愚者は彼を欺けない
ぴよ2000
第1話
1
「泉野君、君はバイク通学をしているね?」
「はい」
「許可のないバイク通学が校則違反になるということは知ってはいたのかな?」
「はい」
「ばれてしまった以上ペナルティを受けてもらう手続きになるけれど、最後に申し開きはあるかい?」
「いえ。申し開きをするつもりはありません」
2
昔から将棋が好きだった。
父にルールを教えて貰い、それぞれの駒の役割を知り、父と何戦もして一手一手に慣れていった。
好き、と言っても、殊更に強い訳ではない。
小学生の頃に一時期将棋ブームが到来した事があるけれど、クラスの中では弱小の部類だったように覚えている。誰彼構わず負け続け、負ける度に、あの時この駒を使えば良かった、あの駒を動かせば良かった、と後悔する。その反面、王手詰みを果たした時の達成感ははてしなく、簡単に言葉にできるものではなかった。
ただ、僕が将棋好きな理由は別にある。
「相手の駒を見極めるのではなく、相手そのものを見極める事が大事なのだ」
とは父の言だ。
当時は7歳の男児に何をかっこつけているんだ、と内心馬鹿にしていたが、成る程、確かに勝負事においては重要なことかもしれない。
手持ちの駒と盤上の駒。大詰めに差し掛かると、どの順番で駒をさし、どの駒を犠牲にするのかが決め手になる。
そして、迷っているのは自分だけではなく、相手もそうだ。
相手も手持ちの駒を失いたくないし、出来れば最小限の被害で済ませたい。だから迷うし、悩む。その焦りがありありと伝わってくる。相手と自分だけにしかわからない緊張感が、たまらなく好きだった。
「泉野君、もしもーし? 僕の話、耳にはいっている?」
「はい。それはそれはとても」
今、僕は薄暗い生徒会室の中にいる。
時は金曜日の放課後。世間は明日から土日の連休だというのに、心当たりなく生徒会室に呼び出され、十ヶ峰先輩と一対一で糾弾されている。
主に、以前にこっそりしていたバイク通学の件で。
3
『1年3組、泉野智也君。至急生徒会室まで』
ピンポンパンポン。と、アナウンスが終わり、教室で帰り支度をしていた僕は「えっ、今僕呼び出された?」思わず周囲のクラスメイトに聞いてしまった。
「お前の他に誰がいるんだ」
すかさず後ろの席の有働さんが呆れたように答えた。彼女も僕と同じく帰り支度をしていたようで、机の上に鞄を置いて教科書やノートを詰め込んでいる。
「呼び出されるようなことは何もしていないんだけど」
「でも実際に呼び出されただろ。しかもフルネームで」
「いや、今のは何かの間違いかもしれない。だって心当たりが全くない」
「そう悪い方向に考えるな。もしかしたら委員会とか何かの関係かもしれないだろ」
言うなり有働さんは茶色のセミロングをかきあげ、鞄からボトルに入ったガムを取り出し、口に放り込んだ。どうして僕の鞄からさも自分のものであるかのようにボトルを取り出すことができるのか。そんな突っ込みさえままならない位、今の僕は冷静さを欠いていた。
「それとも何か心当たりがあるのか?」
「ないよ。ないない。そんな、有働さんじゃないんだから」
「喧嘩売ってんのか」
「とにかく今のは何かの間違いだ。何としてでも僕は今日発売のドラゴンマガジンを買って帰らないと」
「明日買いに行けよ」
嫌だ。発売日である今日でなければ売り切れてしまう。最寄りに小さな書店しかない地方学生の宿命に、生徒会の呼び出しという大きな壁が。
「……あ、そうか。無視してしまえば良いのか」
「まあ、幸いにも先生の呼び出しじゃないもんな。あまりおすすめはできないけど」
有働さんは机にもたれかかりながら、何か思案するように腕を組んだ。もぐもぐと僕のガムを噛みながら「ふうーむ」と唸る。
「どうしたの? お腹でも痛いの?」
「いや、生徒会ってのがどうも引っ掛かって」
「生徒会? 何で?」
「いや」
