エヴァンの回想-背徳の夜-(3)

 階段を二階分上ってすぐに、クリストハルトのいる特別室がある。うっすらと明かりが漏れている部屋の扉を叩くと、ややあって扉が開いた。少し眠たげな青い瞳が、エヴァンの姿を認めて大きく見開かれる。

「エヴァン!?どうしてここに……」

 言いかけて、彼ははっと口をつぐむと、周囲を見渡した。他の部屋から出てくる人がいないことを確認すると、エヴァンの腕を引いて室内に招き入れる。

 扉を閉めると、クリストハルトは声を低めて訊ねてきた。

「それで、突然どうしたんだ?」

「……ええと、怪我をしたから、手当てのために……うわっ」

「怪我!?」

 いきなり肩を掴まれて、のけぞる。おそるおそる左手を差し出すと、痛ましげに彼の顔が歪み、その後すぐに険しい表情になった。エヴァンを椅子に座らせると、ちょっと待っていてくれ、と言い残して立ち上がる。暖炉の火を手早く熾し、やかんに水を入れて沸かし始めた。適温になった頃、暖炉から取り上げてボウルにお湯を注ぎ、ハンカチを浸してぎゅっと絞る。そっと傷口を拭われて、周囲の血が拭き取られると、醜い裂傷があらわになった。それを見てきつく歯を食いしばったクリストハルトが、低い声で訊ねる。

「誰にやられた?オルグレンか、セルデンか、それとも他の誰かか?」

 特に強くクリストハルトを信奉している二人の名前を挙げられたが、わからないと首を振った。心当たりが多すぎるのだ。

「メモ書きが机の上に置かれていただけなんだ。夕食から帰ってきた時に見つけて……」

 左手の付け根から手首にかけて、モートンの用意してくれた包帯を巻いてもらいながらこれまでの出来事をぽつぽつと話していくうちに、彼の顔が蒼白になる。憤りで肩を震わせていたクリストハルトは、やがて糸が切れたようにだらりと腕の力を抜いた。

「俺がいるから駄目なのか?俺では、君の力にはなれないのか」

 声が、震えていた。

「頼って欲しいと言いながら、結局君を追い詰めている。……君の言うことは、正しいのかもしれないな。俺たちと君は、やはり一緒にいるべきではないのか……」

「クリストハルト」

 彼の瞳を覗き込む。湖のような澄んだ青は、底知れない深淵のように暗く翳っていた。

「……確かに僕は、君たちといることでいろいろな嫌がらせを受けた。このままだと、今回みたいな、もしくはそれ以上のことが起きるかもしれない。だから、君たちと一緒にいることはお互いにとって良くないことだ。ずっとそう思っていたし、今でもその考えを変えるまでには至っていない。こんなことがあったから、余計に」

 唇をかみしめて項垂れるクリストハルトの手を、そっと引きよせる。氷のように冷えた指先を温めるように、手のひらで包み込んだ。

「でも……少しだけ、思ったんだ。この人といれば、何があっても大丈夫だって思えるような……そんな人がいたら、苦しいだけの日々が、違って見えるのかもしれないって」

「エヴァン?……それは、どういう意味だ」

 訝しげに眉を寄せるクリストハルトに、微笑みかける。

「君が、僕とこれからも一緒にいることを望んでくれるのなら、もう少しだけ頑張ってみようと思うんだ。僕は弱いし、何も君たちの役には立てないから、いつか嫌気がさしてしまうかもしれないけど……」

「君を嫌になるわけがないだろう!君は弱くなんかないし、役に立つかどうかなんて、どうでもいい。君が笑ってくれるなら、俺はそれだけでいいんだ」

 鋭い口調で遮られて、目を丸くする。真剣な表情で顔を覗きこまれて、知らず、頬がかっと熱くなった。それに気付く様子もなく、クリストハルトは表情を曇らせる。

「むしろ、謝るべきは俺のほうだ。君が辛い思いをしているのを知りながら、俺の身勝手な都合で君の傍に居続けた。嫌がらせがひどくなっていることも、見て見ぬふりをして……そのせいでこんなことになったのに」

 君がまだ、俺の傍にいてくれると言ってくれるのが、こんなにも嬉しいなんて。

 ぽつりと零れたその言葉が、はっとするほど深く胸に浸みた。

 固くこわばっていた心が、息を吹き返したように動き出す。目に映る世界が鮮やかに色づいて、ランタンが一つしかない薄暗い部屋が、驚くほど明るく感じられた。

「……あ」

 不意に視界が滲んで、頬を熱いものが伝う。ぱたぱたと滴った雫が、椅子の生地に黒い染みをつくった。クリストハルトが息を呑む気配がして、ふわり、と空気が揺れる。

 あっと思ったときには、クリストハルトの体温に包まれていた。慣れ親しんだ彼の匂いに、堰を切ったように涙が溢れ出す。温かな背中に右腕を回して、ぴったりと身体をくっつけた。

(……ああ、僕は、この人が好きなんだ)

 心地良い温もりに浸りながら、はっきりと自覚する。ずっと気づかないようにしていたのに、ついに思い知らされてしまったのだ。甘くて昏い、絶望にも似た歓喜に、くらくらした。

 ふと顔を上げると、目が合って、知らず、ごくりと唾を呑み込んだ。薄闇の中で見るクリストハルトは、何かを渇望するような、それをこらえるような顔をしていた。頭の中に火花が散って、呼吸が浅くなる。

「クリストハルト……」

 呼びかけた声は、自分でもそれと分かるくらいに甘くて、うわずっていた。その声に、ぴくりと彼の肩が跳ねる。青い瞳が獰猛な光を宿して、ぎらりと輝いた。

「エヴァン、すまない。……愚かな俺を、今だけは許してくれ」

 掠れた声とともに、噛み付くように口づけられていた。震える手できつく抱き寄せられて、熱い吐息を夢中で交換しあう。クリス、と彼の愛称を呼びながら、彼から与えられる熱に酔いしれた。この想いを貫いた先に、どんなことが待ち受けているかなんて、すっかり頭から吹き飛んでいた。

 このときからエヴァンとクリストハルトは、永遠に消えることのない罪を、その身に背負うことになったのだ。

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