エヴァンの回想-崩壊の足音-

 それから半年後、クリストハルトはアイリスとの婚約を結んだことを正式に発表した。そのときの社交界は大いに荒れ、どこへ行ってもその話題で持ち切りだった。あまりの注目の集めように、アイリスは一時期療養と称して別荘に隠れなければならなくなったほどだ。

 そこでクリストハルトにふさわしい淑女になるために、と彼女は猛勉強をし、社交界に戻ってきたときは誰もが驚くほどの変貌を遂げていた。完璧な振る舞いでクリストハルトとの婚約に異議を唱える令嬢たちを沈黙させ、今ではすっかりお似合いの夫婦として通っている。

(そう、それでいい。……名実ともにそうなってくれれば、少しは楽になるだろう)

 アイリスとクリストハルトが結婚してからこのかた、まともに息ができたためしがない。呼ばれたパ-ティ-で、仲睦まじく寄り添っている二人を見かけるたびに、ふりなのだと分かっていても心が重く沈んだ。クリストハルトは自分を愛してくれているのか、本当はアイリスを好きになったのではないか。そんなふうにクリストハルトを疑って、アイリスへの嫉妬をつのらせた。幸福そうに微笑む彼女が、憎らしくて仕方なかった。

 泥沼で、もがいているような日々だった。

 クリストハルトの腕に抱かれているときも、甘い言葉に微笑むときも、心の底に沈む澱は消えてくれなかった。クリストハルトへの態度もぎこちないものになっていき、いつしか二人の間には、張りつめた緊張感が漂うようになっていった。以前のように、何もかも忘れて彼との恋に溺れてしまえれば、いっときでも幸福を味わうことができただろう。けれど、それすらもできなくて、次第にクリストハルトの家を訪れる頻度も減っていった。それでも彼との関係を続けることに執着したのは、意地と、この関係を否定されることへの復讐のような気持ちからだった。

 クリストハルトへの愛が冷めたわけではない。今でもこの身と心に焼きついている、激しい熱情と目くるめくような幸福感は、まるで麻薬のようにクリストハルトを渇望させた。アイリスにはああ言ったけれど、この想いを忘れられる日は永遠に来ないだろう。

(……だけど、遅かれ早かれ、僕たちの関係は崩壊していた。最悪な形で終わらなかっただけ、まだましだ)

 瑞々しい果実が腐敗していくように、歪んでいった心。

 このままいけばお互いに傷つけあって、憎み合って、どこまでも果てのない狂気の淵に沈んでいくだけだと分かっていたのに、いつまでもそれを回避するための一歩を踏み出せなかった。アイリスが熱を出した日、医師の診察で彼女の妊娠が発覚しなかったら、エヴァンがクリストハルトとの別れを決めることはなかっただろう。


『アイリスが、妊娠した』


 その言葉を聞いたとき、何を思ったのか、自分でもよく覚えていない。

 けれど、頭の芯がすうっと冷えて、静かな、諦めにも似た感覚が、ゆっくりと胸に広がっていったことは、今でも鮮明に記憶に残っている。

 お互いに触れないようにしていたけれど、朝の柔らかい光に照らされた二人だけの部屋で、この関係を終わらせる時が近づいていることを、否応なしに感じ取っていた。

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