第2話
2.
ー15年前
「まりは何でうちに決めたの?」
「だってお給料がいいでしょう?私、社内結婚が前提なんだ」
まりは会社帰りに、同期で経営企画室の笹本麻衣とスペインバルに来ている。笹本は相当いける口で、既にワインボトルの2本目も半分くらいだが、ほとんど彼女が飲んでいる。
「酔いたい時はバーボンをストレート」
始めての同期の飲み会で、並み居る酒豪自慢を撃沈させ、「酔ったことある?」と聞かれた時の笹本の名台詞だ。まりもかなり飲めるのだが、“キャラ”を維持するために外ではあまり飲まないようにしている。
「まあ確かにそうね。それで未来の旦那候補はいそうなの?」
「私、年下は絶対嫌なの。だから今いる人達から選ぶことになるでしょう?30才までに結婚するとなると、まあ今の20台は全部対象外かな」
「どういうこと?」
「だってその年では将来出世するかどうかなんて分からないじゃない。コースに乗っているかどうか見極めないとね」
「それだとかなり年上になるよ」
「私、年が離れていても平気よ。でも離れ過ぎは勘弁だがら、“若くして頭角を現した”人がいいわ。旦那さんには最低でも役員になってもらわなきゃ」
「まりってさ、可愛い顔してお嬢様に見えるけど、相当なもんだね。昔なら“ぶりっこ”、今なら“あざとい”ってやつかな。根っからならバカだけど、まりはビジネスでやってるから凄いよ」
「そうかしら。私は自分に素直なだけだと思うけどな」
まりはワイングラスを軽く傾け、可愛い舌でぺろっと上唇を舐める。ほとんど飲んでいない。
「あー美味しい!」
「そんな飲み方で美味しい訳ないじゃない」
笹本は本音しか言わない。まりは十分練られた台詞だけを言う。相手の言うことが興味深いのだろう、2人だけで良く飲みに行く。もっとも2人揃って同期の中では浮いた存在なのだが・・
「そうそう、麻衣にお願いがあるんだ。麻衣は経営企画室だから、全社の優秀な社員情報が集まって来るでしょ?」
「まぁ仕事柄ね。まり、言っとくけどさ、青田買いするから教えろとか出来ないからね」
「ううん。親友の麻衣に迷惑かける訳に行かないわ。私が名前を言うから、丸、バツ、三角で教えて。二重丸もあれば最高よ」
「同じことでしょ!それから親友なんて勝手に決めないでくれる」
「私、同期の中で2人で飲みに行くのは麻衣だけだよ。これって親友でしょ?」
まりは平凡な家庭で育った。父親は地方の私立大学を卒業し、本社が千葉にある食材問屋に就職した。定年退職を3年後に控え、ようやく課長に昇格した。もっとも部下のいないプレイングマネージャー、いわゆる名ばかり管理職だ。母親とは社内結婚である。
父親は就職活動で挫折を味わい、社内の出世競争にも敗れた。本人の才能や努力は脇に置き、全て地方大学出身のせいにした。これは自分勝手な解釈で、現に彼の上司は高卒の年下である。
1人娘のまりを大企業に就職させようと、とにかく塾には金を惜しまなかった。母親もパートを掛け持ちして家計を支えた。まりは両親の期待に応え、部活には入らず、友達も作らず勉強に明け暮れた。その甲斐あって、まりは超有名私立大学に合格した。
初めて化粧をした入学式の日、鏡の中の自分に驚いた。
「これが私⁈」
小顔に大きな瞳。口角を上げたり、唇を尖らせたり。少女漫画のヒロインになりきり、仕草や話し方も真似た。
サークル、バイト、合コンと毎日が楽しくて仕方ない。まりは周りの男たちからチヤホヤされる喜びを覚えた。ミスキャンパスから情報番組の女子大生レポーター、そしてキー局のアナウンサー。まりは目標を定め、自分磨きに励んだ。
しかし上には上がいて、ミスキャンパスに選ばれた子とはレベルが違う。あっさりと方向転換した。大企業に就職して社内結婚、そして役員夫人。目標が決まれば行動が変わる。真面目に講義に出席し、“優”を積み重ねた。そして希望通り、総合商社M商事の内定を得た。
「まぁ単なる同期以上ではあるかもね」
笹本はアヒージョの海老を口に放り込み、「あちっ!」と言いながらワインで飲み下す。
「ねぇ麻衣、樋口副室長はどうかな?」
樋口は笹本の上司で、経営企画室の副室長にこの春着任したばかり。将来有望な幹部候補である。
「あんた良いセンスしてるじゃない」
「二重丸でしょ? ねぇそうでしょってばぁ」
「仕方ない。他ならぬ“親友”のまりだけにこっそり教えよう」
笹本は勿体ぶるが、樋口の異動の意味は、既に社内では公然の秘密である。
元々経営企画室に副室長のポストはなかった。M商事では経営企画室長が社長への登竜門と言われている。転出時に取締役となり海外子会社の社長を5年務めたら常務取締役として本社に戻る。順調に行けば60才前半で晴れて社長になれる。
ところがライバルのM物産で50才代の社長が誕生したら、大企業で経営トップの若返り連鎖が起きた。欧米では40才代の大企業トップも珍しくない。M商事でも新たに経営企画室に副室長ポストが新設され、樋口に白羽の矢が立ったのである。37才で独身。日焼けした顔に白い歯が眩しい元ラガーマンは、鉄鋼本部の一課長から経営中枢の部長待遇に抜擢された。
「まだ着任して半年だけど、評判は良いわ。40で室長、45で米国M商事社長、早ければ55〜6で社長就任もあるんじゃない」
まりは目を輝かせ、うっとりとして笹本の話に聞き入っている。
「麻衣さん。樋口さんを紹介して下さらない?」
「何よ急に、変な喋り方して」
笹本は3本目のワインを注文した。
