第2話
7
夏休みに原付の免許を取って、二学期が始まってからは度々原付バイクで登校していた
僕が乗っていたのは、十ヶ峰先輩の推察する通りスクーピー50CCである。そして先日、そのバイクで登校中、あろうことか通勤途中の担任教師の車と出会い頭にぶつかる事故を起こしてしまったのだ。
紆余曲折を経て、警察へ事故の届出を果たすことができたが、個人情報云々のご時世が僕達に味方し、担任の木野先生と僕が事故を起こしたことはまだ学校側に知られていない。
僕の立場からいえば校則違反は咎められるわ、先生の立場からすれば生徒が絡む事故を起こすこと自体が職場から咎めるわでお互いに何らメリットは無い。
故に、事故の事は校内では他言しない、と二人で協定を結び、ただし、車の修理に関してはプライベートで話し合おうという事になった。
最近、話し合いと称してラーメン屋に連れていかれたりと、木野先生は協定の意味を履き違え始めている気がしないでもないが、あの人も職がかかっている以上、むやみやたらに事故の事は吹聴しないだろう。
そして、僕自身も事故の事はおろか、バイク通学をしていたなんて、どれだけ親しいクラスメイトにも話したりもしていないので、漏洩の出所はとても限られる。
「先輩が僕のバイク通学を知ったきっかけについてずっと引っ掛かっていたんです」
「……ん? 言っている事の意味がよくわからないんだが」
「そのまんまの意味ですよ。僕がバイクを運転しているところを見た人物が、生徒の中にいたという事でしょうか?」
「それは」
十ヶ峰先輩の目が微かに泳ぐ。それを、僕は見逃さなかった。
「まさか今さら『君がバイクに乗っている現場を見た生徒がいたんだ』なんて、馬鹿みたいに言い出しませんよね?」
先手を打つ。
逃げられないように、逃げたとしてもそこに伏兵がいることを知らしめるように、言い放つ。
「だけど、僕がバイクに乗っているところを見た人物を、先輩は確かに知っている」
ずっと不思議に思っていた。
なぜ、十ヶ峰先輩は僕が乗るバイクの車名がスクーピーであると言い当たられたのか。そして、どうして僕と木野先生の交通事故の事を知っていたのか。
一つ目の謎は簡単に解ける。
単純に、誰かが僕が原付バイクを運転しているところを見たのだ。そして、その事が十ヶ峰先輩の耳に入ったのだろう。普通に考えたらそれは生徒の内の誰かで、たまたま僕が駅前の駐輪場にバイクを駐めたところを見ただけの事だろうと何となく察しがつく。
しかし、先輩の口から肝心のワードが出なかった。
君の事を見た生徒がいたんだ、というようなワードがこれまで全く出なかったのだ。
「…………僕が、君の事を見たその誰かを庇おうとしているとは考えないのか?」
「普通に考えればそうでしょうね。ただ、先輩は続けて木野先生と僕の事故の事まで言い当てられましたね」
「それは」
十ヶ峰先輩が、ここで初めて言い澱んだ。
自分が犯した過ちにようやく気がついたようだ。
「たかが車の傷の一つや二つ位で、よく僕のバイクの事故と結び付けられましたね」
二つ目の謎は、交通事故の事だ。
木野先生が事故の事を言いふらしているというのなら話しは別だが、先生にとっては何のメリットもない。事故の事を知っているのは当事者の僕と先生の二人だけのはずで、部外者が知ろうはずがない。
「僕が先輩を挑発した理由です」
バイク通学の質問から、木野先生とラーメン屋に入った云々の流れになった時点で、僕は変だと感じた。なぜ、ここで先生が出てくるのか。
この時点で交通事故の事はまだ触れられていなかったが、少々不自然な話の流れから、僕は十ヶ峰先輩がバイク通学以外の事を知っているのではないかと踏んだ。
要するに、先生との交通事故の事だ。
「あの挑発は、もしかして」
「先輩もなかなか用心深い。ただ、業を煮やしたのか、最後にぽろっと言ってしまいしたね」
ーー要は交通事故なんだろ?
