第067話 【side_リィン・エフィルディス③】
リィンは今、笑みがこぼれるのをおさえることができていない。
思い出すというよりもどうしてもそのことばかりを考えてしまって、そうすると笑わずにはいられないのだ。
醒めたものでも、乾いた笑いでもない。
今リィンが浮かべているのは、純粋にただ楽しそうな笑顔だ。
もはや表情だけではなく、声を漏らしてしまうことも押さえられない。
もしも周囲に人がいる状況であったなら、相当変な人だと思われてしまうことは避けられまい。
同時にその笑顔の魅力に、誰もが視線を奪われもするだろうが。
だがその心配はない。
なぜならば今リィンがいる場所は、並みの冒険者や
リィンにはもはや、出し惜しみする必要がない。
今日が最後の日なのだから。
ゆえにマサオミに魔力を
魔導器の魔力が尽きたら、これもまたマサオミから大量に渡された『魔石』で
思えば数百年間騙しだまし使ってきていたため、リィンの
魔導器には『
そして人の手には負えない
つまりマサオミと出逢わなければたとえ『巨神』の封印がなくとも、リィンは己に課した責務を果たせなくなっていたのだ。
今リィンはマサオミのおかげで、最後まで自分の責務を全うできることに喜びを感じている。
まさか自分が巨神の封印に、こんな気持ちで臨むことになるとは思ってもいなかった。
それもマサオミのおかげだと、心の底から感謝している。
そのマサオミは今、迷宮都市ヴァグラムの『
今日の最後のデートの後、リィンから仕掛けた呑み比べに乗ってくれた結果、見たこともないくらいに酔っぱらって潰れて寝てしまったのだ。
この世界のエルフは酒に強い。
酔いやすいのは魔力にであって、人の身でエルフに呑み比べで勝つのはまず不可能だ。
マサオミは知らなかったようだが。
途中からずっと、リィンは笑いっぱなしだった。
あの強いマサオミが、なにを言っているかわからなくなって自分にじゃれついてくる。
そのくせそういう流れに突入するでもなく、ろれつが回らない状態でいろいろ熱弁していたのだ。
その内容はリィンにとってさして重要ではなかった。
マサオミがそんな醜態を晒してくれるのが、自分だけだろうということがなぜかこの上もなく嬉しかったのだ。
思い出すだけで、笑いが止まらなくなるくらいには。
なにげにいつもは遠慮――我慢して
最後の一線は越えてきてはくれなかったけれど、完全に潰れて寝てしまったマサオミの唇に、リィンは自分の唇を無断で触れさせてきた。
勇者様が聖女様に頬にされて喜んでいるのを見て、いつか自分もああいうことをするのかなあと思っていたことを最初にマサオミにやってみたのだ。
ただ久しぶりに人に触れたかったというだけではあそこまではしない。
それでめちゃくちゃ動揺しているマサオミを見て、なぜか自分もとても嬉しかったのだ。
だから
人の生み出した物語に書かれているような素敵な感覚や檸檬のような香りなどは特になく、ついさっきまで呑んでいたお酒の香りがしただけだったが、リィンはそれでも嬉しかった。
なぜかこの数百年の孤独と、今から行う自己犠牲がすべて報われたような
だから今、リィンは笑って『巨神』――自身の
目的地に到着したのだ。
すでに『巨神』と呼ばれる存在の
その
この
生物を経て原罪の穢れに染まった魔力がカタチを成し、呪いそのものとなって世界を冒し滅ぼす自然現象。
世界の在り方として厳然と存在する、一つの
それを誰かが――おそらくはエフィルディスの最初の一人が十三の『巨神』というカタチに集約させ、己が身を以って封印することによって世界を
エフィルディスがその役目を放棄すれば、世界は紅く染まって終わる。
そして今回、その最後の役がリィンに回ってきたのだ。
リィン以降にもうエフィルディスは存在しない。
次の『巨神』の封印がいつ解かれるかは今のリィンにはわからないが、それまでに誰かがエフィルディスの代わりができるようになってくれていることを祈るのみだ。
なんとなくマサオミならやってくれるんじゃないかなと、無責任に信じているリィンである。
だからこそ
それにもしもリィンの代わりをマサオミができたとしても、それで終わりではないのだ。
だがその心配ももはやない。
マサオミはリィンの罠にはまって、今は迷宮都市ヴァグラムで酔っ払って寝ている。
できれば
あの朝のリィンのような夢でも構わない。
いやせめて夢でくらい、そういうことをされている自分がいてもいいだろう。
本物の自分は、そういうことを
マサオミがどれだけすごい力と知識を持っていたとしても、『巨神』の正確な復活タイミングと位置まで知っているはずもない。
それを知り得るのはエフィルディスの血に列なる者だけだ。
それこそ一度経験してやり直しをしているのでもなければ、もうマサオミとてもここに今現れることは絶対に不可能だ。
だからもう、
