第3話

ー 15年前

「ねえ聞いて。昨日も“リマ”節炸裂よ」

「“リマ”の話しはもういいよー。とか言って何々、早く教えて」

昼休み。まりがトイレで用を足していると、歯磨きしながらの会話が聞こえて来る。

(リマ?)

“ペっ”と吐き出し、丁寧に口をゆすぐ音がする。

「行くよ。こうして両手をぎゅっと握りしめて、“私、何でも美味しくもりもり食べる」

「ちょっと!」

急にひそひそ声になり、まりにはよく聞き取れなくなった。耳をすますと「・・やばい」とか「まさか・・」などと聞こえる。程なく2人の足音が遠ざかり、ドアの閉まる音がした。

それからは入れ替わり立ち替わり、午後の始業開始を前に女子トイレは最も賑わう時間だ。一際大きなハイヒールの音は、まりと同じ穀物部油脂課の課長代理である水谷だ。

(水谷代理・・・)

大柄で押し出しの強い水谷を思い出すだけで、いつもまりは圧倒される。しかし今はまりの意識の中で、水谷はどんどん小さくなり遠ざかって行く。

まりは便座から立ち上がれず、何度も2人の会話を反芻する。あの声の主は畜肉部の清田と水産部の中島に違いない。2人は同期入社らしく仲が良い。まりの1年先輩で部署は違うが、同じ食糧本部なので、何かと優しく接してくれる。

(聞き間違えなのか)

(“何でも美味しくもりもり食べる”って、昨日、私が言ってた・・・)

(両手をぎゅっと握りしめるのは、私の決めポーズよ)

(そしてリマ、リマ、リマ・・マリ?、私!)


「お昼休みは1時までよ」

「すみません。少し気分が悪くてトイレにいました」

「あら、そうだったの?そう言えば顔色が悪いわ。大丈夫?」

「はい。もう大丈夫です」

「無理しないで。仮眠室で休んでも良いのよ」

「ご心配をお掛けして申し訳ありません。本当に大丈夫です」

「そう。じゃあこの書類を法務部に届けてくれる。今日中のチェックをよろしくと念押ししてね」

「分かりました」

水谷は課長代理として油脂課の内勤業務を取り仕切っている。まりの直属の上司だ。

「まりちゃん。これ油脂課宛の荷物よ。どこに置く?」

「あっ、すみません!」

まりは振り返り、思わず息を飲む。心臓がドクンッと跳ねる。畜肉部の清田が、いつもの笑顔で台車の荷物を指差している。

(さっきトイレで私のことを“リマ”と呼び、私を真似て笑っていた清田さん)

(人懐っこい笑顔で私を“まりちゃん”と呼ぶ目の前の清田さん)

(人違いだったの?私の聞き間違え?)

「まりちゃん、どうしたのよ。私の顔に何か付いてる?」

「あっ、ごめんなさい。荷物ありがとうございます。後は自分で運びます」

「重たいわよ。1人で大丈夫?」

「ええ、大丈夫です。先月も1人で運べましたから」

「まりちゃん、見かけによらず力持ちね」

清田は力こぶを作る仕草をし、鼻にきゅっとしわを寄せて悪戯っぽく笑う。

(やっぱり清田さんと中島さんじゃなかったんだわ。そして私の噂話でもなかった。単なる偶然。全然関係ないことで気が滅入ったりして損しちゃった。清田さんの笑顔を見てると、そう考えて良いだろう)

「ほら、急いで!」

「はい!」

まりは書類を挟んだクリアファイルを大事そうに胸の前で抱え、軽やかに18階の法務部へと歩いて行く。


ー2年前

「あっそうだった」

朝起きて、出勤の支度を始めてしばらくしてから気付いた。思わず声に出してしまったが、驚くほど掠れて沈んだ声であった。

星野は昨日で5年間勤めた会社を辞めたのだ。暫くは引き継ぎなどで出社すると思っていた。まさか辞表を出したその日に辞めることになるとは、拍子抜けである。退職に伴う諸手続きは、総務課長に言われるまま書類に捺印した。何か星野に不利になることはなかったのか、確認しようもない。