ーーとぼけても無駄だよ。木野先生の愛車に今も傷が残っている。君の原付バイクのボディが割れていることと無関係ではあるまい。
「どうして、僕と木野先生しか知らない事をああも断定的に言い当てる事ができたのか。僕は、そこに何らかのカラクリがあると考えました」
「いや、そんなものはない。たまたま偶然僕の耳に入って来ただけで」
「それは、一体誰からですか?」
「どうして言わなければならない!」
吠えながら、十ヶ峰先輩が立ち上がる。ガタンと椅子が倒れ、今にも掴みかからんとする勢いで僕に迫る。その姿に、さっきまでの余裕は微塵も見受けられない。こちらとしても好都合だ、が、やばい。調子に乗りすぎた。
「ちょっと、待っ」
「はいはーい! お待たせー!」
突如、勢いよく扉の開く音と共に、この場に似つかわしくない陽気な声が聞こえてきた。
「……はぁ?」
僕の胸ぐらを掴もうとしてきた十ヶ峰先輩の指先が、すんでのところでピタリと止まる。何が起きているのかわからないというように口をあんぐり開けて、その間抜け面の視線は生徒会室出入口に向けられた。
「何でここに先生が」
「あっ、男同士でくんずほぐれつめくるめくボーイズラヴの世界……まさか、とも君に受け側の趣味があったなんて」
「んな訳ないでしょうが。というか即興で変なあだ名作らないでください」
誰が『とも君』だ。
そう呆れつつも、ほっと胸を撫で下ろす。
間に合った。と、言っていいのかどうかわからないが、山場は越えたように思う。
「僕を、助けてください」
その人物は僕の要請を聞くなり、ふっ、と笑った。
「全く世話の焼ける」
薄暗い室内に廊下の明かりがじんわり差し込んだ。そこに佇むは小柄なシルエット。すらっとした身体に、うなじで縛ったポニーテール。白のブラウスに紺のロングスカートで身を包んだその姿は、なるほど、プライベートで見るより結構かっちりしている方だ。
「お取り込み中悪いんだけど泉野君は私の生徒なの。だから返して頂戴。十ヶ峰君」
言うなり、木野先生はにこりと微笑んだ。
8
「まさか、この男を庇いに来たんですか? 先生ともあろう立場の人間が生徒に手を出してただですむと?」
「手を出すのはまだ先の事よ。具体的には三年後くらい」
「ちょぉおい! 話が変な方向に!」
なんて事だ。木野先生がここに来た事である意味窮地に陥ってしまう。
「僕と先生は十ヶ峰先輩が思っているような関係ではありませんから!」
「『十ヶ峰先輩が思っているような関係』とはどんな『関係』なのぉ? 泉野君?」
「先生はちょっと黙っててください」
どうして援護に来たはずの味方から背中を狙われているんだろう。十ヶ峰先輩とサシで向かい合う緊張感よりも先生が後ろに控えている事の恐怖感が勝ってしまうのはどうして?
