エピロ-グ2 老婦人は、新しい時代に夢を見る
「まあ、パトリック・ランズバ-ト様?……どなたかしら」
書斎で、アイリスは執事とともに、分厚い一通の手紙を前にして、首を傾げていた。封筒は量産型の安いもので、名前と住所が書いてあるだけだ。消印の文字も、掠れていて読めない。
端的に言って、不審きわまりない。
「やはり、ご存知ないお名前ですか……燃やしてまいりましょうか」
「いいえ、開けてみましょうよ。何か危ないものだったとしても、わたくしなら大丈夫。どうせ老い先も短いのだし。それにこれも、時代の流れよ」
亡き夫の口癖を真似しながら、難しい顔をする執事にかまわず、彼女は銀盆から手紙を取り上げる。
使用人が手紙を届ける時代は終わり、郵便局員が手紙を配ってまわるようになった。庶民の間で識字率が上がったことや、紙や郵送の料金が下がったことで、今では多くの人が手紙を書ける。だから、こんな手紙も、現代では不思議ではないのかもしれない。そう思うことにしよう。
ぺ-パ-ナイフで封を切ると、中には十枚の便箋が入っていた。不思議なことに、一枚目の便箋は真新しいのに、それ以外の便箋は、上等だが古いものだ。
一枚目の便箋には、型通りの時候の挨拶とともに、突然手紙を送ったことへの謝罪が書かれていた。読み進めていくうちに、アイリスははっと目を見開く。
『先月十六日に、父エヴァン・ランズバ-トが他界いたしましたため、遺品の整理をしておりましたところ、夫人へのお手紙が見つかりました。まことに勝手な判断ではありますが、死去の連絡とともに送らせていただきます』
「そんな……エヴァン様が、亡くなったなんて」
夫のクリストハルトも七年前に他界したことを思えば、おかしくもなんともないけれど。
親しかった人の死はいつも悲しくて、そしてアイリスにも死期の近さを自覚させる。
「わたくしも、クリストハルト様が亡くなった歳をとうに越してしまったものね……」
いつ死んでもおかしくないわ、とこぼすと、執事は首を振った。
「いいえ、奥様はお元気ですから、もっと長生きなさいますよ。……しかし、あの方が亡くなられるとは。月日が流れるのは、早いものですね……」
しみじみとした口調の執事に頷く。あのときフットマンだった彼も、四十年近い年月の中で執事となり、この家に尽くしてくれた。そろそろ引退を考える年齢だ。
「先月の……いえ、もう月が替わったから先々月ね。その十六日に亡くなったのですって。結局、死に目にすら会えなかったわ。……まったく、頑固者なんだから」
二度と連絡を取らないと言ったエヴァン。その宣言通り、彼は一度も連絡をしなかった。お互いを忘れるべきだと言っていたから、忘れられてしまったのかと思っていたけれど。
(お手紙を遺してくれたのだから、私たちのこと、覚えていてくださったのよね……)
アイリスとクリストハルトが、事あるごとに彼を思い出していたように、彼もときどきは自分達を思い出してくれていたのかもしれない。そう思うと、少しだけ心が温かくなった。
「……さて、エヴァン様のお手紙には何が書いてあるのかしらね」
気を取り直して、アイリスはぱらりと音を立てて古びた便箋を開く。ふわり、とかすかに漂う嗅ぎなれない匂いに、エヴァンと別れてからの時間の長さをあらためて実感した。
『もしもこの手紙が君に届く時があれば、たぶんその時、僕はこの世にはいないんだろう。だけど、君は僕を案じてくれているだろうから、こちらでの日々を書き残しておくよ』
そんな出だしで、手紙は始まっていた。日付は、エヴァンが結婚してから七年後のものだ。記憶にあるものと変わらない丁寧な筆跡をなぞりつつ、ゆっくりと読み進める。
メイベル国での暮らしから、領地の人々の様子、妻エリカとのやり取りや二人の息子の成長ぶりに、最近生まれた娘の愛らしさ。そういったことが長々と書き連ねてあって、思わず笑ってしまった。特に子供の描写は細かくて、彼の親馬鹿ぶりがうかがえる。
『エリカはちょっと気が強いけど、明るくて素敵な女性だ。君とは気が合うんじゃないかな。会わせてあげられないのが残念だよ。子供たちを見せられないのは、もっと残念だ』
そんな言葉で締めくくられた手紙が彼らしくて、小さく笑みをこぼす。彼の死を知ったときの悲しみは、すっかりどこかに飛んで行ってしまっていた。
「エヴァン様ったら、すっかり子煩悩の父親ね。娘が小さいうちからもうお婿さんの心配なんて。……きっとその娘さんも、とっくに嫁がれたのでしょうけれど」
娘が嫁ぐとき、エヴァンはどんな反応をしたのだろう。アイリスの父は涙ぐんでいたし、クリストハルトは娘の結婚式のたびに慣れないお酒を過ごして顔を真っ赤にしていた。普段きっちりしている夫のそんな姿が珍しくて、見ているのが楽しかったことを思い出す。
「そういえば奥様は、あの方と何か勝負をなさっていたのでは?」
不意にそう執事から訊ねられて、アイリスは目を瞠り、ついで苦い笑みを浮かべた。ずっと昔に一度だけ話したことがあったけれど、まだ覚えていたなんて。
「勝負というよりは、わたくしが張りあっていただけよ。……結局負けたけれど」
『振られたクリストハルト様を、わたくしがお慰めするのです。そうして、いつか本気で好きになってもらいますわ』
遠い昔の宣言を思い出す。あの言葉通り、アイリスはクリストハルトに愛されるように努めた。……でも、エヴァンには勝てなかった。