そこで、有働さんの顔に迷いが生じた……ような気がした。まるで、言おうか言うまいか悩んでいるような。
「生徒会って……何かまずいの?」
不安になって、おそるおそる訊ねる。有働さんは目を瞬かせながら「まずくはない。多分大丈夫」とあまり大丈夫ではなさそうに答えた。
「絶対嘘やん」
「何でいきなり関西弁やねん」
「何か知っているなら教えてよ。この呼び出しを無視すると僕はどうなるの」
「あーもううるせえなー」
有働さんはがしがしと頭を掻いて、苛立ちを露にしている。そして、諦めたように「もう」と呟き、こちらに向き直った。
「生徒会長の十ヶ峰先輩が色々面倒なんだよ」
「とうがみね?」
「知らないのか? 漢数字の十、関ヶ原のヶ、峰不二子の峰、で十ヶ峰」
「へえ。あまり見かけない名前だな」
本当は有働さんの口から峰不二子の名前が出てきたことに少し驚いたのだが、話が変な方向に脱線しそうなので黙っておこう。
「で、その十ヶ峰先輩がどう面倒なのさ」
生徒会に関心も所縁もなく、従って聞いたことも見たことも無い名前である。ましてやその十ヶ峰先輩の人となりなんぞ知るよしもない。有働さんは苦虫を噛み潰したような顔でこちらを見る。
「かなりやり手で、先生や生徒からも信頼が厚いという噂だ」
「良いことじゃないか」
「だが、一部の生徒からはこう呼ばれている。『処分屋』」
「ヒットマンか何かなの?」
一昔前のアクション映画のタイトルみたいな二つ名に、ある意味面食らう。表の顔は生徒会長、しかし裏では……みたいな。しかし有働さんは真面目な顔を崩さず、彼女から冗談めかしたような雰囲気は一切漂ってこない。
「夏休み前の事を覚えているか」
「えっ」
あまりにも唐突だったので返答に詰まる。今は二学期が始まり少しが経った頃で、外に出れば風が少し冷たく感じる候だ。そして、そんな微妙に過去の事を聞かれても即座に思い出せないというのが正直なところで、
「ふっふっふ」
困惑する僕の挙動が面白かったのか、有働さんは、にや、と口角を上げ、そして言う。
「二年の先輩数人が一気に煙草や酒、恐喝で退学、停学処分になったことがあったろ」
「そんなこと」
あったっけ、と続けようとしてあっと思い出した。
「あの不良グループ」
校内で有名だった。はだけた胸元から覗くネックレス。ワックスで尖らせた金の前髪。耳たぶに光るピアス。彼らが廊下を練り歩けば誰もが口をつぐむザ・ヤンキーな彼らが一日にしてその数を大幅に減らした事があった。というか、案の定その悪事が公になったのだ。
「あれは先生がこぞって証拠現場を押さえたとか聞いたことがあるけど」
噂でしか知らないから確かなことはわからない。
しかし有働さんは、僕が唯一知っている情報に「いいや」と頭をふった。
「写真だよ」
「写真?」
「煙草や飲酒、恐喝の隠し撮り写真」
言って、有働さんは、かしゃ、と指でシャッターボタンを押すジェスチャーをした。
「たった数枚の写真だった。でも、その写真が元である先輩は停学処分に、はたまたある先輩は退学処分に。先生が突き付けたどうしようもない程の証拠写真を前に、警察が乗り込んで来る程暴れまわった先輩もいるとか」
「そんなに大事だったのか」
「あれは一種の暴動のようなもので、警察が来るまでは柔道部や剣道部、空手部を総動員して制圧しにかかったのさ」
「ふっ、おもしろいぞ……で、話の流れからしてその隠し撮り写真を職員室でばらまいたのが十ヶ峰先輩だと?」
「ご明察だな」
有働さんはまたもや僕の鞄から水筒を取り出し、キャップを開けて一気にあおる。長話をして喉が乾いたのだろうが、一体どうして。何故自分の水筒でお茶を飲もうとしないんだ。
「私が知っているのはここまで。十ヶ峰先輩が何を考えてそこまであいつらを追い詰めたのかは私もよく知らん。ただ、多分……」
「単なる正義感で動いた訳ではない、と」
