掌編のようなもののようなもの

似非学生

第1話 T氏の朝の風景(850文字)

 T氏はその日もいつもと同じ時間に起床し、身支度を整え、朝食を済ませ、そうしていつもときっかり同じ時間にマンションのエントランスに降り立った。会社へと向かうのである。

 マンションの外に出ると、いつものように管理人が周囲の掃除に精を出している。おはようございます、と声をかけてT氏は駅を目指す。

 途中、コンビニエンスストアに立ち寄り、いつもと同じように暖かい缶コーヒーを一本購入する。お願いします、このままで結構です、ありがとうございます。店員に礼を述べ、両手で熱を持ったスチール缶を弄びながら駅への道を急ぐ。

 現代のN国では街中を歩いていても、見知らぬ他人が声をかけてくることなど殆どない。例外的なのは登校中の小学生たちくらいのものである。ひょっとすると、学校で生徒たちは地域の人々へ挨拶をすることを求められていたりするのだろうか。朝早くだというのに活発な様子の小学生の集団によるおはようございます!という元気な挨拶を受け、こちらもおはよう、気をつけて行くんだよ、と応じる。

 毎朝の見慣れた光景ではあるが、小学生たちが楽しそうに登校する様子には、こちらも少しだけ元気を貰えているような気がする。

 そうこうしているうちに駅に着いたT氏はポケットからICカードを取り出し、雑多な人々の群れに沿いながら改札を抜ける。ホームに着いたT氏はいつものように飲み終わった缶コーヒーの容器をゴミ箱に捨て、今日も50文字以内に抑えられたな、と心の中で呟く。

 そうなのだ。実はT氏は奇妙なルールを自身に課しており、それは朝、マンションから駅に向かうまでに50文字以上の言葉を発してはならない、というものであるのだ。

 一体全体どうしてT氏はこのような鎖を自らにかけているのか。ルールに反したからといって特段ペナルティを設定している訳でもない、それは単なる自己満足に過ぎないものであるのだが、かれこれもう10年以上も連日のようにこの習慣を途切れさせず生きているこのT氏という男は、もしかすると遥か以前からなにかに囚われているのかも知れない。

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