「どうやったのか知らんが、この状況で木野先生を呼ぶなんて卑怯とは思わないのか?」
十ヶ峰先輩が僕に伸ばしかけていた手をぎこちなく引っ込めた。そして苦虫を噛み潰したような表情で再び僕を睨み付ける。
しかし、その両目には弱々しい光。
誰が何もしなくとも勝手に消えてしまいそうな風前の灯火みたいで「……卑怯?」思わず頬が緩んでしまう。
「……うっ」
十ヶ峰先輩が、ばつが悪そうに後退りした。
心底うんざりする。
木野先生を呼んだ、という表現にはその洞察力にはさすがであると唸らざるを得ないが、今更先輩が何を言おうと負け犬の遠吠えにしか聞こえない。
「卑怯な手段を使ったのは、果たしてどっちでしょうね?」
「ふざけるな。僕が卑怯だった事なんて」
「先輩のお父さんと同じ公務員である木野先生だったら、僕が十ヶ峰先輩を『卑怯』と揶揄する事の意味を理解できるでしょう」
木野先生に聞こえるどころか廊下に響き渡る位に声を張り上げた。久しぶりに腹の底から声を出したので、言い終えた後も喉が小刻みに震えている。
あえて遠回しに言ったのだが、しっかり意味が伝わっただろうか。
「っな……ん、で」
わなわなと震え、しかし先輩は崩れるようにして力なく椅子に座った。その様子だと心配はいらなかったようだ。唯一、訳がわからないという風に木野先生が「え? え?」と後ろで混乱しているが、まあ、今は放っておいても大丈夫だろう。
「……将棋の大詰めは戦局によっては拮抗します。その場合、いかにして相手から自分に必要な手駒を引き出すか、言わば化かし合いみたいな駆け引きが求められる事がある」
「化かし合い……君は、僕を」
「ええ。騙しました。先輩の持ち駒を引き出すためにね。ただ、この時に肝心なのは、引き出す際に悟られないように工夫する事です」
言って、僕は携帯電話の通話機能をオフにし、ポケットにしまう。そう、携帯電話の存在を悟らせたのはわざとで、先輩の気をそっちに逸らすため。
囮に気付いたところで、気をよくした先輩がべらべら喋り出すのではないかと考えた。
用心深い人間に限って油断から生じる隙というのは大きいもので、挑発の効果も相乗し、先輩は核心に迫る事故の部分をぽろっと喋ってくれた。
「先輩が正義感に厚く、どうしても僕を貶めたいというのなら僕は停学なり何なり処分を受けましょう。ただ、もしそうなった場合」
僕は、十ヶ峰先輩に向かって身を乗り出した。
先輩が怯えたように身を反らしたが、構わず、耳元で囁くように言う。
「先輩の親も、きっとただでは済みません」
蚊の鳴くような「ひっ……」という小さな悲鳴が聞こえた。後ろからは「やっぱりそっち係の趣味が」と呟くような声も聞こえたが「というか先生、そろそろあれを先輩に見せてください」木野先生をここに呼んだのは見世物のためではない。先生はあくまで僕を助けに来たのだ。
「そうそう。私がいなくても話がまとまりそうだったからついつい忘れてた」
そう言って、先生は手に持っていたクリアファイルから一通の用紙を取り出した。
「何だ。これ以上僕に何か突きつける気か」
「ええ。最後に、先輩には全てが誤解だったと伝えたくて」
「何?」
「泉野君のバイク通学の許可証だけど、これが必要なの?」
木野先生が取り出したのは、「車両通学許可申請書」と書かれた用紙で、申請者欄の記載は「泉野智也」とある。隅の方に学校長の四角い印鑑が捺印されているあたり審査には通っているようで、つまり僕は、「許可を貰っていたんですよね」「……………………はぁ?」すっとんきょうな声をあげ、十ヶ峰先輩が目をぱちくりさせた。
気持ちはわからんでもない。今までさんざん僕のバイク通学についてあーだのこーだの言っていたのだ。今までのやりとり全てが茶番になったご感想としては、妥当なところといえよう。
