第12話 魔物(1617文字)
僕の寝室には魔物がいる。
そいつは基本的に何をするでもなく置物のように、ただ埃の溜まった部屋の片隅に鎮座している。そうして時たま、本当に時たま、如何にも難儀だ、という顔つきで億劫そうにその重い口を開き、二言三言をポツポツと僕に向かって零すのだ。
それはあまりにも日常の世界のものからかけ離れた、異様な姿かたちと気配を有しているので僕はそれが魔物であることに一目で気が付いた。
街中の飲食店、とりわけ居酒屋の店頭にはその存在感でもって否応なく道行く人々の目を引く狸の置物が、そのあたり一帯の空間に目を光らせているものだが、ちょうどあの狸のような姿を魔物はとっている。
ただ、僕の部屋の狸は、街に
このような特徴の数々から、狸に近い存在であることを一方では認めつつも、僕は狸的特徴を強く有したそれをただ単に魔物と称するにとどめることにした。
魔物は僕が今のアパートに引っ越してから一週間後の夜にはじめてその姿を現した。
大学から帰宅した僕が軽い疲労感とともに寝室に入った瞬間、明らかに妖しい雰囲気が僕を包んだ。異様ななにかが一瞬にして大気中に溶け込んだような錯覚がして、僕は部屋に足を踏み入れたその刹那、誰かに強制的に呼吸を止められたような息苦しさを感じた。かすかにクラクラする頭を上げて部屋の中を見渡すと、その一角に僕と同じか、それより少し小さななにかがその空間を占拠していることに気が付いた。影のように暗いものを纏ったそれは異形だった。
本能的に危険を悟った僕は逃げていく兎のようにたまらずその場から駈け出した。アパートの玄関を蹴とばすように外へ、そうして近くの公園にたどり着いた時にようやく足を止めると、あたりはすっかり薄暗い色に染まり切っていた。僕はあとから、それが逢魔が時と呼ばれる時間だということを知った。
僕はその夜遅くになってそろそろとアパートに戻った。僕は祈るような気持ちで寝室に足を踏み入れたものの、そこには最後に目にした時となにひとつ変わりない光景が広がっているだけだった。現実感のまるでないその光景と、化け物を目にした恐怖により今度は一歩たりとも動けなくなってしまった僕と異形との間には、なにか奇妙な空気が流れていた。
やがて――それがどれほどの時だったかはわからない――数瞬のようであり、また無限にも思えるような時間が過ぎたのちに、異形は赤く濡れたその大きな口を開いた。
「余は汝の鬱屈とした感情から生まれ出でた
異形は重々しく続ける。
「余がこの世界に存在し続けるためには汝の心のうちに負の感情が渦巻き続ける必要がある。盟約を
異形の言葉は不思議と心に馴染む心地がした。だから僕は契約を交わすことにした。異形が他ならぬ僕自身である、という事実は僕をひどく安心させた。目の前の狸の置物に酷似した化け物が強大な力を有していることは一目見れば分かることだった。異形は自身の存在のために。そして僕は僕のために。妖怪や物の怪、魔物と呼ばれるような存在が人間の感情を糧にしているということには聞き覚えがあった。僕は、僕から負の感情を切り離すことなど決してできないということを、これまでの人生で分かり切っていたから、契約を交わすことに特段の不満はなかった。
こうして僕の部屋の一室に魔物が住み着くことになった。僕は魔物の力を利用しつつ、今日もこうして生きている。
魔物が生まれ出でてからもうすぐ三度目の春を迎える。
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