エピロ-グ1 夏の日の夕暮れに、彼女は婚約者と出会う
ざあっと風が吹いて、まだ青い麦の穂を揺らす。
顔にかかる髪を手で払いながら、私は大きくため息をついた。せっかく整えたのに、ぐちゃぐちゃだ。やり直しをしている時間もない。
「おやお嬢様。今日はおめかしされてますねえ」
しわがれた声に、振り返った。幼い頃から良くしてくれている、領民の一人だ。
「私のお婿さんがいらっしゃるのよ、きちんとした格好でお出迎えしないとね」
「それはようございますねえ」
ほっほっと声を上げて笑う老婆に合わせて微笑んだけれど、内心は晴れなかった。
(エヴァン・ノ-ランド様ってどんな人なのかしら。華とまでいわれるウィ-トンズの都を離れて、メイベルの、しかもこんな田舎に婿に来るなんて、よっぽどの醜男か、ひねくれ者ということ?それとも、なにか良くないことをして、社交界にいられなくなったとか……)
考えれば考えるほど、悪い想像が膨らんでいく。婿を迎えられるのは喜ばしいことだが、結婚相手がどんな人なのか分からないのは、かなり不安だ。
(でも、そんな相手を選ばざるを得なくなったのは、私のせいなのよね……)
本当なら適齢期になってすぐに、ふさわしい相手と結婚して、早急にこの家の跡継ぎとなる男児を産まなければならなかったのだ。それなのに、この歳になるまで結婚相手が見つからなかったのは、ひとえに私の性格が原因だった。
ここヴァ-ストン子爵領は、国内有数の麦の産地だ。領地はそれほど広くないながらも、より多くの実をつける品種を選抜し、改良に改良をかさねてここまで大量の麦を生産できるようになったのだ。先祖代々のその努力を無駄にできないし、何より私はこの土地を愛している。私の代で子爵家を潰すようなことはできないと、社交界に出られるようになった歳から婿探しに奔走していた。
しかし、その必死さは、男性には受けが悪かった。その上、ヴァ-ストン子爵領はかなり王都から離れた場所にある。いうなれば田舎なのだ。
(だから、あんなことを言われるのかしら……)
『田舎の泥臭い女が、こんなところにいるんじゃない。おとなしく領地にひきこもって、そこらの男と結婚すればいい』
三年前の夜会でそう嘲られて、反射的にその男を平手打ちしていた。くっきりと手のひらの痕を頬につけて、呆然としていた男の顔は、今でも忘れられない。
最悪なことに、その男は侯爵家の三男だった。その噂が広まって、夜会でダンスに誘われることはなくなり、この歳まで婚約者もつくれなかった。今思えば馬鹿なことをした、と思う。ほんの少し、耐えればよかった。それだけで、少なくとも社交界にはしがみついていられたのだ。彼らの挑発にわざわざ乗ってやることなんて、なかったのに。
(でも、愛する人と結婚できたとして、必ずしも幸せになれるとは限らない。相手がどんな人でも、跡継ぎさえもうけることができれば、私の人生に意味があったと言えるわ)
自分を鼓舞するようにそう言い聞かせたとき、がらがらという馬車の音が聞こえてきて、はっとして背筋を伸ばした。婚約者がやって来たのだ。
鬼が出るか、蛇が出るか。戦々恐々としながら、私は馬車の窓を見上げた。顔立ちは、影になってよく見えない。
扉が開き、細身の男性が下りてきた。門の前に立つ私を見ると、彼は丁寧な仕草で帽子を取って一礼する。その直前、鮮やかな若葉色の瞳が、優しく細められたのが見えた。
「初めまして、婚約者殿。私はエヴァン・ノ-ランドと申します」
男性にしては多少高めの声なのに、不思議と不快にはならなかった。
「は、初めまして。エリカ・ランズバ-トですわ。その……エリカとお呼びください。改まった言い方も、けっこうです」
「では、お言葉に甘えて。これからよろしく、エリカ嬢」
緊張のあまり、ややつっけんどんな言い方になった私に構わず、にっこりと人好きのする笑顔を浮かべた彼に、内心驚く。
(思ったより普通だわ。顔だって、社交界でもてはやされる顔立ちとは違うけど、ちょっと幼げで可愛いと思うし……緑の目も綺麗)
優しそうな雰囲気だし、仕草も丁寧で気品がある。どうしてこんな人が、こんなところに婿入りしようと思ったのだろう。
気になって仕方がなくて、私はつい、彼に声をかけてしまっていた。
「あの、エヴァン様、とお呼びしても……?」
ええ、と答える柔らかな声に気を許して、私はさらに言葉を続けた。
「エヴァン様は、どうしてここにいらっしゃったのです?」
「それは……」
「あ、その。言いたくなかったら、無理にとは申しませんけれど」
言いよどんだエヴァン様に、咄嗟に手を振ると、いえ、と静かな声で彼は首を振った。
「貴女には、知ってもらうべきかもしれない。私が……いや、僕が、どんな人間なのか」
「えっ……いいんですの?」
「長い話になるし、うまく話せないかもしれない。それでもいいのなら」
本当は話すつもりもなかったんだけどね、と彼は小さく微笑んだ。
「でも、どうしてか、貴女には話してもいいと思えたんだ。なんというか……話しても、嫌われない気がして」
「それは……話の内容によりますわ。最悪、跡継ぎさえつくれればいいと思っていますけれど、やっぱり、旦那様になる人ですもの」
虚を突かれたように目を瞠るエヴァン様に、はっと口を押さえる。ずいぶんと失礼なことを言ってしまった。嫌われたら、子どもがつくれないかもしれない。それは困る。
「エヴァン様がどうでもいいわけではありませんわ、断じて!でも、ここには跡継ぎが必要なのも事実なの。だから、つい……」
焦る私に、彼はふわりと笑った。
「父から聞いているから、そのあたりの事情は理解しているつもりだよ。そちらの機能も……たぶん、大丈夫。うん」
少しだけ悲しげに表情を曇らせて、エヴァン様は遠くを見た。彼の故郷がある方向。
静かに佇むその姿は、まるで疲れ果てた旅人のようだった。長く険しい道を進んできた人を思わせるそのまなざしに、彼の歩んできた人生が、決して平坦なものではなかったことを知る。やはり、なにか事情があって、彼はここへ来たのだ。
(だけど……このひとは、逃げてきたわけじゃない)
夕日に照らされた横顔は、儚げにも見える。けれど、その背筋は凛と伸びていて、芯の通った強さを感じさせた。覚悟と決意を胸に秘めた、開拓者の瞳をしていた。
永遠にも思えるその時間が過ぎて、ようやく彼は私を見た。行こう、と穏やかに私を促すと、自然な仕草で私の手を取って歩き出す。私の歩幅に合わせてゆっくりと足を進めながら、彼はおもむろに口を開いた。
「……ねえエリカ嬢、昔話をしようか。明るい話ではないし、聞いていて嫌になるかもしれない。でも、どうか聞いてほしい。僕が積み重ねてきた、あの国での日々を」
不安そうに揺らめく瞳を見つめ返す。しっかりと頷いて、彼の手を握りしめた。
「ええ、喜んで」
夕日を受けて金色に輝く麦畑を背に、彼の物語に耳を傾ける。
長く伸びる影をふたつ並べて、私たちはゆっくりと家路を辿ったのだった。
私たちに可愛い男の子が生まれるのは、それからちょうど一年後のこと。
子育てよりも、思っていた以上に子煩悩だった夫を子どものそばから引き離すのに、一番苦労したことを、ここに明記しておこう。
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