「この用紙には、校則と同じ条文で『住居地が遠方である生徒及び、公共交通機関が発展途上であり通学が極めて困難な地域に居住の生徒に於いては、運転免許証を取得した場合、然るべき申請を行えば原動機付自転車に限りその通学を認めることとする』と書いてあります。先輩が調査されていたように、僕が住む地域は非常に交通機関の発達が遅れていてこの条文に一致する身上状況だったんですよね」
「お、おまっ」
「僕は」
目が落ち窪み、頬はこけ、眉が八の字を描いている。まさに憔悴しきった表情。先輩はすがるように僕を見上げるが、自業自得だと思うのできっぱりと先の言葉を紡いだ。
「自分の駄目なところに気付かない人間の方がより滑稽であると思います」
9
「ところで」
生徒会室を後にして教室に戻る途中、横を歩いていた木野先生が不意に尋ねてきた。
「あの状況からどうやってああなったのか、そろそろ教えてくれてもいいんじゃない?」
「……」
その質問に正直に答えるべきかどうか悩んだ。
ただ、先生も巻き込んだ以上誤魔化すのは気が引ける。筋としてはしっかり答えるべきだろう。
「以前の交通事故の事です」
夕闇が迫る廊下。運動部の掛け声もいつの間にか落ち着いて、窓の外も廊下にも人影ひとつ見えない。僕は歩調を緩めて先生の方を向く。
「あの事故で二人あーだこーだしている時に他の車が横を通ったりはしていませんでした。山道だったので通行人と出くわす事もなかった。つまり」
「私と泉野君しか知らないはず、であると」
「そうです、が、正確にいえば違う」
「んん? どういう事?」
「あの現場には、警察官が来ました」
事故を処理してくれたのは、やたら低姿勢のへこへこした警察官だった。同じ学校の生徒と先生が事故を起こした事を非常に珍しがっていた印象がある。先生も同じ情景を思い出したのか「ああ……」と合点がいったという風に唸った。その様子だと、僕と十ヶ峰先輩がしていた駆け引きの意味がわかってきたようだ。
「十ヶ峰先輩の親が現場に来ていた。或いは、その警察官の上司が親だったと考えれば、辻褄が合うんです」
考え付いた時、自分でも突飛だと思った。
だけど、十ヶ峰先輩と応酬を繰り返す度、僕のバイクの車名と根拠殆ど無しで事故の事を言い当てた事で疑念が確信に変わった。
事故の日。或いは、その数日後。いつでもいい。 僕達の事故の事を知った警察官が、雑談がてらに家族にぽろっと話す。
今日どのあたりでどんな事案を取り扱った。こんな事件が起きた。珍しい事が起きた。
きっと、その中に僕達の事故の話があったのかもしれない。同じ学校の生徒と先生が事故を起こすなんて、警察官でなくても珍しいと感じるものだ。
勿論、個人情報に触れる故にむやみやたらに喋るわけがない。家族という信頼あっての話。妻も子もそれを理解している事は当たり前と思っている。家族団欒の単なるネタ程度だ。
「『お前と同じ学校の生徒と先生が事故を起こしていたぞ。珍しい事もあるんだな。そういえば片方は原付のスクーピーだったが、もう片方の車の方は高級車だったなぁ。勿体ない。お前も気を付けるんだぞ』なんてやりとりがあったとします。名前は出さずとも先輩なら特定は容易そうですよね」
「あー、あの子ならそれだけでわかっちゃいそう……さっき公務員がどうとか言っていたのはそういう……」
「ええ。あんまり法律の事はよくわからないんですが、公務員は職務上知った情報をむやみに言ってはいけない、というような法律があったような気がするんですけど」
「地方公務員法だ」
すかさず木野先生が答えた。
さすが、曲がりなりにも公務員である。
「泉野君。君は法律を、駆け引きに利用した、と」
木野先生の問いに、僕は静かに頷いた。
端的にいえば、僕は暗に先輩を脅したのだ。もし僕達の事をこれ以上詮索するなら、この件を、個人情報が漏洩している事について取り上げて問題にしてやるぞ、と。
