不健全な再利用
柿尊慈
不健全な再利用
交番の前にエロ本が落ちていることも驚きだが、僕にとっては腕を組んでそれを見下ろしている目の前の男性の方が驚きの対象だ。
そして彼が「時代はデジタルだな」と呟くものだから、「いや、どういうことだよ」とついこぼしてしまった。
はっとなって口を塞ぐが、時すでに遅し。おそらく、僕とあまり年齢の変わらないその男性は、僕の方へくるりと首を向けた。目が合ってしまう。彼がにやりとする。つられて、人生で最もヘタクソな愛想笑いを返すと、男性は組んでいた腕を解いて、体を僕の方に向けた。
「――少年」
えらく真面目な顔――しかも、世間的にはイケメンと呼ばれるであろうその端整な顔立ちのまま、耳に心地のよい落ち着いた声で僕を呼ぶ。さっきまで、エロ本を見下ろしていたとは思えない。少年、なんて誰かに呼ばれたこともないし、しかも同い年くらいの人にそんな呼ばれ方をするとは思わなかったので、僕は少し怯む。
「いくつか質問させてほしい」
「……はい」
とても足元にエロ本が転がっているとは思えないような堂々とした振る舞いに、なぜか緊張して声がうわずってしまった。
「――君は、女性が好きか?」
「え?」
「最初に言っておくと、私は異性愛者だ。女の子が、大好きだ」
再び彼が腕を組む。いや、そんなことを交番の前で宣言しなくてもいいと思うのだけれど。
「女の子が、大好きなんだ」
なんで2回言った?
「しかし私は、決して同性愛者に理解がないわけではない。当然、私は異性愛者であるから、過去に友人から告白を受けたときも、丁重にお断りした。しかし私は、彼のことを否定したわけではない。むしろ、彼を惹きつけてしまったこの甘いマスクを責めた」
何の話をされているんだろう、僕は。新宿の往来で、真っ昼間に。
甘いマスクは続ける。
「そして私にとって女の子とは、熟女は含まない。私の年齢――ああ、私は21歳なんだが」
僕と同じだった。
「せいぜい、守備範囲は中学生から30代半ばくらいだろう。美魔女と呼ばれるような人ならともかく、いかにもな、いや、こういう言い方は失礼なんだが、いかにもなオバサンには興味がないんだ」
交番の前で「守備範囲は中学生から」とか言わないでほしい。ビクビクしてしまう。なぜか僕が。無関係なはずなのに。
「――少年、君は熟女好きか?」
何の話ですか。
僕は首を横に振った。そういえば「女性が好きか?」という問いに答えてなかったが、今更肯定しても微妙だし、彼の話の本質はそこではないと思っていたので、よしとする。
「では、少年。ここに落ちているこの、成人向けの雑誌だが、これは、熟女好きをターゲットにした製品だ。白昼堂々熟女の裸体が、新宿の往来に晒されている」
その往来は僕たちをちらちらと見ているのだが、彼はそれに気づいているのだろうか。僕は話題が穏やかじゃないだけに、さっきから周囲の視線が気になっている。
「君はさっきから、周囲の目が気になっているようだな。そんなに自身の性癖を公衆の面前で晒すことになるかもしれないことが恐ろしいか?」
公衆の面前というか、もはや観衆ができている。謎のイケメンが道の真ん中で演説のようなことをしているのだから、足を止める人がいるのも頷けるが、これはいったい、どういう状況なのだろう。大人気の大道芸人か何かだろうか、彼は。僕が知らないだけで、今頃ネットは騒然となっているのかもしれない。
「今や観客は、少年だけではなくなった。あえて、再度言わせてもらおう。私は、女性が好きだ」
なぜか、歓声が上がる。一部で、悔しがる男性の声も聞こえた。場所が場所だけに、同性愛者の方やオネエ系の方々も多いのだろう。
いや、だから、どういう状況?
「そして、君が気にするべき視線は、君に向けられているものでも、私に向けられているものでもない。君が憂慮すべきは、そんなことではない」
そう言って彼は、足元の熟女本を右足で強く踏んだ。
「この、ある集団の人々の性癖にアプローチした成人向けのコンテンツが、人々の往来の中に転がっていること。そして何より、誰もそれを拾おうとは思わないことだ!」
何の話ですか?