「もう皆んながんがんアプローチしてるわよ。まりも他人頼みじゃなくて、積極的に動かないと」
「えーそうなんだ。のんびりしてられないわ。それから割り勘は、ワイン抜きで計算してよね」
ー 2年前
「三上さん。やっぱり来月で辞められるんですね」
星野は既に涙ぐんでいる。毎週月曜日の恒例行事だ。三上の返事も判で押したように同じである。
「ごめんなさいね。もう決まったことだから」
「でも今は60過ぎても働ける制度がありますよね」
星野が勤める会社でも、定年後も本人が希望すれば、同じ部署で65才までは勤務出来ることになっている。数年前に導入された制度だが、まだ該当者は1人もいない。
星野は新たに仕入れた情報をぶつけてみたが、三上が知らない筈もない。
「社長からも残って欲しいと言われたんだけど、無理して働かなくても何とか生活は出来るし。それに何だかもう気が抜けちゃって・・」
三上が言いたいことは、星野にも理解出来る。真面目にコツコツと30年間も勤め続け、今ではベテランパート2名の担当業務を差配する。そしてミスの多い若手社員の指導係でもある。おまけに直接関係のない星野の尻拭いも買って出ている。管理職の給料を貰っても良いだろう。それでも三上は一言の不満も言わず、任された仕事を完璧に仕上げて来た。
ゴールが分かっていたから、これまで頑張って来れたのだ。ようやくゴールテープが見えるとこまで来て、さあラストスパートだというその時に・・・
「実はこの先にもう1つゴールがあるんだ。そこまで頑張ってみないか?」
もうアクセルは床まで踏み込んでしまっている。ガソリンも残っていない。今更無理なのだ。
三上が雇用延長しないと社長に伝えた時、社内はちょっとしたパニックに陥った。
「三上さんがいないと仕事が回らない。思い直すよう社長からもう一度説得して欲しい」
「最低2人のベテラン事務員を採用しないと、三上さんの穴は埋まらない」
社長の長岡が対応に苦慮していたある日、三上が厚手のファイルを長岡に差し出した。
「三上さん、これは?」
「業務マニュアルです。お役に立てば幸いです」
三上は定年で会社を去ることを決断した日から、自宅のパソコンでマニュアル作りを始めた。体系的な目次に巻末の用語集とQ&A。ざっと目を通しただけでも、完成度の高さが分かる。
「三上さん、一体いつ作成していたのですか?」
「平日は帰宅後に。週末は午後を作成の時間に充てました。毎日少しずつですので、半年も掛かってしまいました」
「プライベートの時間を潰してまで。本当にありがとう。助かります」
「ご飯を食べてお風呂に入ったら何もすることはありませんから。お酒の量が減って、寧ろ健康的でしたよ」
綺麗な歯並びを見せ、三上は照れ臭そうに笑う。とても定年退職を間近に控えた年齢には見えない。胸の膨らみと腰回りの肉付きが、上品な装いを形良く突き上げて、なんとも艶かしい色香を醸し出している。
(こんな良い女だったのか?30年間も何を見てたんだ。いっそ俺の秘書で残すか?)
長岡は自分勝手な妄想を膨らませる。
「社長。引き継ぎには最低でもひと月は掛かります。後任の採用はいつ頃になりそうでしょうか?」
「そのことなんですが、なかなか良い人材が見つからなくてね。一方で会社の業績を考えれば固定費の削減は待ったなしなんです。三上さんなら分かりますよね?」
結局、社長の長岡は三上が半年掛けて無報酬で作り上げた業務マニュアルを、人員削減に利用したのだ。
「三上さんが画期的なマニュアルを作り上げてくれました。これがあれば少人数でも仕事が回ります」
「三上さんは会社を去りますが、このマニュアルの中に三上さんはいます。このマニュアルが三上さんと同じ仕事をしてくれます」
会議の度に長岡は熱弁するが、全くの詭弁だ。矛盾だらけのロジックであり、遠からず業務は破綻する。
「三上さん。このままでは皆んな潰れてしまいます。社長も三上さんの言葉には耳を傾けると思います」
「残念だけど私の言うことなんか聞かないわ。社長は自分の報酬を減らさないために、従業員の数を減らすことを選んだのよ。星野さんも早目に見切りをつけないと」
星野は三上が辞める日に辞表を出すつもりにしている。退職希望日はその2週間後だ。三上が居ない混乱に拍車をかけるような星野の辞め方に、従業員からは非難を浴び、社長からは慰留されると覚悟していた。
身辺整理を始めた三上を少し手伝い、お昼は2人で食べに出た。寂しい送別会だ。30年も勤め定年退職する三上に、送別会はなく、花束贈呈もないらしい。
午後3時に社長の前に立ち、星野は勇気を振り絞って辞表を机に置いた。ネットで調べ、筆ペンで何度も書き直した辞表を社長は手にも取らない。
「有給休暇が残っているだろう。もう明日から来なくていいから」
5年勤めた社員に対し、この社長は慰留どころか労いもしない。身構えるまでもなく、非難の声は誰からも上がらなかった。もうこの会社に星野はいないも同然なのだ。
(私の存在価値って何?)
いつもより時間を掛けて座席に戻る。直ぐ後ろを星野が通り過ぎても、振り返る者は誰もいない。三上だけが優しく労ってくれた。
「星野さん。ご苦労さまでした」
「本当にお世話になりました。三上さんもお元気で」
星野も身辺整理を始める。言いたかった一言は最後まで言えなかった。
「三上さん。またお会い出来ますよね」
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