「事故の時もそうだったけど」
ふう。先生は聞こえよがしにため息をついて、虚空を仰いだ。
「君は……何て言うか、あれだ。その風貌の割に可愛げがないっていうか」
「えっ」
「確かに、見識は広い方がいいし機転が効く方が世の中うまく渡っていけると思う。実際、電話の作戦だって上手くいったし」
「は、はあ」
生徒会室に入る前、僕はあらかじめ木野先生に電話をかけていた。有働さんから十ヶ峰先輩の校則違反者狩の話を聞いていたので、万が一に備えた訳である。
その備えというのは、入室してからずっと携帯電話は先生に繋げ、スピーカー機能をオンの状態を維持するといったもの。電話口で生徒会室の様子を聞いていた先生が、雲行きが怪しいと感じた時点で車両通学許可証の発行手続きを行えば誤魔化しも効く。
十ヶ峰先輩は、僕がずっと録音していると勘違いしていたみたいだが、その実態は木野先生に筒抜けだったという訳だ。
「でも」
木野先生がこちらにくるりと振り向いた。
口元は笑っているが、目が笑っていない。もしかして怒っているのか? と不安になった。
「高校生らしい考え方じゃないとも思うんだよね。なんか、できる大人って感じで」
「それ、誉められてるって事でいいんですか?」
「学校は勉強だけじゃなく、人と人の繋がりを学ぶところ。人は利害関係のみで動くわけじゃない。駆け引きばかり長けていても、人との繋がりは学べないんだよ?」
優しく諭すような口調。だが、僕は少々面食らう。てっきり法律を駆け引きに利用した事を責められると思ったが、予想外の指摘だった。
人と人との繋がりとか。というか、
「……先生がまともに先生をしているなんて」
「どういう意味だそれ」
「先生は人と人の結びつきが利益や損得だけではないと言いたいんでしょうか。でも、それ以外のものを僕は見た事も感じた事もありません」
今回、十ヶ峰先輩は僕のバイク通学を糾弾しようとした。でも、僕の遠回しの脅迫によって自分の立場を優先し、全て無かった事となった。もし、先輩が正義漢であったなら、あんな駆け引きに応じたりするとことは無かったはずだ。
少なくとも、自分の立場を省みたりしなかった。
そこに、自己満足や損得勘定以外の何かが存在したのだろうか?
過去に不良の先輩数人を嵌めた時、先輩にとって何かしらの利益が発生したのではないだろうか?
「確かに、人と人との繋がりは最初はそんなくだらない事かもしれないね」
そう言って、木野先生は目を閉じた。
これから発する言葉の一言一句を考えているのか、それとも既に答えが出ているのか、良くわからない。白い頬。淡い薄桃色の唇。鼻筋の通った美麗な顔立ち故に、表情が読めない。
しばらくの沈黙が続いた後、こほん、と咳払いをして先生は目を開けた。
「私と泉野君が事故に遭った時だって、正直、このクソガキって思った訳」
「良いこと言う流れだったのに台無し」
「でも、そこから発展した事だってあるじゃない?」
「車の修理代の事ですか?」
「貯めておけよな……って、そうじゃなくて、もう」
今度は本当に言い辛そうに目を逸らした。斜陽のせいか頬が紅潮しているように見えなくもない。先生はもじもじと身をよじらせ始め「あの、具合でも」「それまでただの教え子だったのに、ずるいよね……」「何がや」「な、何でいきなり関西弁に」これあかんやつやわ。この人何とかせえへんと。
「……例えば、事故の事を知っているのは君と私の二人だけなのに、十ヶ峰君に事故の事を聞かれた時、どうして私の事を真っ先に疑わなかったの?」
「それは」
教職に就いている以上、秘密は墓場まで持っていくしかない立場だと思っていたからだ。したがって、事故の事を他言する訳がない。
でも、本当にそれだけが理由だったのだろうか?
僕は、心のどこかで木野先生の事を信頼しきっていたのではなかったか?