リィンが自分の手で、今こうなるしかない状況を整えたのだから。
――大丈夫。
『巨神』の復活の時に生きたエフィルディスは、必ず誰かが同じことをしてきた。
『贖罪の種族』などと蔑まれて、それを当然の事とされるようになる遥かな以前から、エルフの王族の誇りとしてそれを続けてきていたのだ。
だからこそ世界の支配者として天空の王都ア・トリエスタに君臨していた頃は、エルフのみならず世界中の人々からエフィルディスは尊敬の念を集めていた。
それを一度放棄しようとしたがために、世界は今こうなってしまったのだ。
だからこそ他のエルフや
身内の不始末は、自分の責任の範疇だと思うのだ。
――私は、間違ってなんかいない。
だからきちんと、己のなすべきを成す。
放り出して逃げ出したり、マサオミに縋ったりしない。
「――『黒化超過駆動』、起動」
取り返しのつかない一言。
リィンが常に身につけているボディ・スーツやすべての魔導器、あらゆる
これでもうリィンの『黒化』は暴走し、眼前の『巨神』と呼称される、生命を介することによって穢れた膨大な魔力の塊を喰らい尽くして封印するまで止まることはない。
リィンは人のカタチを失い、封印そのものとなる。
数千年、あるいは数万年の後に擦り切れ、その機能を果たせなくなって『巨神』の一部として取り込まれ、なれの果てとなるその日まで。
リィンの小躰から膨大な輝く黒い魔導光が溢れ出しはじめ、超過駆動が開始される。
「――ぁ」
納得していたはずだった。
覚悟を決めて発動したはずだった。
マサオミと出逢えたことで、自分は歴代のどんな「エフィルディス」よりも幸せに己の責務を果たせるのだと確信してさえいた。
だが引き返せない分水嶺を越えてから、唐突に思い知る。
本当にもうどうにもならない状況に置かれてははじめて、強がりも自己欺瞞もなにもかもが通用しない、裸の――弱くて狡い自分自身が曝け出される。
――嘘だ。
本当は笑えてなどいない。
怖い。ただただ怖い。
――私はそんな、立派な存在なんかじゃない。
封印した後自分がどうなってしまうのかすら、リィンは知らない。
今自分が取り込もうとしている『巨神』の
自分が数千年の後にああなり果て、次は封じてくれる子孫もないままに世界を蹂躙するかもしれないと思うと魂から震える。
まるで親において行かれた子供のように、ぽろぽろと零れてくる涙を止めることができない。
本当は逃げ出したい。
誰も知らない場所に行って、世界が『巨神』に滅ぼし尽くされるまで逃げ続けたい。
どうして私だけ。
自分がその場にいることができない、マサオミが見せてくれた
ふざけるな!
誰か替わってよ!!
人の命ひとつでなんとかできることなのだったら、死んで当然の存在なんていくらでも世界に溢れているでしょう!!!
消えたくない。
私のことを誰も知らない時の最果てで、世界を滅ぼす存在になんてなりたくない。
どうせいつか最後にはそうなるのだったら、今ここで滅んでも同じでしょう?
常のリィンであったら唾棄すべきものと断ずるあらゆる醜い感情が、隠しようもなく己の心からいくらでも膨れ上がって意識に零れだす。
――酷い。
我が身を他人のために犠牲にしなければならないことも酷ければ、最後の瞬間に自分の醜さ、穢さを思い知らされて終わるこの仕打ちはあんまりだ。
せめて自分は清廉潔白な、自分以外の全ての人の幸せの
数百年を生きて、悟ったつもりになっていた。
その果てにマサオミと出逢って己の成すことに意義を見出した気がした。
なのに最後の瞬間に、自分がただ怖がって泣きじゃくるだけのくせに、責務を放り出すことも、誰かに――マサオミに「助けて」と縋ることもできなかった愚かな小娘だったのだと思い知る。
ひどく滑稽で、情けなく救いのない結末だ。
だが人の覚悟とは行動ではかられる。
内心がどれだけ醜く、とても人に聞かせられないような呪詛に満ちていたとしても。
情けない泣き言と恨み言ばかりで、投げ出して逃げ出したい、なんで私だけがこんなことと喚き散らしていたとしても。
取った行動が己が身を犠牲にして人の世界を護るという結果を導けば、それは救世の英雄の覚悟だったと語り継がれるのだ。
――今のこの世界では、それすら当然の贖罪として軽んじられているという、理不尽の極みが罷り通っているのだが。
「あぁああぁあああぁぁあああぁぁぁ!!!」
リィンは自身から溢れ出る黒き魔導光と共に絶叫――いやまるで動物のような絶望の咆哮をひしり上げる。
もうどうしようもない状況で、醜さと穢さに塗れた己の感情が荒れ狂った後に咆哮し、空っぽになった後に残った、たった一つの最後の本音。
「――助けて、マサオミ」
答える声は、ない。
――はずだった。
「呼んだ?」
だが奇跡は起きる。
いやマサオミの執念が、今ここで
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