言い淀んだ言葉の先。それを何とはなしに予想して言ってみた。有働さんは苦い顔を浮かべて、それが答えであるかのように黙した。
停学や退学になった奴らは自業自得ではある。
他の生徒が裏で恐喝されていたり、日々の彼らの行いに先生が手を焼いていた事実は拭えない。
ただ、一掃に至るまでの経緯について考えると、そこには触れてはいけない闇がありそうだ。例えば、煙草や酒はともかくとして、正義感旺盛な人間が生徒恐喝の現場で冷静にシャッターを切れるだろうか。
「知らない間に恨みを買ってなければいいんだが」
有働さんがそう呟くのと同時、『1年3組。泉野智也君。至急生徒会室まで』と本日二回目のアナウンスが鳴り響いた。
4
十ヶ峰先輩のことはよく知らない。
全校集会の時に壇上に上がっているのを眺めた事があるので、全く目にした事がないと言えば嘘になるのかもしれない。だが、意識してその姿を見ている訳でもない。
生徒会長が務まる位なのだから人格者で、成績優秀で、頭もキレる人物なのだろうとは思うけれど、これも単なる想像に過ぎない。
そしてその姿を間近に見た時、何となく想像通りだな、と思った。
「はじめまして」
前髪が長めのショート。くっきりした二重の目元。色白の肌に、シャープな顎のライン。すらっとした体躯なのに、姿勢が良いせいか貧弱さがどこにも感じられない。下ろし立てのスーツのようにパリッとしたブレザーに身を包んだその男は、僕が生徒会室に入るなり奥の席から立ち上がり、こちらまで来て綺麗なお辞儀をした。
「君が泉野君かな。ごめんね。急に呼び出しをして。何か予定があったのなら別の日にでもと思ったんだけれど」
「い、いえ。大丈夫です」
ドラゴンマガジンを買ってからでも間に合いましたか。なんて聞ける雰囲気ではなかった。そんな冗談でさえ真に受けられてしまいそうな危うさがそこにある。なんというか、話とは違って気の弱そうな印象を受けた。
「そう。それならこっちに来て、そこの副会長の席に座って……ああ、今日この部屋には僕以外誰もいないんだ」
促されるまま、会長席の真横にある執務机に着席する。木目で、つるりとした質感の、一見して上質な机。背もたれのバネがきいた、座面の柔らかな椅子。副会長の席、といったか。
じわっとお尻を沈み込ませると、ここに来るまでのとはまた違った種類の緊張が張り詰める。
「落ち着かない? 大丈夫だよ。生徒会が休みだから副会長が来たりもしない」
「そう、ですか」
生徒会が休みなのは確かなようで、十ヶ峰先輩以外に誰も部屋にはいない。生徒会長という役職だと休みの日でも仕事なのか、大変だな。そう思う反面、休みの日だから僕が呼び出されたのではないか、とも考えてしまう。
誰かに聞かせたくない話をするのに、うってつけの日ではないか。
「あの、要件は」
怖々とした心境で、尋ねる。すると十ヶ峰先輩は、にこ、と微笑んだ。これが女子なら心ときめく爽やかスマイル。でもここで、にこ、する意図が掴めず、こちらとしては戦々恐々となるばかりだ。
「僕が君をここに呼び出したのはね、仕事の為なんだ」
「しごと?」
しごと? 私事? 死事? 咄嗟にその言葉の意味を理解できず、訳のわからない単語を頭の中ででっちあげてしまう始末。そんな僕の混乱をよそに、十ヶ峰先輩は先を続ける。
「いやあ、僕ってさ、こんな役職に就いてる割に要領が悪くて、生徒会が休みの日に出てきてまで残りの仕事をしなければ前にも進まない」
「はあ」
「参ったよ。生徒会がこんなに忙しかったなんて思ってもみなかった。もう本当に誰かこの役職代わってくれって、そう思わない日なんてなかった」
こと、と机から音がした。見れば、いつの間に注いだのだろうか。ティーカップが置かれていて、白色の陶器に滲む薄茶色の水面から湯気と優しい茶葉の香りが漂ってくる。
「市販のやつだよ。口に合うかどうかわからないけれど」
「……ありがとうございます」
