三人の選ぶ道(2)

「……そうだね。クリストハルト、ここから先は僕が話すよ。君は仕事に戻るといい」

 不意にエヴァンが、そうクリストハルトに声をかける。彼はわかった、と頷いて、さっと立ち上がった。

「ここでお別れだな。会えなくなるのは寂しいが……お前なら元気でやっていけるさ」

「そうだね、ありがとう。君も元気で」

 そう挨拶を交わすと、あっという間にクリストハルトは部屋を出て行った。あとにはアイリスとエヴァンだけが残される。

「あんなに簡単な挨拶で、よかったんですの?」

「いいんだよ。あまり湿っぽくなるのも嫌だからね」

 優雅な仕草でカップを持ち上げるエヴァンを、まじまじと見つめる。そういえば、こうして向かい合うのも久しぶりだ。

「……それで、どうしてクリストハルト様を追い払ってしまわれたんですの?」

 エヴァンがカップをソ-サ-に置くのを見届けて、アイリスは口を開いた。

「あなたがたの関係を解消なさった理由くらい、クリストハルト様に聞かれても問題ないのではなくて?」

「うん。でも、最後に君と、二人きりで話したかったんだ。クリストハルトがいないほうが、話しやすいことだってあるだろう?」

「ええ……」

 エヴァンの真意が掴めず、つい探るように見てしまう。そんなアイリスに苦笑して、エヴァンはこつんと指でカップを叩いた。

「ねえアイリス。君は本当に、僕達が君のために別れたと思っているの?」

「だって、そうでなければ説明がつきませんわ。愛が冷めたわけではないんでしょう?」

「どうなのかな……」

 小さくため息をついて、エヴァンは遠い目をした。

「あまりにも不毛だったから。一言で言えば、そういう理由だ」

「……そんなの、初めから分かっていたことでしょう」

「うん。だからもともと、どちらかが結婚するときには、関係を断とうと決めていたんだ」

「え……」

 初めて聞く話だった。

「でしたら、わたくしのしたことは……」

 余計なお世話だったのだろうか、と続けようとしたアイリスに、エヴァンは首を振った。

「決して許されない僕たちの恋を、君だけは変わらず受け入れてくれた。罪にまみれた僕たちに、笑いかけてくれた。……それにどれだけ救われたか、きっと君は永遠に分からない」

 そう言って、彼が浮かべた笑顔を、アイリスは一生忘れないだろう。

 哀しそうで苦しそうで、けれどどこまでも美しい笑みだった。

「でも、君が認めてくれたとしても、根本的には何も解決しない。結局僕たちの恋は認められないし、いつばれるかとびくびくしながら過ごさないといけない」

「……ええ」

「誰もが限界だった。僕も、クリストハルトも、そして君も。だから、抜け出すには今しかないと思ったんだ。今を逃せば、全員が不幸になる結末しか待っていない」

 それなら僕は、皆が少しずつでも幸せになる未来を選ぶよ、と彼はちょっと胸を張った。

「それに、大事な僕たちのお姫様を泣かせるなんて、ジェイソンに面目がたたない」

 真面目な調子で言う彼に、ちょっと笑ってしまう。

「……お兄さまはいつも、わたくしを泣かせる側でしたわ」

「女の子の扱い、下手だったからね。でも君が泣いたとき、一番困ってたのはジェイソンなんだよ」

「……だからって、積年の恨みは晴れませんわ」

 そっぽを向くけれど、すぐにその顔を戻すことになったのは、彼が笑っていたからだ。

 アイリスが大好きな、懐かしい笑顔。一度は諦めた、陽だまりみたいなそれが目の前にあって、知らず、目頭が熱くなった。

「……アイリス!?」

 慌てたような彼の声がして、がたんと音がした。びっくりして顔を上げると、狼狽えた表情の彼と目が合う。

「ごめんね、辛い話だった?困ったな、お菓子は持ってないし……その前に、拭くものだ」

 わたわたとハンカチを取り出す姿に、くすっと笑ってしまう。こういう慌て方は、昔と全然変わらない。笑顔を浮かべると、途端に安堵の笑みをこぼすところも。

 また涙ぐむアイリスに「泣くか笑うかどっちかにして!」と言いながら、優しくハンカチで顔を拭ってくれた。化粧ははがれてしまったけれど、今の彼といられるなら、そんなものどうでも良いとさえ思ってしまう。