クリストハルトは相変わらずアイリスを大切にしてくれたし、子供たちも生まれて、幸福な家庭を築けたと自負している。けれど、クリストハルトの中で、エヴァンはずっと別格の存在だった。死を迎えるそのときまで。
『死んだら俺は、あいつと同じ地獄へ行くだろう』
だから君は、俺のことは気にせず、ゆっくり天国へ行ってくれ。その言葉が遺言だった。
「ひどい人。最後まで、嘘でも『君だけを愛してる』なんて、言ってくれない人でしたのよ」
ぶつぶつ文句を言うアイリスを、おかしそうに執事は見た。愚痴をこぼしていても、その目元は柔らかく弧を描いている。それだけで、この老婦人が亡き夫に向ける愛情の深さが読み取れるというものだ。
「……旦那様は、万事そつなくこなすように見えて、肝心なところで抜けていらっしゃる方でした。きっと奥様には言い忘れておられたのでしょう」
「……まあ。本当、仕方のない人ねえ」
執事の言葉に、くすくすと笑う。そうだったら、どんなにいいだろう。
(そうじゃないのは分かっている。……でも、それで構わないのだわ)
クリストハルトは、アイリスにたくさんのものをくれた。
彼と一緒に過ごす時間、記念日にくれた贈り物、子供たちに、優しい思い出。
クリストハルトの一番にはなれなかったとしても、十分すぎるほど幸福な日々だった。
「お返事は書かれますか?」
執事の声に、再び手紙に目を落とす。貴族が送るには、あまりにも簡素なものだ。今はどうなのか分からないけれど、昔ならば無礼だととられても仕方がない。
(でも、これも、「そういう時代だから」なのかしらね)
「……そうね、お礼の手紙を書かないといけないわ」
執事に便箋を用意するように言いつけながら、クリストハルトの口癖を思い出す。真面目で堅実な性格とは裏腹に、新しい思想や流行を積極的に取り入れる人だった。
『時代は今、大きく変わろうとしている。社交界はいまや貴族だけのものではなく、地主や企業家など、さまざまな出身の者が出入りする場所だ。彼らはこの貴族中心の箱庭に風穴を開け、いずれはこの国を根底から変えてしまう。そんな彼らを遠ざければ、自分達が取り残されることになる。ジェイソンは、彼らとの良い橋渡し役になってくれるだろう』
そう言って、兄のジェイソンが興した貿易会社にまっさきに投資したのも彼だ。それが功を奏して、ヘインズ家はさらに社交界での地位を高めた。二人の娘が良い縁談に恵まれたのも、そういった彼の手腕があったからだ。本当に、アイリスなどにはもったいないくらいに、いい夫だった。
クリストハルトの言った通り、アイリスが若かった頃とは、ずいぶんと世界は変わった。街の様子も、人々の考え方も。国のあり方もまた、変わろうとしている。
「最近、女性が政治に参加できる権利を与えるべきだって言う運動があるみたいね」
「ええ、聞き及んでおりますよ。それに賛同する女性運動家も、出てきているとか。特に若いかたがたが中心となって活動しているそうですな。……それにともなって、わずかですが、身分に関係なく結婚できるようにすべきだ、との声もあがっているとか」
突然アイリスが話を振っても、執事は落ち着き払って答えた。
「……いつか、本当に、女性が男性と肩を並べるようになる日が来るのかしら」
「さて。私には、はかりかねますな」
肩を竦めた執事に、頷いた。アイリスにとっても、ひどく非現実的に思える。
(……ああ、けれど。もしも、そんな世界になるのだとしたら-)
いつか、男性同士、もしくは女性同士の恋人たちが、誰にはばかることもなく、愛を語らえる世界にもなるのだろうか。
かつてのクリストハルトとエヴァンのように、絶対的な無理解と偏見の壁に屈することなく、死後の世界に旅立つそのときまで共にいられるようになるのだろうか。
(それは、……なんて、素敵なのかしら)
絶対にありえないと思ってきたことが、現実になるかもしれないという期待に、胸が弾む。
「いいわ、いいわね。そんな時代が来るんなら、わたくしも応援するわ」
「……はい?」
突然立ち上がったアイリスに、執事は怪訝そうに首を傾げた。
「その運動家のかたを、支援すると言っているのよ。シルズべリ-氏と言ったかしら、彼に連絡を取って。今すぐ!」
「かしこまりました」
納得していなさそうな顔ながら、即座に命令を実行すべく身を翻した有能な執事を見送って、アイリスは窓の外にふと目を向ける。庭に植えた木に、若葉が芽吹いていた。それに向かって、微笑みかける。
「待っててくださいな、エヴァン様、クリストハルト様。今は無理でも、いつか、あなたがたが一緒に天国に行ける未来が来るように、微力ながら力を尽くしたいと思いますの」
もう二度と、彼らのように、愛する人と引き離される人がいなくて済むように。
彼らの愛が、罪に貶められないように。
「愛の形がどんなものであれ、誰に対してのものであれ、罪だと定められることはあってはならない。……そうじゃなくて?少なくともわたくしは、そう信じているのよ」
たとえ醜くても、歪でも、抱く想いは等しく尊いものだから。
そっと手紙を抱きしめると、まるで返事をするように、かさりと音を立てたのだった。
これで、「愛のカタチ」完結となります。最後までお付き合いくださって、本当にありがとうございました。
番外編もいくつか出す予定です。質問や気になること、書いてほしい話などありましたら、いつでもお知らせください。できる限り答えます。
愛のカタチ 夕崎まほろ @taublume
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