「即答できないということは」
ずいっと先生が迫って来た。
香水のーーバニラの甘い香りが鼻腔をくすぐる。
薄目の奥にある濡れた瞳と、視線が合う。口元はからかうように僅かに歪んでいて、でもいやらしさは微塵も感じられない。
「君のなかに損得勘定や利害関係以外の何かがまだ残っているからだよ」
「……っ」
何も、言えない。
胸の中でわだかまっていたものが熱を帯びて溶けていくようで、次第に目眩がした。
「立派な大人になるためには、もう少し人間という生き物を知りなさい」
したり顔で、木野先生が離れていく。
対する僕は、廊下の端で佇んだまま、床に根を下ろしたように動けない。
動悸だけがどくどくと弾み、まるで僕という空の器に心臓だけが入っているような錯覚に陥った。
「なんっ、で」
夜の冷気が浸透していく中、仄かな温もりが残る唇に指をあて、何とはなしに窓の外を見上げた。
※※※※※
何とはなしに自室から窓の外を眺めていたら、いきなり電話着信が来た。誰だ。こんな時間に。と、憤る程夜遅くもないが、家に籠っている以上一人の時間を冒されたくはない。
「あ」
しかし、電話口に出る煩わしさもディスプレイに表示された名前を見てふっ飛んだ。
すかさず通話ボタンをタップして「なんだよ」ぶっきらぼうを装って応答する。
『もしもし。今ちょっといいかな? 有働さん』
通和口から聞こえるのは、なよっとした、弱々しい声。前の席のクラスメイトがーー泉野が私の携帯にかけてきた。
「ちょっとだけなら、まぁ」
嘘だ。本当は聞きたいことだらけ。
でも、こいつの前ではいつも通りのテンションでなければ色々まずい。なんたって、見かけによらず勘が鋭いのだ。
「で、呼び出しの件はどうだったんだよ。本屋は間に合ったのか?」
向こうから聞かれる前に先に切り出した。
正直、気になっていた事でもある。それに、先手を打つ事で私のペースで話を進められると考えた。咄嗟にこの機転を働かせる私、どうよ?
『ああ、丁度その事で。単刀直入に聞くけど、有働さんって生徒会役員?』
「ふぇっ」
音程を外したアルトリコーダーみたいな声。それが自分の喉から出てきた事にまず驚いた。
「なっ、だ、っ」
役員名簿を見れば庶務担当であることは一目瞭然だ。だが、あいつがぽろっと言いやがったのか。十ヶ峰。皆には伏せるようにしていたのにあのクソ『ああ、違う違う。十ヶ峰先輩は関係ないよ』「え」心中を見透かしたかのように泉野が補足し、私の混乱は加速する。
「どう、して」
『呼び出しのアナウンスが流れた時に生徒会長からの呼び出しって事によく気付いたよね』
「そ、それは、なんとなくというかたまたま」
『あと、不良グループの一件の話なんて、まるで見てきたかのように話すなぁって』
「……あぁぅ」
『黙ってたってことは隠してたってことだよね。まあ、それはいいんだけどさ』
「も、もしかして怒ってるのか?」
『別に、怒ってないよぉ……?』
う、嘘だ。これは十ヶ峰先輩と一悶着あったに違いない。でも、だとしたら泉野は……。
「ごめん。私が黙ってさえいなければ」
停学、という二文字が頭に浮かび、後悔の念が一気に押し寄せてきた。
泉野のバイク通学の件について十ヶ峰先輩が前々から調査していた事は知っていた。泉野が呼び出された時点でもっと具体的にアドバイスをする事もできたのだ。
ところが、通和口から聞こえて来るのは『あっはっは』なんとも陽気な笑い声で、湿った雰囲気になりそうにない。
「い、泉野?」
『だから別に怒ってないって。それに、先輩とはしっかり話をつけてきたから僕は大丈夫だよ』
「『話をつけてきた』? あの男とか?」
話をつけてきたって、要は言いくるめたという事か……? でも一体どうやって……? どうやってあのガムテープみたいな性格の男から切り抜ける事ができたのか。
『まあ、今はそこはいいじゃない。僕が聞きたいのは本当は別の事でね』
「お、おおう」
正直とても気になるところなのだがぐっと堪えた、ここは流されてやる事にする。詳しい話はまた今度に聞こう。そんな事を考えながら次の言葉を待っていると『えっと、うーん』悩まし気な唸り声が通和口から響いてきた。自分のペースを保ってきた泉野が、何故かここに来て初めて話を切り出しにくそうにしている。
どういう事だろうか。
