第4話 天使と悪魔と調停者(1356文字)

 私の中には天使と悪魔と調停者がいる。天使は私の中の良心で、悪魔は私の中の悪心が、それぞれ心象として形をもつものである。

 正しい行いを目指す良心が心の中に大きくなると、天使はその力を増し、一方で反道徳的な行為へと誘う悪心が心の中に肥大すると、悪魔がその分だけその強さを増す。

 それでは調停者は、というと、それは常に中立的な立場に立ち、天使と悪魔のパワーバランスを調整する役割を果たす存在として、私の無意識から生まれ出たものらしい。

 刺すような寒さの中をある朝、日課の散歩をしていると、私は五メートルほど前方に紙切れのようなものが幾枚か落ちていることに気が付いた。近づいてみると、それは三枚の一万円札であった。空が白みはじめたばかりのこの時間、この辺りには殆ど人通りがない。

 透き通った冷たい空気と静けさの中、道端に三万円があることを認めた私はその場に立ち止まった。私の中の良心と悪心、つまりは天使と悪魔の口論が心の中で始まったのである。


悪魔 「どうしたんだ俺?三万円が落ちてるんだぞ。人が居ないうちにさっさと拾っちまえよ。今日はその金でパーっと遊んじまおうぜ!」


天使 「駄目ですよ私!落ちているお金はちゃんと交番に届けなくてはいけません!きっと落とした方は困っているはずですよ」


悪魔 「なに、構うこたぁねぇ。そんなもん落とした奴が悪ぃんだ。今回のことでそいつもこれからは落とし物に気を付けることだろうよ。授業料だと思えば三万なんて安いもんさ」


天使 「いけませんって!そういうことではないのですよ。自己に恥じない選択の積み重ねだけが己を高潔な人間に導くのです。目先の利益に目を奪われてはなりません。交番に届けるのです!」


 天使と悪魔の応酬は激しさを増すものの、私の心は時に良心に、時には悪心へと傾き、一向に決着がつかない。痺れを切らした天使と悪魔は対決の間中、口をつぐみ、穏やかに佇んでいた調停者へと目を向け、その意見を求めることにした。


天使 「調停者さん、あなたはどう思われますか?」


悪魔 「調停者さんよぉ、あんたも今回はこちらにつくだろう?」


 天使と悪魔に声を掛けられた調停者は、穏やかな顔を崩さずにゆったりと口を開く。


調停者 「そうですねぇ、道端のお金を自分のものにするか否か、これは非常に難しい問題ですねぇ。お金を交番に届けるというのは倫理にかなう行為であり、一方でそれを自身のものにしてしまうというのは実益的な発想によるものでしょう。しかしながら世の中には絶対的なものなど存在しない、というのが実はワタクシの個人的な考えでしてねぇ、一般に道徳的とされるような行いも、悪と見做されるような行為も、所詮それらは人間が勝手に考え出した基準という名の、狭い檻の中の話にすぎない訳であって、ワタクシには正直なところあまり関心がないのです。ワタクシは思うのですが、人間の生などそう大したものではないのですから、世の中の人々は善悪なんて曖昧なものに拘泥するのはほどほどにしておいて、何事に対してももう少し気楽に構えていればいいのではないですかねぇ.....」


 調停者は天使と悪魔による議論を解決へと導こうとはせず、ひたすらに自身の考えを語り続けた。冷たい風が三枚の一万円札をいずこかへと運び去っていくまで、私は道端の真ん中に立ち止まったままでいた。

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