘れない。自分のことを相手に印象付ける、まりの作戦である。万が一嫌な男だったら、すっと真顔に戻り、興味のない素振りをすれば良い。
「ラガーマンに正面からタックルだからね。大丈夫?」
樋口は笑顔でまりにそう言うと、落ちている書類を拾いだす。
「そんな、書類、すみません。いえ、あの怪我とか全然平気です。あっ、失礼しました。私、穀物部油脂課に配属され」
「まりちゃんだね。経営企画室の樋口です。よろしく」
(来たー!よしっ!)
「樋口副室長ですね。お噂は麻衣、じゃなくて笹本さんから伺っています。でも、どうして私のことをご存知なのですか?」
樋口がまりのことを知っていただけでなく、“まりちゃん”と呼んでくれたことが嬉しくてならない。
「笹本さんから同期に“まりちゃん”って言う可愛い子がいるって聞いていたからね。想像通り、いや、想像以上の可愛いさかな」
樋口は丁寧に揃えた書類をまりに手渡しながら、反対の手で表紙の“起案部署”を指差す。
「穀物部の若い子は君だけだからさ」
「何なのよ」
笹本は、まりからのラインを見て、思わず声に出してしまった。
《樋口さんと運命の出会い♡ 私のこと“可愛い同期”って話してくれて感謝‼︎“まりちゃん”って呼んでくれたよ‼︎ 持つべきは親友〜だね✌︎》
来週の経営会議で審議する組織改革の資料作りに忙しく、笹本は大きな舌打ちを止められなかった。
「笹本さん、どうした。苦戦してるのか?」
「いえ。失礼しました」
机の下で隠すように見ていたスマホをポケットにしまい、笹本は「う〜ん」と伸びをしながら立ち上がる。
「コーヒーブレイクします。副室長もいかがですか?」
「ありがとう。悪いね」
「いつも通りで?」
「うん。ミルク多めで頼むよ」
樋口はいつも砂糖なしのミルクありでコーヒーを飲む。たまに「ミルク多め」と言う時は、樋口が疲れている時だ。本当は甘くしたいのだが、ミルクのほのかな甘みで我慢しているようだ。
「麻衣ちゃーん。俺にも濃いーのを1杯頼むよ」
斜め向かいの席から5年先輩の田嶋が、両手を合わせて拝んでいる。田嶋は同期の中では突出した存在で、鉄鋼本部時代は樋口の部下として、大きな契約を次々と物にした。斬新なアイデアによる新たなビジネスも、後任に引き継がれて事業化が検討されている。樋口が経営企画室に異動する時、田嶋を引き連れて来たのだ。今回の組織改革は、田嶋の素案が採用されている。
ただし、おしゃれや身だしなみには無頓着で、よれよれのワイシャツからアイドルのTシャツが透けて見えたこともある。小さな鋏を器用に使って、鼻毛や指毛をデスクで切る田嶋を見る度、笹本は嫌悪感を催す。
「コーヒーは2杯しか持てませんので、ご自分で淹れて頂けますか?」
笹本の言い方は丁寧だが、強烈な拒絶反応が見て取れる。
「冷たいなぁ。それじゃあ自分でやりますか」
田嶋は全く気にする様子はなく、「まぁ3杯は持てないわな」と言いながらドリンクコーナーへと歩いて行く。
「副室長。“麻衣ちゃん”はセクハラです。止めるよう田嶋さんに言って頂けませんか?」
笹本は顔を上げた樋口の目をぐっと見据えた。
「分かった。後で注意しておくよ」
樋口は、少し口角を持ち上げて軽く頷く。
(“まりちゃん”って呼んだんだ)
笹本は、まりのラインを思い出し、コーヒーより苦いものが込み上げて来るのを感じた。
ー2年前
「それで星野さんは、なぜオフィス清掃の仕事をしてみようと思われたのですか? ご経験はありませんよね?」
簡単な雑談の後、採用担当者が星野の履歴書を見ながら質問を始める。テーブルに置かれた名刺には、総務部人事グループ課長代理とある。如才ない語り口だが、本心では「どうせ長続きはしないだろう」と思っている。
単純で楽で定時で上がれる仕事。オフィス清掃を知らない求職者は、この程度の認識で面接に来る。しかし採用後、半年も経たずに辞める者は意外に多い。
オフィス清掃は朝早いのだが、これは誰でも知っている。働き出して思い知るのが、早朝のオフィスは、夏暑く冬寒いということである。夏の暑さは最悪で、特に休み明けは熱気が籠っていてサウナ状態だ。勝手にエアコンを使えないので、汗だくで作業をしなければならない。
また何かが無くなると、真っ先に清掃員が疑われる。
「誤ってブルーのファイルがゴミとして回収されていませんか?」
こんな問い合わせはまだ良い方で、多くが清掃員を犯人と決め付けて文句を言って来る。