「何だよ。聞きにくい事なのか」
『いや……でも、そうだね。正直聞きにくい』
「怒らないから言ってみ? ほれほれ」
『あの、これは十ヶ峰先輩が言っていたんだけど、僕と木野先生の事』
「……ああ」
そこまで言われて、泉野が何を聞こうとしているのかわかった。
「ラーメン屋の件だ」
この際はっきり言ってやる。電話口からも『そう、それそれ』と聞こえてきて、私の胸は一層跳ねた。
「担任をたぶらかした疑惑」
『そんなやつじゃないってば。ただ、十ヶ峰先輩が色々誤解してたから他の生徒会メンバーも誤解してないかと思って』
「どうせまたあの童貞丸出し男が暴走したんだろ。今時、先生と飯に行く生徒がいても珍しくもないのにな……でも、」
どうして、泉野が、担任と。
どうして、生徒と担任という繋がりしかなかったはずなのに。
どうして、いつの間に一緒に麺を箸でつつく関係に。
『う、有働さん? もしもし?』
「あっ、すまん。やっぱりなんでもない」
『そう。まあ、十ヶ峰先輩以外に誤解している人がいなくて良かった』
「誤解、なんだな?」
言って、しまった、と思う。
自然と語気が強まっていた。廊下に聞こえていやしないだろうか。いや、それよりも。
『……』
ほら、泉野が引いている。この流れにいきなりガチトーンでぶっ込まれてきたら誰でもこうなるよな。
でも待てよ。見方によってはここで無言になるのも変だ。ああ、もう。せめて電話越しでなければ。
『……もしかして、有働さんも』
「き、木野先生と泉野があれな関係なんて疑ってないから」
今更なフォローにばくばくと心音が倍加する。気付けば携帯を握る掌がじっとりしていて、無意識に指先が力んでいた。
『そう』
心なしか、泉野の声が力ない。本音をいえば疑惑だらけなので、罪悪感に似た感情がどっと押し寄せる。私はどうしてさっきのやりとりをさらっと流せなかったのか。
何と切り出しても後手に回るこの空気。
そのどうしようもなさに固まっていると『でも、有働さんが信じてくれるだけで助かるよ』と、思いがけない言葉が返ってきた。
まさか、さっきの苦し紛れの言葉を真に受けたのか……?
『僕は、有働さんが信じてくれるだけでいい』
「何で言い直した」
やっぱり真に受けてないかも。
こいつやっぱり読めないなぁ、と内心で毒づくも気が付けば頬が緩んでいた。緊張の糸がほぐれたのか、はたまた別の感情によるものかはさておく。
「お前、そんな事ばっかり言ってると色々勘違いされるぞ」
『色々痛い目に遭ってる』
「その色々って何だ。詳しく教えろ」
『あれ、声が本気のやつだ』
「本気な訳ないだろ。じゃあな馬鹿野郎」
『えっ、あっ、ちょいま』
半ば逃げるようにして通話終了ボタンをタップした。心音が再びばくばくしかけたせいだ。
「お前が、変な事を言うから……」
いちいちこいつの戯れ言に構う必要なんてない。そうとはわかっているのに、ついついペースに乗せられてしまう。どうしてだろう。
いや、答えはわかりきっている。
「…………」
十ヶ峰先輩が木野先生との関係を泉野に訊ねた事は予想していた。というか、そうなるように仕向けたのは私だ。駅前に新しく開店したラーメン屋。とある休日に店の前をたまたま通りがかった時、客の列の中に二人の姿を見た。
二人とも私服だったし、木野先生の方は若干めかしこんでいるように見えた。
二人は他愛もない話をしていて、列の脇を通りすぎた私に気付いていない様子だった。
担任と生徒という以外に接点の無さそうな二人。
親しげに話をしている所を校内でも見かけたことはない。
それなのに、なぜ。
どうして、あいつの隣に、木野先生が。
「はあ」
倒れるようにしてベッドに横になり、何とはなしに壁に向き合う。白色のクロスとにらめっこする内、いつの間にか思考を放棄していた自分に気付く。
やっぱり気になるのだ。
前の席に座る、あの頼りなさそうな割に勘の鋭いクラスメイトの事が、泉野が。
次はどんな手段を使ってしかけようか、と考えた。
愚者は彼を欺けない ぴよ2000 @piyo2000
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
近況ノート
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます