閑話(sideクリストハルト)
若干ふらつきながら部屋に戻っていくエヴァンの後ろ姿を、はらはらして見送る。
月明かりに薄く浮かび上がるその姿は、細くて頼りない。そしてどこか危うい色香を孕んでいるように見えるのは、さっきまでのことがあったから、そう思えるだけだろうか。
階段を下りて、完全に見えなくなってから、ようやく部屋に戻った。窓を細く開けて、風を通す。秋の夜の冷気が肌を撫で、ついで浮ついていた気持ちをすうっと冷やした。
「……俺は、なんてことを」
額を窓につけて、深く息を吐き出す。今さらながらに、深い後悔が胸を満たした。
―あのとき、俺は……。
涙に濡れた緑の瞳が、ランタンの光にきらめいて、ひどく美しいと思ったのを覚えている。抱きしめたときの温かさも、甘えるような高い声も、上気した頬も、なにもかもが愛おしくて、こみあげる衝動のままに口づけて、―それから先は、夢中だった。
馬鹿なことをしたものだ、ともう一度大きくため息をつく。
いっときの熱情に支配されて、取り返しのつかないことをしでかしてしまった。次期伯爵、そして次期侯爵として、ふさわしい行いを求められ、それに応えるべき自分が、こんなことをして許されるはずがないのに。
律せている、と思っていた。
物心ついた頃から、クリストハルトは自身に求められていることがわかっていたし、そのように振る舞うのも苦ではなかった。だから、エヴァンへの想いを自覚してすぐに封じ込めて、ただの友人としての態度を崩さないようにしてきたのだ。
それが難しくなったのは、エヴァンが自分やジェイソンと、距離を取るようになってからだった。
原因はわかっている。自分で言うのもなんだが、名家出身で優秀と名高いクリストハルトと、家格はそこそこでも人望厚く、才覚に溢れたジェイソンに大事にされている平凡な人間は、排除したくなるのが人情というものだ。エヴァンも、自分達との壁を苦痛に感じて、身を引こうとしていた。
(俺は、それが許せなかった……)
別に、エヴァンと友人をやめなければいけなかったわけではないのだ。ほんの少し彼と距離を置いて、ふさわしい「友人」と話す機会を増やせばよかっただけ。そうすれば、誰も傷つかなかった。エヴァンは彼自身で人脈を広げ、今頃は孤立することもなく、順調な学園生活を送っていただろう。自分はただ、エヴァンを守るという名目で強引に彼を自分のそばに置いて、独占欲を満たしていたに過ぎない。その結果が、これだ。
エヴァンの左手の無残な傷を思い、顔をしかめる。きっとあの傷は、ずっと彼の手に残り続けるだろう。エヴァンを傷つけた人間を、クリストハルトは決して許さない。もし見つけたら、殺してやりたいとさえ思う。
その一方で、彼と結ばれる機会をくれたことに、感謝している自分がいた。たとえあってはならないことだったとしても、エヴァンは自分の手に落ちてきてくれた。切れ切れの吐息の間に、好きだと囁いてくれた。それに、昏い喜びを感じている。
(だが、これは、許されない感情だ……)
自分達のこれからを思えば、なかったことにすべきだ。この機会に彼を遠ざけて、今度こそ彼への恋心を葬り去って、「クリストハルト・ヘインズ」としての道を全うするのが正しい。
そう理性では思っているのに、それではエヴァンはどうなる、と心が叫ぶ。
―まるで弄んで、捨てるみたいだろう。
「そんな非道なこと、人としても許されることではない……」
呟きが、闇に溶ける。
冴えた月を見ながら、答えのない問いの解を、起床の鐘が鳴るまで延々と考え続けた。
授業終了の鐘が鳴り、教師が去ると、静かだった教室が一気に騒がしくなる。
教科書を閉じて、こめかみを揉んでいると、ぽん、と肩に手が置かれた。振り返ると、人の良さそうな笑顔を浮かべる青年―ラッセル・モ-トンが立っていた。
モ-トン商会の会長、ロイド・モ-トンの三男坊。十七歳と周囲より年上なこともあり、兄のように振る舞い、よく周囲の面倒を見ている。朗らかでひょうきんで、誰にでも分け隔てなく接する、気のいい人物で通っている。親しげな様子でクリストハルトに笑いかける様子を、誰も疑問に思うことはない。
「よおヘインズ。眠そうだな?」
―昨日はお楽しみだったみたいだしな。
そう耳元で囁かれて、クリストハルトは身体を強張らせた。—なぜ、それを知っている。
「おいおい、最近あれだけ熱心にノ-ランドを見てたくせに、ばれないと思ってたのか?ノ-ランドが怪我したのも、おおかたそれが原因だろ。手当てをしてもらいにお前の部屋に行ったノーランドが朝帰りしたのを見て、ぴんときたね」
他のヤツには朝帰りの件はばれてないから安心しろよ、と言われても、何も安心できない。
じっとりと見つめると、モ-トンはからからと笑った。
「おいおい、そんな顔するなよ。俺は対価をもらいに来ただけだ」
「対価……」
「そう。だってノ-ランドに何かあったら、助けてくれって依頼してきただろ?ちゃんと果たしてやったんだから、報酬をくれないとなあ」
確かに、覚えはあった。
エヴァンが嫌がらせに私物を隠されるたびに、こっそり角部屋から外に出て、探しに行っているのは知っていた。だから、そこの住人であるコ-ニッシュとモ-トンに、できるだけ力になってやって欲しいと頼んだのだ。
「あんたの頼みだってこともノ-ランドに言わなかったし、手当ての道具も調達したし、罠も回収してきた。怪我した経緯もノ-ランドの代わりに
あー大変だった、とわざとらしく首を回して、モ-トンは狡猾に目を光らせた。
「この前頼んできたとき、できることなら何でもするって言ったよな?だからさ、俺の頼みを聞いてくれよ、優等生」
額を、冷たい汗が伝った。
「何を、させる気だ」
「させるって言い方は良くないな、ヘインズ。俺は提案してるだけさ。あんたとノ-ランドの関係の口止め料と、ノ-ランドがやったことの後始末の報酬。これをきちんと払ってもらえればいいんだ。俺は善良な商人だから、お互いの利益を追求したいんだよ」
この前の発言を言質に取ったくせに、どの口が、と思わないでもなかったが、黙って続きを促す。軽々しくなんでもするなどと言った自分が悪いのだ。
「……訂正する。具体的に、俺に何を望んでいる」
「俺が望むのは、俺の顧客になってくれないかってことだ」
「顧客?」
「ああ。俺、ここでいろんな商品を売ってるんだ。あんたが欲しがりそうなものといえば、香油とか、痛み止めとか、そのあたりか?空き部屋の情報なんかもあるぜ。そういう商品を買ってくれればいいってだけだ。あとは、たまにする頼み事を引き受けて欲しい。もちろん、対価は払うさ」
手当ての道具も、そうやって調達したんだ、と言って、彼はクリストハルトの肩を引き寄せた。ことさら潜めた声が、耳に滑り込む。
「まあ、嫌だって言うなら、諦めるさ。ウィ-トリ-に持っていくだけだ」
友人の名前に、はっと目を瞠る。薄ら笑いを浮かべるモ-トンを、睨みつけた。
「ジェイソンは、関係ないだろう……!」
「あるんだよ。ウィ-トリ-も、あんたと同じことを言ってきたからな」
「な……っ」
血の気が引いた。
ジェイソンも、クリストハルトと同じ考えに至っていたのだ。自分が断れば、ジェイソンに「対価」が要求される。—そして彼は、それを断ることはないだろう。
腹をくくるしか、道はなかった。
「ジェイソンには、一切この話をするな。エヴァンにもだ。そう約束してくれるなら、お前の顧客にでも何でもなってやる。頼み事とやらも、引き受けよう」
「契約成立だ」
にんまりと口角を吊り上げたモ-トンに、いつだったか聞いた噂話を思い出す。
いわく、モ-トンは、学園の生徒や教師に取引を持ち掛け、手広く『商売』をしているらしい。人や場所についての情報から、学生がおいそれと手に入れられない物資まで、さまざまなものが彼のもとに集まるという。裏で学園を牛耳っているのだとまで言われていた。眉唾だと気にも留めていなかったが、こうしてまんまと自分を手中に収めた手腕を見る限り、実は正しいのかもしれない。
『ラッセル・モ-トンは
間違いない、と心の中で頷く。
そして自分は、まんまと見つかって食われた愚か者だ。
(だが俺は、無抵抗で食いつくされる獲物になるつもりはない)
どうせなら、こちらも利用してやろう。
「……わかった。早速、ひとつ情報を売ってもらえないか。エヴァンに罠を仕掛けた生徒について。そうすれば、あの罠の出どころについては、目を瞑ろう。対価は払う」
そう言うと、モ-トンはしばらく考えて、口を開いた。
「……だったら、ノ-ランドに二度と被害が及ばないようにする、ってことで手を打ってくれよ」
あいつらも客なんでね、と苦笑したモ-トンに、目を眇める。
「確実に、これ以上手を出せないようにしてくれ。また今度のようなことがあれば、俺も冷静ではいられない。客同士の潰し合いは、君の望むところではないだろう」
「もちろん。ノ-ランドについては、しっかり釘を刺しとくぜ。……さて、そろそろ休憩時間も終わりだ」
後半はわざと大きな声で言うと、モ-トンはぱっと身体を離し、ひらひらと手を振った。
「じゃあな、ヘインズ!寝不足には気をつけろよ!」
「……余計なお世話だ」
ため息をついて、クリストハルトは次の授業に向かうために、立ち上がった。
優等生の名に傷をつけないよう、これからいっそう、努力をしなくては。
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