ハンドルを持って、ずず、と啜ってしまった。おっといけない。思わず十ヶ峰先輩を見たが、本人は気にしていないようで、席に座るなり天井を仰いで「ふう」ため息をついた。
「話を戻すと、自分の嫌なところばかりが見えてくるんだ。君にはそういうところがあるかい?」
不意に尋ねられ、答えようか答えまいか逡巡とした。ふうむ。本当にこの紅茶市販なのか。程好い酸味の中に引き立つほのかな甘味。その絶妙なバランスが思考を鈍らせ、気付けば「人間とはそういう生き物です」と正直に答えていた。
「ほう」
それまであまりこちらに関心を示していなかった十ヶ峰先輩がギョロりと僕を見た。しまった、と紅茶を吹き出してしまいそうになる。今のは失言にあたらなかっただろうか。
「君は、人間という生き物がどんなものか知っているんだな」
「いや、今のは」
「人間とは、時に選択を間違える生き物だ。僕や君に限らず、他の生徒だって日々選択を間違えては修正を図りながら生きている。そして中には自らの間違いに気付かない人だっている」
いきなり饒舌になった。もしや今の発言で怒らせてしまったのではないか。ところが、十ヶ峰先輩の顔に浮かんでいるのは憤怒の表情ではなかった。
「いやあ、凄くいいね。やっぱり君と話をしてよかった」
くっきりした目が更に見開かれて、黒目の艶が光沢を放つ。好奇の眼差しでこちらを見ながら、十ヶ峰先輩は身を乗り出してきた。
「自分の駄目なところに気付かない人間と、気付いてもなお知らないふりをしている人間がいるとする。さて、君はどっちがより滑稽に見えるだろうか」
「え、っと、急にそんなこと聞かれても」
というかこれは一体何の話だ。その質問にどんな意図があるというのか。まさか人間論チックな話を僕とサシでするために呼び出した訳でもあるまい。
それとも、今のやりとりには何か、裏があるのだろうか。
表面的な言葉や質問。
その中に皮肉や暗喩が込められているとするなら、こちらも狼狽えているばかりではいられない。「その質問には」
名残惜しいけれどカップを受け皿に戻し、深く座り直して胸を張る。すると十ヶ峰先輩の目が丸から半月状に変わり、瞳の奥に鋭さが垣間見えた。
「既に答えがあるようにお見受けしますが」
カマをかけただけだ。
十ヶ峰先輩の質問の意図なんて実のところさっぱりである。しかし効果はあったみたいで「僕が何を言わんとしているのか、やっぱり君にはわかるみたいだ」と声を低くして微笑んだ。わからないから困っているんだろうが。そんな怒号が喉元からでかかる。
「自分の駄目なところを自覚しても直そうとしない人間が、僕は嫌いなんだよ」
優しい口調で、でも言葉の端々に険を宿しながら先輩は諭すように言った。
「君には心当たりがあるんだろう?」
5
「えっ? ないですけど?」
ないよ。ないない。敬語をすっ飛ばしてそう言いかけた程に心当たりがない。生徒会に迷惑をかけた覚えもなければ、陰でこっそり酒を飲んだり煙草を吸ったりもしていない。自分で言うのも何だが慎ましく学生生活を送っている方だと思う。
「あの、誰かと勘違いされてはいませんか?」
戸惑いを隠せず、思わず聞いてしまう。
ところが十ヶ峰先輩は、はっ、と鼻で笑って僕に向き直る。
「いいか? 僕は忙しいんだ」
それまでの気の弱そうな、優しい声音が一変した。十ヶ峰先輩は座りながら自らの机を、ガン、と蹴り、苛立ちを露にする。
「これから学祭のシーズンで色々立ち回らないといけないのに、いちいち細かい事が気になってくる。主に君みたいな生徒のせいだ」
「一体何の話なんですか」
「胸に手を当てて聞いてみろ。自分が何をしたのか、どうしてこうなったのか」
「わからないからこうして聞いているんですが」
「バイク通学に心当たりは」
「何の」事だと言いかけて、喉に言葉が引っ掛かった。十ヶ峰先輩は「ほらな」これまでのとはまた質の違った、意地悪な笑みを浮かべる。