「……ねえ、エヴァン様。本当に、行ってしまうんですの?」

「行くよ。じゃないと、クリストハルトと別れた意味がない」

 きっぱりとした口調に、仕方がないとため息をつく。一度決めたら梃子でも動かないのも、相変わらずらしい。

「あなたがたが納得されたのなら、わたくしが口を出すことはありません。ですが、ひとつだけ訂正させてくださいませ。クリストハルト様と別れた、という言い方は間違ってますわ」

「え?」

 きょとんとした顔でアイリスを見下ろすエヴァンに、笑いかける。

「エヴァン様は、わたくしの夫を振ったんです。幸せになるために。……だから、ヴァ-ストン子爵のご令嬢と、幸せになってください。わたくしたちと同じか、それ以上に」

 その言葉にエヴァンは目を丸くすると、不思議そうな表情でぽつりと呟いた。

「……そうか。そういうとらえ方も、できるのか」

「そうですわ。振られたクリストハルト様を、わたくしがお慰めするのです。そうして、いつか本気で好きになってもらいますわ」

「なるほど」

 その手があったか、と呟くエヴァンを、軽く睨む。

「そう思わなくては、やっていけませんもの。クリストハルト様を諦めたつもりは毛頭ございません。エヴァン様より愛してるって言わせてみせますわ」

「クリストハルトは手ごわいよ。僕たちの中では、一番の頑固者だ」

 悪戯っぽく瞳をきらめかせる彼に、挑戦的に笑ってみせる。

「それでこそやりがいがあるというものですわ。一生をかける価値がありますわね。もしもクリストハルト様が本気でわたくしを好きになってくださった暁には、勝利のお手紙を書きますから、覚悟してくださいませ」

 なんだそれ、と吹きだしたエヴァンは、しばらく肩を震わせて笑い続けた。やがて笑いをおさめた彼は、ゆっくりと首を振る。

「……いいや、手紙は出さないでくれ。君たちとは二度と、連絡を取らないと決めたから」

「……どうしてですの?」

 思いがけない拒絶に驚くアイリスに、エヴァンは困ったように眉を下げた。

「連絡を取ると、どうしても会いたくなってしまうだろう?僕たちは、お互いを忘れるべきなんだ。じゃないと……どちらも、幸せになれない」

「そんな……」

「中毒みたいなものなんだ。一度断っても、近くにあると欲しくなる。だったら、関わらないほうが身のためだ」

 よく分からないまま、ふうんと相槌を打つ。そこまで彼が言うなら、そうなのだろう。

 沈黙が部屋を覆ったが、不思議と重苦しさは感じなかった。むしろ、いつまでもこの雰囲気に浸っていたい気分になる。

 けれど、そんな時間も長くは続かない。これから挨拶に行くところがあるのだと言ってエヴァンが立ち上がり、帰り支度を始めてしまった。

「……寂しくなりますわね。あなたが幸せになれるように、遠くから祈っておりますわ。神さまのご加護がありますように」

 そう言うと、エヴァンは苦く笑った。

「こんな罪深い男でも、神は加護を与えてくださると思う?」

「ええ。神はどんな人でも、見捨てられるようなことはなさいませんから」

 それを聞いて、彼が柔らかな眼差しの奥で何を思ったのかは、アイリスには分からない。

 けれど、このありふれた餞の言葉が、少しでも彼に響けばいい、と願う。

「……だといいな。ありがとう、アイリス」

「どういたしまして。クリストハルト様とは、もう話さなくて大丈夫ですの?」

「うん。必要な挨拶は済ませたよ。それと……」

 彼の視線が、アイリスの下腹部に注がれる。少しだけ切なそうにエヴァンは微笑んだ。

「きちんと言っていなかったけれど、ご懐妊おめでとう。その子の顔を見れないのが残念だけど、元気でね。君たちの幸福を祈ってるよ」

「ありがとうございます、エヴァン様。わたくしもずっと、あなたの幸福を祈っています」

 また溢れそうになる涙を押し隠して、笑みを浮かべる。二人で軽く礼を交わし、立ち上がった。執事を呼ぶと、出口まで案内するように言いつける。エヴァンが望まなかったため、見送りはしない。かわりに、冷たい雨が降る窓の外に向かって、両手を組んだ。

「……神様。どうか、エヴァン様の歩む道が、光で照らされたものでありますように」

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