第3話
裸の女性が横たわっているのに対して、俺は服を着ている。それの何がおかしい。彼女が死んだ後、冷静になってからゆっくりと服を着たのかもしれない。最初はそう考えたのだが、そこに抱くのは違和感だけだった。しっかりと考えれば、違和感の正体は簡単に判明した。
俺の衣服には飛び散った血の跡が残っていて、それは脱ぎ散らかされた衣服に血が付着した、という感じではないし、それに一般的に考えて……、いやこういう状況に一般的という表現を持ち出すのもおかしい話なのだが、血の付いた服をわざわざもう一度着ようとするだろうか。頭が混乱していたから、と考えるのも可能だが、それまで検討しだすと最初の前提から崩れてしまうので、排除する。
だから俺は死体のそのひととセックスしていないことになる。それも不自然な話なのだが……、
また頭が痛くなり、しかしその痛みはこんがらがった記憶の糸を綺麗な形に直してくれているようにも思えた。
そう、そうだ……、俺は彼女とは肉体関係を持っていない。
うん……?
いやなんかこの言葉にも違和感があるが、それでもいま思い出した記憶にある限り、俺は彼女とはセックスしていない。
ようやく思い出せたことがある。この感じだ、とすべての記憶もいつかは戻るのだろうが、いつかでは遅すぎるだろう。もし俺が殺人犯ならば、この状況に対して早く対策をしなければいけないのだから。この調子で自分から記憶を戻していく努力をしていかないと。
それに男性の部屋に裸の女性がいた、という事実は依然として変わっていない。
とりあえずこの記憶がよみがえったことで、浮気相手との情事の途中に、恋人が現れて……、という一番腑に落ちやすい感じのするストーリーが違っていることは分かった。まぁこのストーリーも、ではその恋人はいまどこにいる、という問題が発生するので、腑に落ちやすい話ではあるが、完全に腑に落ちる話ではない。
なんとなく癖で自分の身体を触っていると、固いものが手に当たり、取り出すと、それはスマホだった。俺はスマホの着信履歴を確認しようと画面を見てみたが、ロックを解除する番号が分からず、すぐに断念してしまった。
ただ電話の着信履歴は何かのヒントになるかもしれない、と俺はその部屋を出て、家の固定電話の場所を探そうと思った。……だが、それより何よりもまず確認しなければいけないことがあった、と思い付く。というより、今までこのことを考えもしなかった自分の鈍感さ、愚かさを嘆きたくなる。俺は元よりこういう人間だったのか、あるいは記憶の曖昧なままこんな状況に置かれてしまったことによる弊害なのか。
財布だ。
彼女の財布はどこにあるのだろう。ベッドを見ると、彼女の脱いだ服があり、その上にバッグが乗っている。この女性の持ち物だろう。見覚えのある高級ブランドのロゴが入ったそのバッグを掴む。開けようとした時、一瞬、ためらいがあった。
死人の持ち物であり、誰に咎められるものでもない、とはいえ、他人の秘密を覗き見するような後ろめたさがある。ただ俺自身も、切羽詰まっている状況があり、そんなことを考えている暇もない、と思い直し、バッグを開ける。
そこにはやはりそれもバッグと同じ高級ブランドのロゴの入った、財布が入っている。
中身を確認すると、予想通り免許証が入っていた。
【君嶋里香 平成5年11月22日】
住所は確実にこのマンションのある県や市町村を表すものとは限らないが、千葉県となっている。
名前や年齢を知ることができたのも大きい気がする。君嶋里香……キミシマリカという二十代半ばの女性が俺の浮気相手なのか。名前を知っても、あまりぴんとこない。だとしたらあるいは里香という女性は、俺の新しい恋人なのだろうか、とも考えてみたが、それもそれであまりしっくりとこない。それに、もしも新しい恋人がこの死体の女性だとしたら、あんなに堂々と昔の恋人との写真を残していくだろうか。
あるいはストーカー、という可能性はないだろうか。俺の部屋に忍び込んでいたストーカーと揉み合いになり、その挙句に殺してしまった。希望的な意味でも俺はこの考えにすがりたくなったが、ただストーカーから身を守るための殺人だとしたら、自棄になって睡眠薬を大量に飲むなんて行動を取るよりも、その後の罪の重さを考えると、警察に頼ったほうが理に適っている気はする。もちろん人間がつねに理に適った行動を取れるわけではないが……。この可能性は俺の期待も含めて残しておきたいので、いったん保留という形にする。
財布は他にはポイントカードの類とすこしばかりの紙幣くらいしかなかった。
財布から得られる情報はこのくらいだろう。バッグのほうも探ってみたが、化粧品だとかウェットティッシュだとか、いまの状況に劇的な変化を与えてくれそうなものは何もなく、せめて手鏡でもあれば、自分の外見の情報を得られるかも、と思ったが、残念ながら入ってはいなかった。
俺はモニター付のインターフォン、いわゆるドアホンと呼ばれるやつだ、その横に備え付けられた固定電話の前に立ち、着信履歴を確認することにした。よく連絡を取り合う相手なら、名前が登録されているはずだ。
当たりだ。
【石倉書房キミシマ】
からの着信が最新で立て続けに三件届いている。
キミシマは、片仮名だが、漢字に直せば先ほどの君嶋になるのだろうか。電話に登録する際、漢字が思い出せず、片仮名で打つことはめずらしくないはずで、そこになんらかの意図がある、と考えるほうが不自然に思える。
石倉書房……?
石倉書房は出版業界に馴染みのない人間でも大抵は知っているほどの大手出版社だ。
うん……?
俺は何故、出版業界に馴染みのない人間、なんていう表現を頭に思い浮かべてしまったのだろう。偶然、ふと浮かんだ。それも絶対にないとは言い切れないが、それよりも、俺が出版業界に多少関係のある人間だ、と考えたほうが可能性として高そうだし、そもそも出版社の人間と連絡を密に取り合うのに出版業界とは一切関係のない人間のほうがすくなそうだ。
また頭が痛くなる。
石倉書房の君嶋里香……。あぁ俺は確かに彼女を知っている。すこしだけ思い出した。
彼女は、俺の担当編集者だった。
じゃあ俺は作家だったのか。いやこれは間違っているわけではないが、厳密には正しくはない。現時点で、まだ俺は作家ではない。本を一冊も出したことなんてないのだから。
これから商業作家になる予定のあった俺の職業はシナリオライターだった。そう高村司郎の職業はシナリオライターだ。ひとつの重要な記憶が戻ると、不完全ながらも芋づる式に他の記憶もよみがえっていくのが分かり、この感じならば、すべて思い出すのも近い、とほっとする。
彼女と出会ったのは、一本のゲームのシナリオがきっかけだった。
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