第2話
居酒屋せかいのはては、大学キャンパスから10分ほど離れたところにある。せかいのはてというその名前の通り、店内は殺風景でドラム缶の上に座布団を敷いて席にしているような格安居酒屋だが、値段の割に量が多く味も悪くないことから学生たちでいつも賑わっていた。
今日もそうだ。すぐ隣で教授への不満をまくし立てている男子学生の唾が時々飛んでくる。店内はほぼ満席状態だった。
俺はさっきから入口の方を気にしている。約束の時間にはまだ早い。だがそもそもあいつは約束の時間なんてものを守るやつだったか。それさえもよく分からない。俺はあいつのことをたいして知りもしなかった。
二杯目のビールを飲みながら、俺は昨晩立てた計画を頭の中で再点検する。完璧な計画のはずだった。成功しないはずのない計画だった。あとはその計画をうまくやるだけだが、それだけが心配なところだ。何しろ俺は計画通り物事を進められた試しがない。
待ち合わせした時間ちょうどに、あみこは現われた。白石あみこ。俺の一つ下の学年だが、俺は大学に入る前に一年浪人しているので年は二つ若い。あみこは大きいがあまり感情の宿らない冷たい瞳で入口から店内を見渡す。俺が立ち上がり手をあげると、あみこは満席の客席の間を縫うようにやってきた。
「よっ、久しぶり。飲み物、何にする? ビールでいいか?」
「じゃあ、ハイボールで」
俺は近くの店員を呼び止めようと声をあげるが、周囲の喧噪に邪魔されて店員まで届かない。何回か繰り返したところであみこが「すみません」とよく通る声で空間を切り裂き、店員を呼び止めることに成功した。あみこはハイボールとだし巻き卵や唐揚げなど、食べ物を何品か注文した。
「料理、勝手に頼んじゃいましたけど良かったですか?」
「ああ、いいよ。何でも頼め。今日は俺の奢りだ」
あみこは大きな目で俺の顔をまじまじと見る。俺は照れ隠しでそんな自分の顔を触る。今朝は髭を剃っていないせいで無精髭が生えていた。じょりじょりする。
「星泉先輩、内定決まったんですか?」
「いや、決まってないよ。何で?」
「何でって……」
「就職活動はさ、いったん中止だよ、中止。あんなのいつまでやってたってしょうがないよ。それよりも俺にはやらなきゃいけないことがあるんだよ」
そこであみこの目の前にハイボールの入ったジョッキグラスが置かれたので、俺は飲みかけの生ビールを軽くぶつける。
「おつかれ」
俺はグラスに残っていた中身を一気に飲み干すと、近くを通りがかった店員におかわりを頼んだ。
「星泉先輩、何杯目ですか? あんまりお酒強くなかったですよね」
「3杯目。大丈夫だよ。今日は飲みたい気分なんだ。それよりも、知りたくないのか。
俺が就職活動やめて何やるつもりなのか?」
「就職活動やめて何するつもりですか?」
あみこはだし巻き卵を口にしながら俺の言葉を復唱するように言った。俺は、待ってましたとばかりにスマホの画面を出して見せる。
「第1回日本恋愛小説大賞……、何ですか、これ?」
スマホの画面に表示していたのは春潮社の公式サイトだった。口づけを交わし合う男女のアーティスティックな絵を背景に、日本中に愛の灯をともせ!のキャッチコピーがでかでかと書かれている。
「これに応募するんだよ。締め切りは来年の3月31日」
「……誰が」
あみこは、まだ話が飲み込めない、というように俺をじっと見ている。
「俺だよ。俺に決まってるだろ。白石さ、前に俺に言ったことあったろ。俺は恋愛小説書いた方がいいってさ」
今でも覚えている。文化祭で駄菓子屋をやりながらサークル文芸工房の部誌『文華』を売っていたときのことだ。あみこは俺の隣に座ってペラペラと部誌を読んでいた。あみこはちょうど俺の書いた短編小説『因縁』を読み終えたところだった。『因縁』は、小学生の頃に出会った因縁の男との20年にわたる因縁の日々を描いた傑作因縁小説だった。そのときあみこは言ったのだ。
「先輩、恋愛小説でも書いてみたらいいんじゃないですか?」
文芸工房は小説や詩を創作して部誌にして発表するサークルだったが、あみこは作品を自分で発表することがなかった。その代わり、部員たちの作品を批評し、助言する編集者のような役割を担っていた。あみこの作品を読む目は正確で、その助言を参考にし、部員たちはそれぞれの書きたいものを発見し、飛躍的に文章力を向上させていった。
「そんなこと言いましたっけ」
「言ったよ」
あみこがとぼけた顔で言うので俺は少し焦る。ここを認めてくれないと今回の計画は破綻してしまう。
「言ったかもしれませんね。先輩の小説は主人公がぐじぐじと悩んでばかりいる暗いのばかりだから。恋愛ものでも書いてみればもっと何か変わるんじゃないかって意味で」
「だろ! 俺もそう思うんだよ。俺の作品に足りないのは恋愛要素だよ。この前あけぼの新人文学賞に出した作品が2次選考止まりだったのも、恋愛要素がなかったせいだ。そういえば今回の芥川賞獲ったのも恋愛を描いた作品だった。やっぱ世の奴らは恋愛ものが好きなんだよ。さすが白石だよ。俺に欠けているものをよく分かっている。そこで、俺は白石の助言通り、恋愛小説を書いてみることにした」
俺は、スマホの画面を再度あみこの目の前に差し出し、振ってみせる。
「第1回日本恋愛小説大賞。そんな俺にこんなにぴったりな文学賞はないよ。これは、俺のために作られた賞とさえ言える。運命だよ」