失業保険はどうするか。

(何度もハローワークに通うのは面倒だ)

星野には多少の蓄えがある。少しのんびりしてから、慎重に次の勤め先を探すことにした。星野の体型では職種も限られる。接客に興味はあるが、雇ってくれる所などまずないだろう。これといった資格や特技もなく、単純なデスクワークしか出来ない。

「案外私向きの会社だったかな?」

よく考えた末の退職だったが、少しだけ後悔している。三上の存在以外、楽しいことなど1つもない職場だったが、こんな星野でも正社員として雇ってくれたのだ。貴重な会社だったと、星野は改めて思い知った。

星野は大学を卒業して大手企業に就職したが、訳あって辞めた。今回で2度目の退職になる。37才で独身。この先ときめくような出会いも、ハッピーな出来事も起こりそうにない。

同じ一人暮らしでも三上は“寂しい女”に見えなかった。かと言ってバリバリ仕事に打ち込む訳でも、趣味に生きるタイプでもない。美人で優しくて、頭が良い。異性からも同性からも好かれる。“自然体”という表現が最もしっくり来る。

星野の肥満は、“ぽっちゃり”とか“ふくよか”などとはレベルが違う。それでも明るい性格なら人気者になっていただろう。コミカルな動きが出来たなら、周りは笑えたかも知れない。しかし星野は陰気で社交性がない。皆んなが自分を不思議な生き物のように見ていると思え、常に下を向いている。

かつてはこんな体型でも性格でもなかった。星野にも輝いて幸せな日々があったのだ。1日に1度はあの頃を思い出す。習慣、いや趣味と言ってもいい。嫌なことを束の間忘れることが出来る。ただその後が辛い。死にたくなる程に落ち込むのだが、一種の麻薬だからやめられない。


2週間ほどのんびりと過ごして、ようやく星野はノートパソコンを開いた。どうでもいいメールが山ほど来ていて、何も見ずにまとめて消去した。求人サイトで“事務”“定型業務”などを選択して検索する。大量にヒットするが、データ入力業務がほとんどだ。星野は指が太いので、早打ちは苦手である。

(自分のペースで毎日決まった作業量をこなし、定時で上がれる仕事はないかな?)

このご時世にそんな求人などあるはずがない。まして正社員で中堅の基本給を希望していては、永遠に勤務先は見つからない。

(思い切って、体を動かす仕事にするかな?)

星野の今一番の悩みは、その肥満体型である。今のままで高齢にはなりたくない。医学的な根拠があるのか分からないが、長生き出来るとは思えない。

食べる量を減らし、運動量を増やせば良いというのは、理屈では分かっている。実際ダイエットは何度もチャレンジして来たが、3日も続かない。また休日にウォーキングもしてみたが、お腹が空いて結局普段より多く食べてしまう。

毎日続けるなら、体を動かす仕事に就けば良いのでは? 星野は希望を見出した思いで、“軽作業”と条件設定して検索してみた。惣菜工場、警備員、スーパーの品出し。星野には“重労働”としか思えない。

「オフィスの清掃?」

星野は思わず声に出して読んでいた。最初に就職した会社で、たまたま早朝に出社した時のことを突然思い出した。作業着姿の太った年配の女性が床に掃除機をかけたり、ゴミ箱のゴミを集めていた。

「おはようございます!」

笑顔で挨拶されたのに、星野は見下した態度で挨拶を返してしまったのだ。大手企業の社員と清掃作業員。その時は当然と思っていたが、今思えば恥ずかしい。人として最低だ。

(清掃員を派遣する会社で働てみようか)

なぜ急にそんな気になったのか星野自身にも分からないが、凄く良い考えのようにも思える。肥満体型を少しでも解消するために。あの時の清掃員への贖罪のために。

星野は本心からそう思ったのだ。そして、もしかしたら、あいつらに仕返しが出来るかも知れない。星野が会社を辞め、こんなに太る原因を作ったあいつらに。

(そんな偶然は、ないか。でも不可能ではない)

時間はいくらでもある。星野は久し振りに高揚するものを感じていた。


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