第5話
ー15年前
「まり、何の用事?まだ昼休みじゃないよ」
「失礼します。樋口副室長はいらっしゃいますか?」
まりは笹本の問い掛けを無視して、扉口から経営企画室をうさぎのようにきょろきょろと見回している。誰かに見られることを前提に、表情と仕草が舞台女優のように大袈裟である。
「まりちゃん!こっちこっち!」
窓際に2つ並んだ大きな机から、樋口が眩しい笑顔で手招きしている。まりはぴょんぴょんと跳ねるように、樋口に駆け寄る。
「穀物部発案の大型投資案件です。よろしくお願い致します」
M商事では一定の金額を超える投資は、経営企画室の事前審査が必要になる。
「分かった。じゃあ少し説明して貰おうか」
「いえ、私、内容は・・・」
「いいからいいから。笹本さん、コーヒーを頼む」
「申し訳ありませんが、今手を離せません」
「じゃあ私がやりましょう。ついでに同席させて頂きましょうか。うさぎちゃんとの打ち合わせに」
田嶋はいそいそとドリンクコーナーに歩いていく。
(“まりちゃん”“うさぎちゃん”って何よ皆んな!何で私がコーヒーを出さなきゃならないのよ!)
笹本がキーボードを叩く音が一際大きく響く。樋口は、まりの腰を抱くような仕草で2人して応接室に入って行く。そして田嶋がお盆にコーヒーを4杯も乗せて戻って来た。
「笹本さんもコーヒーどうだい?」
「結構です!」
「そう。じゃあ私が2杯飲むか。笹本さん、コーヒーは2杯しか持てないって言ってたけど、お盆を使えばほら、こんなに持てるよ」
「私、お菓子作りが趣味なんです。昨日沢山作り過ぎたんで、会社に持って来ました。樋口副室長、いかがですか?甘いのはお嫌いですか?」
お菓子作りが趣味というのは、嘘である。まりの妹が得意で、頼み込んでクッキーを焼いてもらったのだ。
「こう見えてスイーツ好きでね」
樋口のスイーツ好きもまた嘘である。苦手という方が正しい。
樋口はクッキーをぽいと口に放り込むと、豪快にボリボリと噛み砕く。
「うん。上手い!」
「よしっ!よしっ!よしっ!」
まりは得意の両手を握りしめるポーズを3回繰り返して喜びを表現する。
「お待たせでーす。コーヒーをお持ちしましたー」
田嶋は樋口とまりの前にコーヒーを置くと、少し悩んだ後、まりの隣に腰を下ろすことにした。2人掛けのソファーに、不自然なほどまりの近くに寄っている。
樋口は「ありがとう」と言い、ポーションのミルクを2個入れてコーヒーをかき混ぜる。まりは「いただきます」と呟き、カップを両手で包み込むようにして「ふーふーふー」と唇をすぼめる。異性を意識して、可愛く見られたい時のまりお得意の仕草だ。
「ほぉー。手作りか?どれどれ」
田嶋は摘んだクッキーの半分程をかじり、草食動物のように丁寧に口を動かした後、“たん”とひと鼓打つ。
「いや、これはなかなかのもんだ」
「ありがとうございます」
これには余り感情が籠もっていない。勝手にクッキーを食べられて、まりにとっては迷惑である。しかも、ラズベリーを練り込んだハート型の大きなクッキーをやられてしまったのだ。1つしかない、特別なものだったのに。
「あのー」
「あっ、これは失礼。田嶋です。よろしく。君のことはうさぎちゃんで良いよね」
田嶋は“ずーっ”と音を立ててコーヒーを飲み、ハートの残りを頬張る。
「どう、仕事は楽しくなって来た?」
樋口はコーヒーを口元に運ぶが、目線はまりに向けたままだ。日焼けした額にしわが刻まれ、男らしさを感じさせる。
「まだ分からないことが多くて、楽しむ余裕なんてないです」
「まりちゃん。商社の仕事はね、本人次第でどこまでも掘り下げられるし、どんどん広げることも出来るんだ。余裕ではなくて、成長し続けることを楽しむのさ」
「私達の仕事はサポートとかアシストですけど、同じことが言えるんですか?」
「もちろんだよ。受身ではなく、積極的なサポートやアシストを期待しているよ」
「はい!樋口副室長とお話ししていると、何だかとても前向きな気持ちになれます。あのよろしければ、またお話しするお時間を頂けますか?」
「もちろん。いつでも喜んで」
「わぁー、ありがとうございます!」
まりは心底嬉しそうな笑顔で樋口を真っ直ぐに見る。一瞬の静けさの後、隣で“ずーっ”と音がした。田嶋の存在を忘れる程、まりは樋口との会話に集中していたのだ。
知らない間にクッキーがなくなり、田嶋は2杯目のコーヒーを旨そうに飲んでいる。まりの目的は果たしたので、クッキーはもうどうでもいい。
「そろそろ行かなくちゃ」
まりは空になった箱を手提げ袋に入れ、薄いプラスティックカップをホルダーから外してまとめる。ほぼ同時にまりと樋口は立ち上がるが、田嶋は悠然とコーヒーを飲んでいる。
「ごゆっくり」
「うさぎちゃん、ご馳走さま。またよろしく」
まりと樋口は楽しそうに話しながら、経営企画室の部屋を出て行った。笹本は睨みつけるような目で見ていることに気付いていない。
(まさかこのまま2人でお昼に行く?)
