エヴァンの回想-別れ-

 突然の訪問にも、クリストハルトは嫌な顔一つ見せずに応対してくれた。

「ごめん、一応先触れは出したけど、だいぶぎりぎりだったかな」

「気にしなくていい。何かあったのか?そんなに急ぐなんて、君らしくもない」

「うん、君に報告することができたから」

 緊張で冷たくなった指先を、ぎゅっと握り込む。クリストハルトの凪いだ瞳をまっすぐに見つめて、エヴァンはひとつ、深呼吸した。

「クリストハルト。昔した約束は、今でも有効かな」

 どちらかが結婚するときには、この関係を断つ。それが、二人で交わした、この関係を続ける上での唯一の約束だった。

「メイベル国の、ヴァ-ストン子爵の令嬢のところに、婿入りすることを決めてきた」

「メイベル国……」

 クリストハルトはわずかに目を見開いたが、すぐに穏やかな表情に戻る。

「そうか。君は、覚悟を決めたんだな」

「うん。僕はもう、流されない。自分の選択の責任は、自分で取る」

「君は、強いな。俺は、……ずっと、わからないままだ。自分がどうすべきなのか」

 ふっとクリストハルトの瞳が揺れて、苦悩の色があらわになった。

「アイリスに、言われたんだ。君を失ったら、俺は機械になってしまう、と」

「機械?……ああ、なるほど」

 彼女の言いたいことが、なんとなく理解できた。彼は、家のために、どこまでも自分を犠牲にできる人間だ。そうあるべきと周囲から求められ、またそのように行動してきたクリストハルトが、唯一彼自身のために望んだことを捨てさせてしまえば、彼の心は壊れてしまう。アイリスは、そう考えたのだろう。

(確かに、昔ならそうだった)

 二年前、もしもアイリスが自分達に取引を持ちかけなかったら。

 そして、クリストハルトが、リドメイソン侯爵の令嬢との縁談を受けていたら。

 -きっと彼は、「クリストハルト」を殺していた。

「本当に俺が望む選択をしてくれ、と言われたが……俺は、自分が何を望んでいるか、わからないんだ。確かに俺は君を愛しているし、できる限り傍にいたいと願っている。だが、これ以上この関係を続けることが正しいとも思えない。……あのときとは、違うんだ」

 クリストハルトの言葉に、彼との関係を続けると決めたときのことを思い出す。

 この恋を貫くためにアイリスを巻き込んだことで、自分達は決定的に変わってしまった。純粋にお互いを求め、愛し合うことに幸福を感じていられたあの頃には、もう戻れない。

 エヴァンが、クリストハルトと過ごす時間を最高のものだと思えなくなったように、きっと彼もこの関係に歪みが生じたことに気づいていたのだろう。けれど、間違った道を選んでしまったと気づいたときには、すでに手遅れだった。

 そのときに、エヴァンは痛感したのだ。

 -自分では、クリストハルトを幸せにできない。

 一時的な満足を与えられることはできても、エヴァンの存在はいずれ、彼にとっての毒になる。いや、もうすでにそうなっているのだ。

 残酷な現実を突きつけられて、悲しくて苦しくて、胸が張り裂けそうだった。涙すら出てこないほどの絶望があることを、エヴァンはこのとき、初めて知った。

(でもこれは、無理矢理クリストハルトと別れていたら分からなかったことだ)

 無理に引き離されたことでお互いの心はよりいっそう燃え上がり、いつか取り返しのつかないことになっていたかもしれない。愛が冷めなくても心が疲弊していく辛さ。好きなのに好きで居続けられなくなるかもしれないという恐怖。それを味わってようやく、クリストハルトの手を離すことに納得できたのだ。

 クリストハルトだって、本当はわかっているはずだ。もうエヴァンがいなくても、彼が彼自身を見失うことはない。とうに、彼自身の居場所を見つけているのだから。

 エヴァンと一緒にいるためとはいえ、ずっと彼はアイリスと生活をともにしてきた。その日々の中で、クリストハルトが彼なりに幸福を見出していく様子を、ずっと間近で見続けてきた。少しずつクリストハルトの中で、エヴァンの必要性が失われていくのも。

 それは寂しいけれど、お互いに薄々感じていたことだ。クリストハルトは、気づかないふりをしているだけなのだ。

 だから、自覚させてやればいい。

 白くて滑らかな頬を手のひらで包み込む。クリス、と呼んだのは、恋人としての最後の任務のような気持ちからだった。

「じゃあ君は、僕が駆け落ちしようと言ったら、一緒に来てくれる?」

 青い瞳が、はっと見開かれた。瞬きのうちに色を失くした唇が、掠れた声を紡ぐ。

「……何を言っている、エヴァン」

「君が立場や外聞を気にして、この関係を続けるべきではないと君が思っているなら、いっそのことなにもかもを捨てて、逃げてしまえばいい。誰も僕たちのことを知らない遠い場所で、二人きりの生活を送ろう。そうしたら、幸せになれるだろう?」

「正気か?そんなこと、できるわけないだろう!」

「できるよ」

 声を荒げたクリストハルトに向かって、エヴァンは薄く笑みを浮かべた。後に残していく家族のことも、逃げてからの生活のことも考えなければ—気持ちひとつあれば、簡単だ。

「名誉も地位も、家族の幸福も全部犠牲にして、それでも君が僕を選ぶというのなら、僕も覚悟を決めるよ。僕も同じものを捨てて、君に一生ついて行く」

 これにクリストハルトが頷けば―一瞬、そんなことを考えて、エヴァンは自嘲の笑みを浮かべた。この期に及んでまだ彼とともにいられることを期待するなんて、馬鹿みたいだ。


『—君は、どちらを取るの?』


 エヴァンが放った無言の問いかけに、クリストハルトは静かに目を伏せた。

「父も母も、俺に期待をかけて、ここまで育ててくれた。弟たちはまだ、結婚もしていない。それに何より、アイリスをあの家に一人で置いていくことを思うと、耐えられない」

「うん」

「お腹もだいぶ膨らんできて、あと二月もすれば産み月だ。どんな子なのか、どんなふうに成長するのか、今から楽しみでならないんだ。その子が後ろ指をさされるような事態は、なんとしても避けたい。……アイリスと子どもは、俺にとっての宝物なんだ」

 だから、とクリストハルトはエヴァンを見て、はっきりと告げた。

「君を選ぶことは、できない。一番愛しているのは君でも……もう、君以上に大切なものがあると、知ってしまったから」

「合格」

 にっこりとエヴァンは笑った。クリストハルトの言葉には予想以上に胸を抉られたけれど、ここで素直にその感情を出すなんて無様な真似はするものか。

(おかしい。ふったのは僕のはずなのに、ふられた気分になるのはなんでだろう……)

 そんな気持ちもなくはないが、細かいところを気にしたら負けだ。そう自分に言い聞かせ、笑顔を保ったままやや乱暴に紅茶を飲み干した。

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