第2話 赤の世界(1057文字)

 男の眼前に一面、赤い空間が広がっている。

 目に映るもの、そのすべてが一様に赤々と染まっているのである。それはまさしく赤であった。紅でも朱でも茜でもなく、それは純粋な赤であるのだ。赤としか呼びようのない色に満ちた世界が、男の周囲に茫漠と広がっている。

 空も地面も上空に浮かぶ丸い月も、目に映る何もかもが赤一色に照り輝いている。ビルやマンション、店らしき建物、電柱や看板といった見慣れたはずの人工物もあたりにはポツポツと点在していたが、これらもまたすべて、赤であった。

 すべてが赤で彩られた、この赤い世界は恐ろしいほどの静寂に満ちていた。男の肉体から発せられる呼吸音、身じろぎの音、そういったものの他には一切の音という音がこの世界には存在していないかのようであった。

 男がこの異常な事態を認識したのはつい先刻のことであった。まるで何者かにより記憶を剥奪されてしまったかのように、男の脳内からはこの世界を目にする前までの記憶がところどころ抜け落ちてしまっていた。男は気が付いた時にはこの赤い世界にいた。

 周囲を見渡す暇さえなく、例えようのない、強いて言うのであれば「根源的な恐怖」とでも言うべきものが世界を認識した瞬間、男を貫いた。わからない。わからないわからないわからない。なにもかもが理解できない男を無視するように、ただ純粋な恐怖のみが男の身体を埋め尽くす。

 極度の恐怖に覆われた男は堪らず駆け出した。当てもなく、流れ去る風景に目を止める余裕もなしに男は力の限り走り続ける。見えないなにか、もしかすると世界そのものから逃げるかのように。やがて体力の限界を迎えた男は荒い息を吐きながら立ち止まり、そうしてふらふらと歩き始めた。疲労により霞む目を歩みの先、その遥か遠方に向けると、そこには一面赤に覆われた世界の中で一際強く赤色に輝く点のようなものがあることに男は気が付いた。男は何故だか無性にその点にどうしても触れなければならないような心持ちになり、やがて引き寄せられるようにしてその一際赤赤とした点に近づいていった。

 無限のように感じられた時間が過ぎたあと、男は点のすぐ側に辿り着いた。男が抗い難い欲求に従い点に触れると、点は一層の輝きを放ち、男を静かに溶かしていった。男にはもはや自我は存在していなかった。男の身体は右手の人差し指から徐々に溶け始め、そうして溶けた肉体は赤い液体へと変化した。赤い液体は身体を伝い地面へと浸み込み、赤の侵食はやがて男の下半身に及んだ。赤が最後に残った左足の小指の先端を飲み込むと、そのあとには静寂が広がるのみであった。

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