「これは、踏み絵だ。ああ、フミエさんじゃないぞ。このページに掲載されている女性はヨシエさんといって――」
「その情報はいらないです」
「とにかく、私は熟女を信仰する団体に所属しているわけではない。だからこそ、こうして踏みにじることができる。この中に、熟女を信仰する人々がいたら、申し訳ない。先に謝っておく」
そして彼は、頭を深く下げた。すると、数箇所から拍手が小さく起こり、「許す!」という声も聞こえた。
おそらく、信仰する方々のものだろう。いたのかよ。
「だが、私は決して、あなた方の性癖を否定しようとしているのではない。仮にここに落ちている不健全なコンテンツが、私の守備範囲の一部である女子大生の裸体であっても、この場で私は踏み潰しただろう」
近くの女子大の学生たちだろうか、黄色い歓声が起こる。起こるところじゃないけどね、話題的に。イケメンだから許されているみたいなところはある。
「では、なぜ私がこのように、怒りに打ち震えているのか」
ああ、怒ってたのか。どういう感情で演説してるのか全くわからなかった。
「少年。君がもし道端でエロ本を見つけたら、どうする? 拾うか?」
「いいえ」
「では、何をする?」
「何もしないです」
彼は大きく頷く。
「そう、おそらく大部分の人々は、これを見ても、見なかったことにするだろう。何をするというよりはむしろ、何もせず、素通りするだろう。これが何かわかっているからこそ、見なかったことにするのだ。おそらく、これを見てゴミ拾いをする方はいないだろう。もし拾うとすれば、熟女を信仰する方々くらいだ」
観衆の中の一部の男性が、うんうんと頷いていた。信仰する方々だろう。いや、だから、なんなのだ、この状況は。
「知らない振りというのは、見て見ぬ振りというのは、知っているからこそ、かつ、視覚的に認識しているからこそ、できるというものだ」
人だかりは、かなりの規模になっていた。ニュースになるのではないか?
「私たちは、これがなんであるかを知っている。だからこれが、恥ずかしいものだとわかっている、わかってしまう。だから目を背ける、見なかったことにする!」
気づけば、交番から出てきたおまわりさんも、オーディエンスの一部になっている。彼を捕まえるどころか、彼の虜になり、しっかりとハートを掴まれてしまっていた。シュールな光景だ。今更すぎるが。
「しかし、これがなんであるかわからない人々にとっては、これらのコンテンツが道端に落ちていることは、有害でしかない。私の話を聞いてくれている方々は、これがなんであるかわかっているだろう。しかし、性というものをまだ強く自覚していない子どもにとって、これは毒なのだ!
タバコの煙が有害だとわかっている私たちは、喫煙している人の前を通るとき、彼らの喫煙を咎める代わりに、息をしばらく止めることができるだろう。しかし、それを知らぬ子どもは、無邪気に、いつものように呼吸をし、受動的に喫煙してしまう」
子どもを抱っこしたり、手をつないでいるママさん、パパさんが、ゆっくりと首を縦に振った。話がデカすぎて、誰を対象にした演説なのかわからなくなっている。というか、これは演説なのか?