「僕のところには色々な話が入ってくる。中には誰と誰が付き合っていて、いつ別れたとか、そんな他愛もない話だってある」
十ヶ峰先輩は椅子から立ち上がり、緩慢な足取りで室内を巡る。猟犬が獲物の姿を捉えた時のように、席に座る僕の動静を見張りながら。
「何かの誤りでは」
「誤りがあれば正解も同時に存在する。君は正解を知っているのかい?」
「……いえ」
「僕は情報屋ではないけれど、立場上、色々と知ってしまうんだ。だから君の話も自然と小耳に入る」
「……へぇ、例えばどんな」
「君の家は最寄り駅から徒歩20分の場所にあって、しかし電車のダイヤは一時間に一本位。さぞ通学は不便なことだろうと思う。部活はしていないから下校が遅くなることはないけれど、夏は猛暑の中、冬は極寒の中、君は一時間に一本の電車をホームで待つことになる……君がしっかり校則を守っていればの話だ」
「……っ」
引くくらいに調べられている。素直な怖さと純粋な気持ち悪さが混じり合う中、ただ、一体どうやってそこまで調べる事ができたのか、と引っ掛かった。欺瞞がそこに潜んでいるような気がして。
「でしたら、僕がバイク通学をしていたと思う根拠は」
「学校の最寄り駅の駐輪場に君のナンバーのスクーピーがとまっている。ボディがぱっくり割れているやつだ」
その言葉を聞いて、僕は天井を仰ぎ見た。
もう手元の紅茶は冷めきっているだろうか。
「ふふ。まさか車種まで特定されているとは思っていなかっただろう?」
得意気な声が真後ろから聞こえ、背筋が粟立った。涎を滴らせた猟犬が、牙を剥き出しにして忍び寄る。そんなイメージが頭から離れず、身がすくむ。
「……これまずっと僕のあとをつけていたんですか?」
「まさか、そんな不効率な事はしない。でも、君の事を知っている人は僕一人だけじゃない」
「他に誰がいるんです?」
「さあ、誰だろうね? ああ、そういえばこんなこともあったかな」
十ヶ峰先輩が両肩に手をのせてきた。決して重くはないが、まとわりつくようなねっとりとした感触。嫌悪感を押し止めて「それは、どんな話でしょうか?」話の腰を折らないように気を配る。
「君の担任教師の事だ」
どく。胸の動悸が一層弾んだ。ぞわぞわとした心地で、まるで、胃の壁面に鳥肌が立ったような、「この前うちの、あ、いや生徒会のメンバーがたまたま見たんだってさ……君が木野先生に連れられて新しくできたラーメン屋に入るところをね」
「それは」
「まさか教師と生徒が、とは僕も耳を疑ったよ。一体何がきっかけだったんだろう、と」
「いや、きっかけも何もそれは間違いなく先輩の誤解で」
「僕だってまだ彼女の一人もできた事がないんだぞ!」
どん! と目の前に拳が振り下ろされ、ティーカップが中身ごと弾けそうになった。ついでに僕も悲鳴をあげそうになる。一体どうした。これまで比較的冷静だったのにどうして今のやりとりだけで。しかも勘違いなのに。
「体育祭が来ても文化祭が来てもクリスマスが来ても僕はずっと一人ぼっちだ! しかし君には年上の美人教師とかどうなってんだよマジで」
「先輩の」頭の「方がどうなってんですか! 落ち着いてください!」
「うるさい! 本当は僕だって今日に君を呼び出すつもりなんてなかった! 今日発売のドラゴンマガジンが売り切れてしまうからな! でもそれとこれを天秤にかけた時、僕の中で何かが弾けたんだ」
「それは自分の事を優先してくださいよ」
まさか先輩も講読者だったなんて……絶対に悟られてはならないと密かに誓った。
それにしても。ふうむ。
これが有働さんの言っていた先輩の本性というやつだろうか。知らない間に恨みを買っているとか、そんなレベルではない位に理不尽だぞ。
「……ところで先輩」
僕は、咄嗟にポケットの携帯を机の下に忍ばせた。ある程度の用意はしてきたつもりだったが、あえてがさごそと動かせた。
そして、考える。
十ヶ峰先輩は僕がバイク通学をしたところを「見た」とは一言も言っていない。つまり、僕がバイク通学をしているところを目撃した人物から証言を得たのだろう。
