第10話 フォーティラブ(2706文字)


 「天は二物を与えず」だなんて言葉を僕は信じない。そんなのはまったくの出鱈目、嘘、そして偽りだ。明らかに二物を天から賜っただろう連中には育っていく過程で大抵出会うものだし、現に未だに二十年少ししか生きていない、人生経験の乏しい僕だってそういう奴らには今までに何人も会ってきた。

 そういった才能に恵まれた連中は、それがまるで決まりごとのように大抵、皆一様に自信に溢れた顔をしているものだから、二物どころか一物、つまり特に秀でた一芸すらも持っていない凡俗な僕の目にはそうした奴らの姿は直視できないほどに眩しく映る。

 二物を有するに留まらず、テレビ番組やSNSといった広大な情報の海原を見渡してみると、より多く、より沢山の才能を持った奴らに遭遇してしまうこともできる。

 かつて、英語では才能があることをgiftedと表すと学んだ。確か高校生の頃だ。二物どころか三物、四物、あるいはそれ以上のマルチな才能を縦横無尽に発揮する連中は、まさしく天から「与えられた」人と称するのに相応しいだろう。

 これはそうした才能に恵まれた、あるひとりの男との出会いによって現実を思い知り、そうして自信を失うに至ったというだけの、つまらない、僕の高校二年生の時のある暑い一日の話だ。




 その日はとりわけ太陽がその職務に熱心に励んだ日だった。高校二年の夏、硬式テニス部に所属していた僕はその日、カンカンと照りつける巨大な太陽の下、一面若草色が広がる空間に立っていた。オムニコートと呼ばれる人口芝生のテニスコートだ。その長方形のコートの真ん中をネットが横切っている。

 ネットのさらに向こう側には僕の今日三人目となる対戦相手の男が聳えるように立っていた。今日は新人戦と呼ばれる、さる大会の当日だった。大会会場には僕の高校を含む、その近辺いくつかの高校にあるテニスコートが充てられていた。それぞれ他の高校の方に試合をしに行くことが決まっていた部のメンバーが大多数を占める中、幸運なことに僕は自分の高校、ホームグラウンドで試合ができることになっていた。

 だから僕は今日の朝、大会が始まる時刻のずっと前から会場となるテニスコートに赴き、会場校の一員としての義務から会場の設営などの準備に一足早い汗を流した。大会は出場選手の実力に合わせてA、B、Cの3ランクに分けられていて、僕の名前はその中のBのグレードのトーナメント表の真ん中あたりに印刷されていた。僕は順調に一回戦、二回戦と勝ち進んで行き、それからの僕の心に深い影を与えることになる運命の三回戦は正午前に始まった。

 三回戦の相手は僕の高校からは少し離れた、ここから電車で数駅のところにある△□高校のテニス部の男だった。男の身長や体格は僕とそう変わりはないように見えたが、キャップを目深に被っていたせいか、僕は試合が始まる前から不思議な威圧感を彼から受けた。


 「 1ワンセットマッチ、〇△高校、サービストゥプレイ!」


 試合開始を告げる主審の大音声が二メートルほどの高さの審判台から降ってくる。テニスの審判には試合全体を司る主審と、コート上のラインに関するジャッジを行う副審(あるいは線審ともいう)がいるが、今日のような大会では審判としての資格を有した人々ではなく、大抵出場選手がそれぞれ交代で審判の仕事を担っていくことになっている。

 「負け審」といって、大抵は試合に負けていった者たちから審判をしていくことが多い。この試合の主審は僕が一回戦で下した男のようだった。

 〇△高校、つまり僕のサービスゲームから試合が始まった。僕は深呼吸を大きく一つして、ボールを三度、リズムよくポン、ポン、ポンと突いた。左手でボールを中空にそっと押し上げるようにして投げ上げ、それと同時に僕の右手は肩の後ろから弧を描くようにしてボールに向かう。曲げた膝が真っ直ぐに伸び、右手に握りしめたラケットがボールを捉えた瞬間、インパクトの瞬間に強く力を込める。右手に残る手ごたえに確信する。会心のサーブだ。

 ラケットから放たれたボールは強烈な縦回転を宿しながら真っ直ぐに相手コートに刺さっていく。決まった、と確信した刹那、僕の放ったサーブよりもさらに速度を持ったボールが僕のコートの片隅を穿った。リターンエース。僕の渾身のサーブは、相手の強烈なカウンターによって易々と破られてしまった。

 それは何度繰り返しても同じことだった。サーブの調子は良い。意図した場所に狙い通りのボールが突き刺さる。しかし相手の男は僕の思考を完全に読んでいるのか、その度ごとに完璧な返球でもって僕のコートに穴を開けた。そうして僕はあっさりと最初のゲームを落とした。

 続く二ゲーム目、相手のサーブは凄まじくいやらしいものだった。男のサーブには速度こそないものの、球種の豊富さやその精度の高さには目を瞠るものがあり、なかなかサーブがどこに来るのかということを絞ることができない。なんとか返球し、打ち合いに持ち込もうとするも、男はまるで詰将棋でも解いているかのように淡々と最善手を打ち続け、試合を支配していった。

 僕は結局、それから一ポイントも取ることができないまま、試合は六ゲーム目を迎えた。


 「 40-0フォーティ ラブ!」


 主審の声が空から響いてくる。あと一ポイント取られたら試合が終わる、という時になって僕はようやくこれが才能ってやつか、ということに気が付いた。対戦相手の男は間違いなくテニスの才能を持っていた。世の中から天才と呼ばれるだろう者のひとりだった。僕がそのことに気が付くと同時に主審の声が空気を震わすのを汗に濡れた身体が感じた。


 「ゲームセット! ウォンバイ△□高校!  6-0シックスゲームス トゥ ラブ!」


 圧倒的な力量で僕を捩じ伏せた相手の男が試合後の握手のために僕の方へと向かってくる。僕はその様子を眺めながら、圧倒的な才能の存在と、そうした才能となんの才能も持たない平凡な僕との間にはどれほど努力をしたところで決して埋めることのできない距離があることを悟った。奴らと僕との間には、どれほど物理的に近くにいようとも決して近づけはしないものがあるのだ。

 結局、その日の大会のBグレードを制したのはやはり僕と戦ったあの男だった。その後僕は対戦相手の男がさるピアノのコンクールにおいても優秀な成績を収めたことを友人づてに知った。才能、それも複数の才能に恵まれた人間の存在をまざまざと感じた僕はその年の暮れにテニス部を辞めた。

 才能を知ったあの日、「 40-0フォーティ ラブ!」という音が耳に入ったあの瞬間以来、僕の中には才能というものに対する憧憬と絶望という二つの相反する感情が片時も休むことなく渦巻いている。それはきっとこれからの僕の人生、その最期の時まで続く。

 

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