第6話 真実の目(2054文字)

 「……旦那様、お手紙が届いております」


  使用人の静かな声に私の意識は物語の中から現実に引き戻された。読みかけの小説をパタリと閉じ、目の前のテーブルに丁重に置く。広間にてのんびりと読書に耽っていた私にそっと声をかけてきたのは、この家に古くから仕える初老の女性であった。

 

 「ありがとう、和倉わくらさん。ついでに紅茶を淹れ直してきてくれるかな」


 「かしこまりました、旦那様」

 

 封筒を受け取り、すっかり冷めてしまった紅茶の入ったカップを和倉さんに手渡す。

封筒には差出人の名前が見当たらず、表面に大きく「夜桜よざくられんさま」と記してあった。

 この男の名である。夜桜簾は大財閥「夜桜家」の次男で、実業界で大きな成功を収めた、当第一の若手実業家として世間にその名声を轟かせている男である。夜桜は清廉潔白を絵に描いたような人物で、その能力、その容姿も相まり、世間的な支持も多く得ていた。

 そんな彼のもとには実業界のみならず、政界、財界、文壇など、様々な世界から手紙が届く。高い地位につく人間にままあることではあるが、妬み嫉みからか、脅迫まがいの謂われなき誹謗中傷の手紙、果ては殺人予告なんてものまでが夜桜のもとには稀に届けられることがある。

 今回の差出人の名の無い手紙もその類であろうか、と考えながら紅茶が運ばれてくるのをゆったりと待つ。やがて和倉さんが恭しく紅茶をテーブルに置いてくれ、そして下がっていくのを見届けてから、私は封筒の封を切った。手紙は以下のようなものであった。

 



 拝啓 夜桜 簾さま


 突然このようなお手紙を差し上げますことをどうかお許しください。私はこの街に住む一介の会社員にすぎない者です。そんな私が貴方さまのようにいと立派なお方に向けて、甚だ不躾ながらも筆を執らせていただいたのは、ひとえに貴方さまがこの街随一の名士であるからに他なりません。

 実は、私は世界の真実に目覚めたのです。この世界の真実に。私は、私の気が付いた世界の真実についてのお話を、是非とも貴方さまのようにいと素晴らしきお方にお聞かせしなければ、どうしても気が済まないのです。

 それで、この世界の真実ですが、それは、人々は世界をあくまでもそれぞれの目を通してからしか見ることが出来ない、という一見当たり前の事実についてなのです。

 私の考えによると、人々は例え同じ対象を見ていると感じているとしても、その実その人々らはお互いに全く異なるものを目にしており、そしてそれらが視覚、触覚、聴覚、味覚、あらゆる感覚において奇跡的な一致を果たしているのにすぎないのです。

 例えば、ある机の上に赤い、まるまるとした林檎が置いてあるとしましょう。その場にいるAさん、Bさん両人ともそれを赤い林檎であると認識しますが、その実、Aさんが目にしていると思っているものは緑色のまだ青い蜜柑で、Bさんが目にしていると思っているものは瑞々しい光沢を放つ真っ黄色の檸檬なのです。AさんとBさんは机の上の林檎を半分ずつ分けあって食べ始めますが、果実のその赤いビジュアル、ツヤツヤとした手触り、シャクシャクとした音と食感が奇跡的な一致を果たし、共にこれは美味しい林檎だと微笑み合っているのにすぎないということです。

 このことは万物に適用されます。私が口にした物体は貴方さまのには無機物に見えていたり、反対に貴方さまが今まさに投げ捨てようとしている物体は誕生したばかりの生命として、私のは捉えていたりするのです。

 私たちは皆、思い込みの中に生きているのです。各々の勝手な思いこみが奇跡的な一致を果たしているからこそ、私たちは日々を平穏に、物体の認識において比較的混乱をすることなく生活することができています。

 私はこの一致が、奇跡的な調和が崩れ去る日のことを思うと怖くて堪らなくなるのです。いつの日か、人々のが開かれ、すべての人々の思い込みが取り除かれた時、その時人々はなにものをも、信じることができなくなるでしょう。

 貴方さまはこのお話を聞いてどう感じられましたでしょうか。馬鹿馬鹿しい、と鼻でお笑いになったでしょうか。それとも真剣な態度で私の言葉に偽りがないことを認めて下さったでしょうか。

 いずれにせよ、このお手紙はこの辺でそろそろお終いにいたします。私は貴方さまに何かを求めている訳ではないのです。ただ、一人この世界の真実を知ることに恐ろしさを抱いてしまったために、この孤独を貴方さまのような立派なお方に知っていただきたいと思ったのです。

 乱文、乱筆まことに失礼いたしました。




 手紙を読み終えた私は静かにそれを封筒に戻し、机の端に置いた。まだ温かい紅茶を口に含み、しばし黙考する。――妙な手紙ではあったが、そこそこ面白くはあったな。一体どんな顔をしたやつがこれを送ってきたのだろう。

 私は机の上の読みかけていた小説を手に取り、再び物語の世界へと沈み込んでいった。

 夜桜の手元には分厚い辞書がその存在感を示しており、机の上には紙切れのようなものと、ほのかに湯気の立ち上る真っ黒なコーヒーが静かに佇んでいた。

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