第11話 電柱の発見(1266文字)

 逍遥が好きだ。しばしば「人生の夏休み」と形容されるほどに、大学生という身分を与えられた期間の中において、持て余す人間は徹底的に「時間」というものを持て余すに違いないと思われるが、私もそのような同志タヴァ―リシたちに連なる者のひとりである。世間に広く浸透しているであろう、友や女、酒などに囲まれた、した享楽的キャンパスライフ像に敢然と背を向けた私は、潤沢な時間資源を自室の片隅で読書や学問に費やす求道的日々を主としているものの、それにも限界はあり、どうしても時間を持て余す時間は多く発生してしまうことになる。仕事をしているわけではないため、そのような時間を「余暇」と称してしまうことには些か心苦しいものがあるが、そうした余暇を有効利用する意味でも、また、部屋にいる時間の多さから必然的に生ずる運動不足解消の観点からも、私はしばしば逍遥を好む。

 逍遥というのはつまるところ散歩のことであるが、私はこの散歩という言葉があまり好きではない。どちらの言葉もその意味するところに大きな違いはないが、私は散歩というものには決まり切ったコースを歩く固定的なもの、という印象を有している。本来そのような意味は無いが、日本語学に関する講義だったか、の中で毎朝決まりきった散歩コースを歩いている、という雑談を挟んでいた教授の話がもしかすると影響しているのかもしれない。そうしたわけで、私はどちらかというと逍遥という言葉の方に、より自由さを感ずるのであるが、ぶらぶらとあてもなく気ままに歩き回る散歩スタイルを確立した私には、やはりそうした行為は逍遥とする方がよいように感じられる。

 生きている限り、何が楽しいのか飽きもせず繰り返し律儀に訪れる七日間のうち、私は平均して三日間ほどは逍遥に出向くのであるが、その行為に関して私は一切の制約を課さないことに決めている。歩きたい時に、歩きたい方向に、歩きたい分だけ歩くことが何よりも大切であることを経験的に知っている私は、時に早朝、時に真っ昼間、時に夕刻、そうして時には深夜に歩きたい方向に向かって、何分でも何時間でも気が済むまで歩くのである。

 そうして閉じた部屋の内部から飛び出し、開けた外の世界を歩いていると、視界には常に一定の間隔で電柱が割り込んでくることに気が付く。私は逍遥の習慣ができて以来、この電柱という存在を好ましく思うようになった。ドンと上空に向かって そびえ立つ柱は、まがうかたなき人工物であるが、人間社会に溢れる他のどの人工物よりも電柱と呼ばれるこの柱は突出して人間の生活風景、また、自然に溶け込んでいるように感じられる。あの無骨なフォルムが心惹かれるのであろうか、残念ながら私には電柱にここまで魅せられることへの明確な理由を提示することはできないが、あの灰色をした柱ほど、街の風景に調和する、まとまりのよい人工物は他にないと思われるのである。

 歩き回る私に反して、電柱は決して動くことはない。今日目にしたあの場所の電柱は、きっと明日も明後日もその後もずっと、口を閉じたまま直立不動で我々を見守ってくれるのであろう。

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