それならまりと同期なんだから、笹本にも声を掛けるはずだ。
(トイレだ。きっとそうに違いない)
笹本は何とか湧き上がる不安を抑えようとする。
「いやぁ、うさぎちゃんの手作りクッキー美味しかったな。ねぇ、笹本さんもお菓子作りとかするの?」
「女性は皆んなしなければいけないんですか⁈」
笹本が振り向いて睨みつけると、にやけた田嶋がお盆を持って立っている。口元に付いたクッキーの欠片が、笹本を一層腹立たしくさせる。
ー2年前
「おはようございます。星野と申します。今日はよろしくお願いいたします」
「福田です。こちらこそよろしくお願いします。早起きは辛くなかったですか?」
「正直言いますと辛かったです。今もまだ頭がすっきりしなくて」
「直ぐに慣れますよ。人によりますけど、1〜2週間くらいで無理なく起きられるようになります」
「そうなんですか」
「ただし、お休みの日にだらだら寝てると、休み明けの朝が辛くなります」
「体が元に戻ってしまうんですね」
「そういうことです。だから、お休みの日も出来るだけ早起きして、夜は早目に寝ることですね」
「分かりました。ありがとうございます」
今日は星野の初出勤日である。配属先を決める前に、ベテラン清掃員についてOJTで指導を受けることになっている。御茶ノ水駅から少し離れた7階建の雑居ビルが今日の研修場所である。そしてこの指導員の評価で配属先が決まる。星野が希望する本社ビルで働くためには、福田から高評価を貰わねばならない。
星野は指導員の福田と会話してみて、ほっとする思いであった。とにかく優しくて、話しやすいのだ。肥満気味なのも親近感が持てる。母親と姉の間くらいの年恰好だろうか。
「星野さん。清掃マニュアルは読みましたか?」
「はい、と言いたいのですが、すみません。最初は赤ペンで線を引いたりしていたのですが、途中からは読み飛ばす感じで・・・」
「結構ですよ。では最初の10ページはちゃんと読みましたか?」
「はい。そこはしっかりと読みました」
「それなら大丈夫です。第1章は清掃員マニュアルになっています」
「清掃員マニュアル?」
「そうです。清掃マニュアルではなく清掃員マニュアルです」
「何が違うんでしょうか?」
「第2章以降には、清掃の仕方が具体的に写真付きで説明されています。でもそれは技術的なことですから、今日からの研修であったり実際の仕事で覚えることが出来ます」
「思い出しました。第1章には清掃員の心得とか、やってはいけないことが書かれていました」
「そうです。第1章の内容は、清掃作業全てのベースになるものなんですね。例えば『机の上の物に触れてはいけない』と書かれています。星野さん。机の上に丸めたメモ用紙があるとします。どうしますか?」
「何か大切なことがメモされている可能性があるので、そのままにしておきます」
「正解です。恐らくそれはゴミだと思います。でも勝手に捨ててはいけないのです」
「よく分かりました」
ひとつひとつ説明を受けながらの清掃作業であるが、体力的に相当きつい。様々な清掃道具や紙ゴミはとにかく重いのだ。ひと部屋が終われば次の部屋へ。ひとフロアが完了すれば下のフロアへ。
「星野さん、大丈夫ですか?」
「はい・・大丈夫・です」
「少し休憩しましょう。椅子がないので、バケツに段ボールを敷いて座るのよ。こうやって」
「私が座っても・・・」
「案外丈夫だから心配ないですよ。男性清掃員も皆んな座ってますから。でもそっとね」
星野は福田と顔を見合わせて笑った。
「私こんなに汗をかいたの久し振りです。高野さんは全然平気そうですね」
「私も最初は星野さんと同じでしたよ。段々慣れて来ると、無駄な動きがなくなったり、力の抜き方が分かるようになりますよ」
「初対面で失礼なこと聞いて良いですか?」
「どうぞ」
「この仕事を始めて少しは痩せましたか?」
「まあ。ズバリな質問ね」
「ごめんなさい」
「良いわよ。そうねぇ、5キロは痩せたかな」
「たった5キロだけですか?あっ、すみません」
「そう思うでしょう?慣れて来るとね、やたらお腹が空くの。お酒も美味しくて、どんどん量が増えちゃって」
「貴重なアドバイスありがとうございます」
「星野さんも頑張って少し落とさなきゃ」
「頑張りまーす!」
2人はぐっと距離を縮め、お互い砕けた物言いに変わって来た。星野の当面の目標は本社ビルに配属されることである。福田から高評価を得る必要があるが、人情も少なからず評価に影響するものだ。
初日の仕事を終えて家に帰り着いた時、星野は倒れ込むようにソファに寝転んだ。ギシギシと嫌な音がする。目を閉じたら数分意識が遠のいた。力を振り絞って立ち上がり、何とかシャワーを浴びる。眠気は一層強くなるが、星野はテーブルの清掃マニュアルを開いて今日の復習を始めた。
本社ビルに配属されるため、しんどいとは言ってられない。
(明日、福田に会ったら復習したことをさり気なくアピールしよう)
何度も寝落ちしそうになりながら、星野は何とか復習をやり遂げた。
翌早朝、目覚めると全身が悲鳴を上げている。目を瞑れば一瞬で深い眠りに戻れるだろう。そんな誘惑を押し返し、星野はベッドから抜け出た。
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