でも、だとしたら、先輩の口から予想していたワードが出なかった事が気がかりだ。
ならば。
ならばこれは。
「僕が先生と一緒にラーメン屋に入ったこととバイク通学とは話が全く別ですよね? もしかして、ただのひがみで僕はここに呼び出されたんでしょうか? それって生徒会長としてどうなんですか?」
若干の苛立ちを込め、半笑いの表情を意識しつつ訊ねる。十ヶ峰先輩は依然として余裕の笑みをたやさず、自席に座って僕を見る。
「僕が何の根拠もなくペラペラと喋る男だと思っているのか?」
「根拠もなくペラペラ喋る位に頭は薄そうに見えますが」
「ふざけるな」
十ヶ峰先輩の艶のある瞳孔が、きゅっと絞まったように見えた。鼻息が少し乱れ、肩が僅かに上下する。どうやら怒らせてしまったようだ、が、これでいい。
「僕が以前の件から『処分屋』と陰で囁かれていることは知っている。君は二年生の馬鹿共みたいに騒いだりはしないだろうが、虚勢を張っている点では同じだな」
「虚勢というのは、要はただの強がりという事ですよね? 僕はただ質問をしているだけです。一体何の根拠があって僕はここに拘束されているのか」
そう、これはあくまで質問。ただ、僕が感情的になっていると見せかけることが肝であり味噌となる。つまり、僕はある可能性に賭けてみることにした。
「十ヶ峰先輩は、生徒会長という立場にありながら、ただの私怨で生徒を糾弾し、停学や退学に追いやっているということでしょうか?」
そこまで言って、あとは待つ。
なるべく物音を立てず、身じろぎひとつせず、ただただ黙する。
十ヶ峰先輩が何を思い、どう発言するのか。それを静かに待つ。しかし、対する先輩は僕を睨み付けたまま、ぴくりとも動かない。
ごく、と喉が鳴った。夕焼けが落とす物陰だけがじわじわと濃くなって、かろうじて時間の流れを僕たちに告げる。
「なるほど」
しばらくの沈黙を破ったのは、先輩の方だった。
口角を釣り上がらせたまま、先を紡ぐ。
「君はやっぱり賢いな」
「……何が、でしょうか」
きゅるり、とその黒目が僅かに下を向いた。
あっ、と声をあげそうになる。が、どちらにせよもう遅い。勘づかれてしまったことは明白だ。
「君がさっきから隠し持っているその携帯」
「……ええ」
「録音しているだろ」
6
気付けば生徒会室は、取調室のような陰気な空間に様変わりしていた。勿論僕は犯人側。嘘とはったりで塗り固めた鱗を一枚一枚剥がされ、もうすぐで罪が露呈する。
その間際、携帯電話を使ったささやかな抵抗も虚しく終わってしまった。
「感情的になった僕が、君に対して暴言を吐くなり暴力を振るうなりする。君が期待していたシナリオだ」
「ばれてしまいましたか」
「やけに挑発してくると思ったんだ。だが、僕も馬鹿じゃない」
言って、十ヶ峰先輩は人差し指を作り、こめかみあたりでくるくる回した。
「こう見えて頭は回る方でね」
その仕草に、僕は諦めて携帯を机上に置いた。未だ通話機能はオンのまま。わざわざオフにするのが億劫だった訳ではない。
「そうだ。敢えて録音を切る必要はない。僕は正しいんだから」
「録音されていて都合が悪くなりませんか?」
「都合が悪くなるのは君の方だ。正確にいえば君と、木野先生が」
「へぇ……どうしてここで再び木野先生の名前が出てくるんです? 一緒にラーメン食べただけなのに」
冷めた紅茶を口に運ぶ。さっきと違って渋みが強い。温かいうちに飲みきってしまえば良かった、と後悔する。
「君が木野先生と交際を始めたのは」「異議あり。僕は先生と交際なんてしていません」「異議は認められない。却下」「何でだ」「要は交通事故なんだろう?」
ざわ。
その言葉に、胸中がざわめいた。
「交通事故?」
「とぼけても無駄だよ。木野先生の愛車に今も傷が残っている。君の原付バイクのボディが割れていることと無関係ではあるまい」