「いたいけな少女にとって、この本は毒だ。無邪気な男の子にとって、これはタバコだ。……繰り返す! 私は、女の子が好きだ、大好きだ!」
感動のあまり泣き始める人が出てきた。どこに感動するべきなのか、僕にはわからない。最初から彼の演説を聞いているからだろうか。
「だがしかし、私はいかなる性癖も否定するつもりはない。同性愛、よいではないか! 小さい男の子が好き、小さい女の子が好き、万々歳だ! 熟女好き、おじさん好き、かまわん、続けろ! 私は、それらの性癖にアブノーマルの烙印を押して、その発生を憂いているわけではない! それらのコンテンツが、鏡として自身の性癖を自覚するのに役立つのではなく、それが毒として機能するとき、私は胸が痛くなる! 正しき理解がされなければ、いかなる性癖も異質なものとして映り、嫌悪感を生んでしまう。同性愛は、悪ではない。異性愛は、善ではない。アブノーマルも、ノーマルも、存在しない。世間でノーマルとされている異性愛ですら、何も知らない子どもにとっては、ひどく恐ろしいもののように映るだろう」
神妙な面持ちでスマホをかまえて、彼の演説をカメラに収めている人たちが増えてきた。きっと数時間後には、彼の演説がSNSを駆け巡るだろう。困ったことに、どういうわけかこの場は、イケメンの思想家と、その弟子であるかのように説法を聞いている僕のふたりだけの舞台を、周囲の人が取り囲んでいる形になるので、彼のついでに僕もSNSで出回る可能性が高いということだ。弟子になったつもりもないし助手になったつもりもないが、きっとそういう、アシスタント的な人だと認知されてしまうのだろう。
「仮に、こうしたアダルトコンテンツが、すべてデジタルで管理されていたならば、そのコンテンツは、違法にアップロードされない限り、購入した人の端末のみに保存される。自覚なき少年少女の目に触れてしまうのは、そういったデジタルでのコンテンツではなく、こういったアナログのコンテンツなのだ。よくわからない、恐怖の対象を道端で見かけることがあるとするならば、それは結局、こういった紙媒体の、捨てられたものに限るだろう」
ここで彼は懐から、ピンク色のゴミ袋を取り出した。どこに売ってるんだ、それは。
「これは、私が知り合いに無理を言って製造してもらった、エロ本専用のゴミ袋だ」
わざわざ作ったのか、エロ本専用のゴミ袋。
「同志には、これを無償で配布する。私が悪徳な宗教団体の教祖や構成員であったなら、私はこれを高額で販売していただろう。しかし私は、それをしない。私は、見ない振りをすることで、子どもに悪影響を与える可能性にも目を背けてしまうのだと自覚した同志に、恥を乗り越え、真の意味でこの世が健全となるような社会を、世界を共に創ろうと、手を差し伸べたい」
そして彼は、僕に手を差し伸べた。
「少年、君を協力者第1号に任命したい。どうだろうか?」
観客たちの、息を飲む音がした。これだけの大人数だと、ゴクリという音が重なって大音量になるのだ。
さて、実は同じ大学だったということがわかった彼と僕は、大学の庭にあるベンチに腰かけて、定例会を行っていた。
少し離れたところに、女の子たちが集まって、キラキラした目線を彼に送っている。
「さて、少年。今は名もなきこの団体の、唯一の正規会員として、我々が次に為すべきことは何だと思う?」
結局僕はあのあと、あれだけの人に囲まれた状態で彼の手を握らないという選択をすることができず、彼の同志となってしまった。
ちなみにそのあと、ものすごい数の人々が彼の同志になりたいと名乗り出て、新宿は一瞬地獄と化したのだが、彼が機転を利かせたおかげで、その闘争状態は収束した。
彼は大きくQRコードの印刷されたプラカードのようなものを掲げ、それを読み取ると登録ページに移動できるため、新宿の交番周辺は、プラカードを掲げる彼と、そのQRコードを読み取るべくスマホを高らかに掲げる人々という、奇妙な光景が広がっていた。
かなりの人数が殺到しているとはいえ、小さな組織すら運営できない力量では多数を仕切ることはできないということで、しばらく僕以外の人は会員になることはできず、会員希望者は登録確認のメールを待っているという状況である。
「とりあえず、資金が問題になるんじゃないかな。ピンクのゴミ袋だって、タダでつくれるわけじゃないし」
「ああ、そうだな。これは知り合いに無理を言って無償で作成し続けているものだから、彼にまずバックをしなければならないだろう」
その知り合いが気の毒だ。いきなり、美青年にエロ本専用のゴミ袋をつくるよう言われたのだから。