あみこは、スマホの画面をチラリと見ただけで、貪るように鶏の唐揚げを食い、そしてハイボールをがぶ飲みしていた。赤いルージュの唇が唐揚げの油でてらてらと光り輝いている。あみこはハイボールを飲み干してしまい、近くの店員を呼び止め、おかわりと料理を何品か追加で頼んだ。
「実は、今日、お昼何も食べてなくて」
「おぉ。いいぞ、どんどん食え」
「いいと思いますよ」あみこは2杯目のハイボールをグビッと飲みながら言う。「今まで書いてこなかったジャンルに挑戦することは先輩の作品世界を広げることに繋がると思います。書いたら読ませてください。アドバイスとか、私にできることならしますよ」
それこそが俺の聞きたい言葉だった。計画通り。そしてここからが勝負所だ。俺の言葉の巧みさの見せ所だ。
「そこでだ、実は折り入って白石に頼みたいことがあるんだ。……俺と、付き合って欲しい」
あみこは、枝豆の豆を殻から取り出し、口に放り込もうとしているところだった。並びのいい綺麗に揃った前歯が見えていた。
「は? 何ですか」
「俺と、付き合って欲しい。俺が恋愛小説を完成させるまでの間、期間限定で。俺の恋人になってほしい」
言えた。あみこの目を見て。ちょっとだけ早口で少し震えてしまったけれど、ちゃんと言えた。
「何言ってるんですか、先輩」
枝豆を持ったままの右手を下げて、あみこは言った。
「何って、今言ったとおりだよ。俺と付き合って欲しい。俺が恋愛小説を書き上げるまで」
「いや、全然意味分からないですよ。何でそうなるんですか。先輩が恋愛小説書くからって何で私が先輩と付き合わなきゃならないんですか」
「白石がそう思うのも無理はない。オーケー。白状しよう、俺には恋愛経験がない。まったく経験がないものを書こうと思ったって書けない。だから言っている。俺と付き合ってくれ」
「いや、白状されなくたって、そんなこと知ってましたけど。だからって何で私が付き合ってあげなきゃいけないんですか。恋愛ごっこしたいなら他当たってください。私も就活の準備とかで忙しいんですよ」
「もちろん、タダでとは言わないさ。ここを見ろ、ここを」そう言って、スマホの画面の一部分をスワイプして拡大して見せる。「大賞、賞金500万円。受賞したら、賞金はもちろん山分けだ。半分白石にやるよ」
あみこは諦めたように枝豆を口の中に放り込み、噛んだ。
「半分って……」
「お! 半分じゃ不満か。なら、全額やってもいいぞ! 俺は金目的で書くわけじゃないんだ」
元よりそのつもりではあった。これは交渉術だ。最初に低い額を提示し、徐々にその額を吊り上げる。
「いや、やりませんけど。それは、大賞受賞したらの話でしょう。受賞しなかったらどうするか」
「受賞しなかったらじゃない。そんな他人事みたいに言うな。受賞させるんだよ。白石がさせるんだ」
「また訳分からないこと言ってますよ。書くのは先輩ですよね」
あみこはハイボールを飲み終え、俺のグラスも空になっていたので、近くの店員を呼び止めドリンクのお代わりを頼む。
「書くのは確かに俺だよ。俺は一生懸命書く。でも、俺はまったくの恋愛未経験で、恋愛小説もまともに読んだことがない。正直上手く書ける自信がない。だから、白石には編集者的な役割を担ってもらいたい。俺の作品を読み、助言をし、大賞を受賞するような作品に導いて欲しい。白石、そう言うの得意だろ」
「別に得意じゃないですよ」
「いや、得意だよ。その証拠に、文芸工房の部誌、文華は回を追うごとにレベルが上がっていっている。皆が頑張って書いているのはもちろんだけど、それは編集者的役割を担っている白石が優秀だからだ。白石がいなければ、皆あんな風に書くことはできなかった。俺はずっとそう思っている。俺だって、白石のおかげで書けた作品が幾つもある」
それは、本当のことだった。俺も含めサークルの連中は皆自分が書くばかりで他の奴らが書いた作品をろくに読もうとしない。あみこは違った。あみこは誰が書いた作品も丁寧に精読し、それぞれの文章の魅力を引き出し、課題を見つけ出し、それを直接伝えた。部誌に載せる前にあみこは納得のいくレベルに達するまで何度でも直させ、そのせいで部誌の完成前はノイローゼになる部員が続出するくらいだった。でも、部誌ができあがってみると皆実力以上の作品が載っているので逆にあみこに感謝した。
店員がビールとハイボールのお代わりを持ってきたので、飲む。早くもっと酔わないといけない。酔わないと、この口下手な口がうまく回ってくれない。
「それは、どうも。同じサークルの仲間として、作品に関して、私に協力できることならやらせてもらいますよ。先輩の作品は私も好きだし。でも、それと先輩の恋人?になることは別ですよ。第一、そんな恋愛の真似事みたいなことしたって恋愛小説なんて書けるようにならないです。本当に好きな人を見つけて、その人と恋人になってください。たとえその恋が実らなかったとしても、その方が本当の恋愛小説を書けるはずです」
そう言ってから、あみこはハイボールをぐびぐびと飲む。良い飲みっぷりだった。そして正論だった。あみこの言うことはいつだって正しい。でも、この場合正しいようで正しくない。あみこには言っていないことがある。俺はあみこのことが好きだった。本当に好きだったのだ。初めてあみこを見たあの日から。話は二年半ほど前に遡る。
世界の果てで愛を叫んだけもの @yumeoni
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