カップをソーサーに戻す。カチャ、と乾いた音が静かに響き渡った。見れば、十ヶ峰先輩の瞳は輝きを増し、一際愉悦の表情が濃くなる。
きっと、この瞬間がたまらなく好きなのだろう。
見苦しいまでに必死な愚者の抵抗。自分が優位に立った時に感じる相手の滑稽さ。
その優越感から染み出る旨みが癖になったか。
「泉野君、君はバイク通学をしているね?」
「はい」
「許可のないバイク通学が校則違反になるということは知ってはいたのかな?」
「はい」
「ばれてしまった以上ペナルティを受けてもらう手続きになるけれど、最後に申し開きはあるかい?」
「いえ。申し開きをするつもりはありません」
諦め。
今さら抵抗したところで何の意味もない。
ぎりぎり。奥歯を噛み締め、うつむいた。
「君がしていることは他の生徒にも悪影響を与えかねない。君が先輩になった時に真似をする後輩がいては困るからね……あ、いや間違えた」
十ヶ峰先輩はわざとらしく咳払いをし、その先を続ける。
「もし君が進級できればの話だ。停学というのは後の成績にも影響するからなぁ?」
粘りつくような、ねとつくような、低い声音。完全なる勝利を悟ったようなその態度に、本来なら成す術もない。僕はうんともすんとも言わず、ただただ下を向き続ける。
「泉野君、もしもーし? 僕の話、耳にはいっている?」
「はい。それはそれはとても」
返事を求められて、顔をあげた。視線が机の木目から先輩へ移り「……何で、この状況で笑っているんだ」先輩の表情が一瞬凍りついた。
「あれ、顔に出ちゃいました?」
おかしいな。ポーカーフェイスのつもりだったのに、なかなかどうして自分の表情筋は思うように操れない。
「何を考えているのか知らんが君はもう終わったんだ。虚勢をはり続けるのは」「将棋の事を考えていたんです」「は?」十ヶ峰先輩の顔に、さっきまでの余裕の笑みは残っていない。 ひたすらこちらの様子を窺うように、怪訝そうに見つめる。構わず、僕は続ける。
「将棋の本質というのはですね、僕が思うに思考の読み合いなんですよ」
「ボードゲームというのは大体そういうものだろ。それがどうしたって」
「先輩は人の考えが読める人間です。だから、常に相手の一手先、いや、二手先を考えて行動する。非常に優秀な棋士です」
「何が言いたい」
「ただ、醍醐味は別にある」
カタ。頭の中で音がした。確固たる目的を持って駒を盤上の升目に置いた時と似た高揚感。それが、胸の奥からせりあがる。
「……もしかして君は、僕とのやりとりを将棋に見立てているというのか? だとしたらわかるだろ? 君は王手詰みをされたんだ。敗北だよ」
十ヶ峰先輩がまくしたてるように言う。先輩が言うように、王手をかけられている事は間違いない。それも、もうどこにも逃げようがない状態で、殆ど詰みに近い。
ただ、自分に過信するあまり、詰めの甘さが際立つ。
「詰み将棋の場合、どの手順で駒を差すべきかが決め手になります。勿論、いくら自分の陣営が優勢でも配置を誤れば王に逃げられてしまいますし、最悪、自分が王手詰みをされる事だってある……先輩、これはただの将棋ではなく詰み将棋なんです」
「ちょっと言っている事の意味がわからな」「先輩は木野先生の車と僕の原付バイクの傷を見て、交通事故を推理なされたんですよね?」
声を張り上げて確認するように尋ねる。十ヶ峰先輩は「……ああ、そうだ」と渋々というように首肯した。またしても、カタ、と頭の中から響いてくる。
「僕がバイク通学をしている事を知ったのも、木野先生の車の傷がきっかけだった」
「そうだ。なあ、これは何のやりとりなんだ」
カタ。
ああ、そうだ。これは。
「ここまで確認されて、まだ僕の真意が掴めないのですか?」
「何?」
「王手です。先輩」
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