「コピー用紙をこっそり持ち帰っている」
「引き出しの中の小銭を盗まれた」
「膝掛けを汚された」
ほとんどが勘違いで、たまに同僚の仕業に依る場合もある。もとより清掃員は犯人ではないので証拠もないのだが、無実の証明も出来ない。最後は業者側が『不正の確認は出来ないが、清掃員教育を再徹底する』との文書を差し出して手打ちとなる。
頑張って仕事して、それで犯人扱いじゃやってられない。辞めたくなるのも当然である。
「私、清掃の仕事を経験したことはありません。希望した理由は、この体型を何とかしたかったからです」
星野は久し振りに高揚するものを感じている。今日、初めて会った目の前の人が、星野の目を見て真剣に話を聞いてくれているからだ。
「ほう」
面接員は意外な回答だというように身を乗り出す。
「かつてはこんな体型ではなかったんです。若い頃、嫌な事が重なって、食べることで現実逃避してしまったんです。先月、前の会社を辞めて、このままではいけないと思い、生まれ変わることにしました。カウンセラーの先生に相談したら、急に変えるのは良くないから、毎日の運動も食事制限も少しずつ始めなさいと言われたんです」
「なるほど。専門家のカウンセリングを受けたのは良かったですね」
「はい。今までは内勤事務だったんですが、激しくない作業ならオフィス清掃が良いのではと思ったんです。想像以上に大変な仕事かも知れませんが、その方が私には好都合かも知れません。それに私、人付き合いが苦手ですから」
「星野さんのお考えは良く分かりました。後ほど“想像以上に大変な仕事ですよ”と申し上げるつもりでしたが、それも承知しておられる訳ですから、安心しました」
「あの、私、仕事をエクササイズ代わりのような言い方をしましたが、真面目に働きますので」
「それは分かっています。でも仕事を通して自己実現なんて素晴らしいじゃないですか。それと先ほど“人付き合いが苦手”と言われましたが、本来は明るく社交的な方なんだろうと推察します。今の星野さんは活き活きと話されています。とても魅力的ですよ」
「魅力的だなんて・・・」
星野は輝いていたあの頃を思い出す。あの頃に戻れそうな気もする。男性から優しい言葉を掛けられるのは何年振りだろうか。
星野はその場で採用が決まった。まずは時間給の契約社員だが、働き振り次第で正社員になれるようだ。
「星野さんなら大丈夫ですよ。私も気にかけて置きますから」
面接員は余程星野が気に入ったのか。あるいは誰に対しても同じことを言っているのかも知れない。星野は楽観的に考えることにした。
そしていよいよ勤務地の希望を聞かれた時は、不自然に聞こえないか、怪しまれないか、慎重に言葉を選んで繋いだ。
「東京駅なら乗り換えなしで通勤出来るので有難いです。品川も魅力的ですが、最近の東京駅周辺は、ショッピングもお食事も人気ですから。もちろん職場としても最高ですね」
「そう仰る方が多いですよ。一帯は当社が所属するグループで開発していますから、勤務地も沢山あります」
「やはり本社ビルですよね」
東京駅周辺は、旧財閥で最強の企業グループの城下町である。本社ビルは言わば天守閣なので、星野が勤務地に希望しても不自然ではないだろう。
「よくご存知ですね。ご希望として承ります」
正式な配属先は研修後に決定する。研修場所は今週中に連絡があるようだ。勤務は来月からである。分厚い『清掃マニュアル』を渡され、必ず熟読するようにと念押しされた。
星野は手応えを感じていた。面接では心の内をさらけ出したように振る舞ったが、嘘がふたつある。ひとつは卒業後に星野が就職した会社を国内二番手の自動車メーカーにしたことだ。本当は正に面接で希望した企業グループの本社なのだが、勘ぐられるのを避けるために隠した。もうひとつの嘘は、肥満解消のためにオフィス清掃をしたいと言ったことだ。
「私の自己実現はダイエットではなくて、あいつらに復讐することなんだよね」
もちろんダイエットが出来ればそれも良い。あの時の見下した清掃員への贖罪の気持ちも少しはある。ただ考えれば考える程、復讐の気持ちが勝って来る。かつての恨みを晴らして給料まで貰らえるなんて。星野は新たな生き甲斐を見い出し、身震いするほどの快感に酔い痴れた。
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