「とはいえ私は――私たちは、営利を目的としているのではない。必要なこととはいえ、袋の経費を会員から取るのは気が引けるし、そもそも公約違反だ。それに、エコが叫ばれているこのご時勢、ビニール袋なんて環境に悪いものを生産し続けるのは、社会的反感を買いかねない」
「僕たちの仕事は、その……捨てられたアダルトコンテンツを、ひたすらに拾い続けることなんだよね?」
「ああ、そうだ。しかし、これは最終目標ではない。私の望む世界は、いかなる性癖にも寛容であること。しかしそれは、嫌いなものがない人たちの世界ではなく、嫌いなものを嫌いと表明する人がいない世界なのだ。同性愛への嫌悪、異性愛への嫌悪、それが胸に内に秘められた世界。嫌なことには目を瞑りつつ、閉じたまぶたが笑顔を作り、傷つくことが最小限になる世界。私たちが出会ったとき、あの日の私の課題は、結局は、子どもたちには正しい性の自覚、およびそのステップがあるべきだということだったから、そのうち、性教育のような分野にも手をつけたい」
そのためには、つまるところ資金が必要で、でも、会員からそれを取ることはしたくなくて、そうなると、今やっていることから、そのまま利益を出さなければならなくて。
未だに名前も知らない彼と仲良くなるにつれて、周辺の女性たちの中には、僕たちの関係を「アブない関係」として見るような女性たち――いわゆる腐女子たちが発生するようになっていた。
彼は「女性が好きだ」と公言しているが、僕の方は当然、彼のように女性が好きだと路上で叫ぶ勇気もないので、僕が叶わぬ恋をしているだとか、あるいは彼はバイセクシャルだとか、そういった噂が広まりつつ、なんなら大学内で僕たちを描いた同人誌のようなものを見かけることも増えていったのだが、彼の方はそんなことを気にもせず、今日も休日に僕を呼び出す。
駅前で待ち合わせて、新宿の街を歩き回り、子どもには刺激の強すぎるそれらを、ひたすらにピンクの紙袋に詰め込んでいく。これは、彼の知り合いとやらにつくってもらったものの第2号で、保存状態の悪いものは1号であるピンクのビニール袋に入れるようにしている。
僕が紙袋を、彼がビニール袋を持って、不健全な図書を、じっくりと観察して分けていく。本の中身を見ているのは、決して中身に興味があるわけではなく、本の状態を見ているだけにすぎない。
そんなわけで、かなり真面目な顔で、しかもイケメンが、休日の朝から拾ったエロ本をマジマジと観察しているという状況が新宿では見られるようになり、目撃情報がSNS上では飛び交っているのだが、やはり彼は、こうしたことには無関心なようだ。
3時間ほど歩いただけで、かなりの数の「収穫」が得られた。公園でベンチに座り、一休みをしつつ、僕はスマホで現在地を調べる。最寄りは、歩いて10分ほど。
「さて、それだけ集まったが、どれだけの収益になるかどうか、だな」
汗を拭いながら彼はさわやかにいった。とても、さっきまでエロ本をぶち込んでいた人には見えないし、今足元に置いてあるピンクのビニールに入っているものなんて、その爽快感からは想像ができない。
結局僕の提案で、拾ったもののうち、状態のよさそうなものはそのまま古本屋に買い取ってもらおうと決めたのだった。ビニール袋に入れた分は、そのまま紙ゴミとして出すことにしている。とはいえ、彼の「環境に対する配慮」という点から、ビニール袋は使い捨てることはせず、同じものをある程度リユースしていくつもりだ。紙袋の方は、そのままお店に渡そうと考えている。きっと、従業員の誰かがその紙袋を持ち帰って、オークションにでも出すのだろう。彼のファンが、きっと金を出し合うに違いない。
少年と呼ばれ、君と呼ぶだけの間柄。しかし、彼といると妙に心地がいい。しかし、これは間違いなく恋ではないし、かといって単なる友情ではない。彼との出会いは交番の前で、そのときは――なんなら今でも、彼の行動には引いてしまうこともあるが、それでも、そばで支えなければならないような気になっている。たまたまそこにいて、たまたまツッコミをつぶやいてしまっただけなのに、誰も近づけない彼のこれだけ近くにいることが、誇らしいのかもしれない。
拾ってきた大量のアダルトコンテンツを古本屋に売りつけるのが、僕たちの休日の過ごし方。
あなたの街の古本屋さんで、急にそういったコーナーが充実しはじめたら、もしかしたらそれは、彼と僕の仕業かもしれません。
(おわり)
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