第三章 無双
第042話 時間遡行
やばい、これはほんとにやらかした。
嫌な汗が湧いてくるのが止まらないし、どうしようだのやばいだの、なんの役にも立たない思考ばかりが入り乱れて、自分が冷静さを欠いていることだけがわかる。
喰らった衝撃が大きすぎて、考えが纏まらない状況というやつだ。
知り合った人間が死んでいるのだから、あるいは当然かもしれない。
しかし同時に意外も感じる。
向こうで生きてきた間にも、早逝してしまった友人、知人は少ないとはいえ何人かはいた。
少なくとも昨日あったばかりのディマスさんよりは付き合いの深い相手だったし、訃報が届いたときは当然驚いたし、哀しくもあった。
だがここまで動揺したという記憶はない。
俺は情に篤いというわけでもないが、特段薄情だという自覚もなかったのだが。
それにもしもそうだとしても、それならディマスさんの死にここまで動揺していること自体が矛盾した反応だということになる。
ああそうか。
向こうでの経験では、それがどれだけ親しい相手であってもその死に俺は一切かかわっておらず、俺にはどうすることもできないことが誰に言われるまでもなく明確だったからか。
だがディマスさんの死は違う。
まず間違いなくその死は俺のあの提案が原因となっている。
その上俺はその死に介入、阻止することができたにもかかわらず、娼館で寝こけていてそれができなかったという後ろめたさがあるからこそ、ここまで動揺しているのか。
つまりすべてが明確に「俺のせい」だからだ。
いや落ち着け俺。
まだ詰んているというわけじゃない。
まだ取り返しはつく。
普通ならどうしようもない、終わってしまっている話だが、今の俺は『時間停止』ともう一つ、『時間遡行』というとんでもない
どのみちどこかのタイミングで『時間遡行』の実験もしなければならなかったのだ、いい機会だと思えばいい。
深呼吸しておちつけ。
まだ助けられるのだから、必要以上に狼狽する必要はない。
よし大丈夫、少し落ち着いた。
しかしこれ、フレンド・リストに登録する相手は厳選しないとあれだな。
登録可能上限値がないとしても、出会った相手を片っ端から登録していたら
それは結構怖いことだと思う。
たとえその死が自分のせいではなくても、その気になりさえすれば救えてしまうという事実は、かなり質の悪い毒になりかねない。
最悪この世界が、ひとつも先に進まなくなってしまう可能性だってあるわけだ。
そこは自分でもよく自覚しておくべきだろう。
俺は万人を救う慈悲深き神たらんとして己が能力を行使するのではなく、俺が楽しく暮らすためにこそ使うのだということを。
「どうかされましたか?」
全裸の上に上等な夜着を羽織っただけとかいう格好なんかも好きではあるが、アリスさんはそういうあたりは切り替える派らしい。
煽情的であるとはいえ服をキチンと身につけた上で朝食の準備をしてくれている。
個人的にはそういう方が好みではある。
三大欲求は混ぜるな危険。
特に食に関しては、俺は完全に切り離したい派なのだ。
そのアリスさんが俺の様子がおかしいことにすぐ気が付き、心配げに確認してくれている。
「えっと……うん、まあちょっと厄介事が」
「私にできることはなにかありますか?」
すべてをそのままに伝えるわけにもいかないし、たとえそうしたところで俺がなにを言っているのかを理解してもらうのは難しいだろう。
とはいえ「なんでもないですよ」と返すには今の俺の様子からして無理があるだろうし、適当にお茶を濁した返事をしたら一番ありがたい対応をしてくれた。
「そうですね……このままこの部屋を延長して借りることはできますか?」
完全に落ち着くための時間もいるし、朝ご飯を食べたあとに
であればこの場所をそのまま借りつづけられるのが一番都合がいい。
いろいろ考えを纏めなければならないが、俺のもう一つの
であれば今慌てて発動させてしまうと、すべてが振出しに戻ってしまうということになる。
ディマスさんの馬車に揺られているところから「再ゲームスタート」というやつだ。
レベルや所持品、俺自身の経験や知識は今のままという「強くて」であることを祈りたいところだが。
できればそれは避けたいので、現状で把握できるだけの情報をまずは整えるべきだろう。
任意のタイミングで「セーブ」したりはできないものか。
いやしかしそうしたら、その時点以降の
それはそれで怖い。
「お安い御用です。ちなみにそれは
即答してくれるアリスさん。
俺の様子が深刻そうであることを理解した上で、冗談も交えてくれる。
いや確かに一度肌を合わせた相手と日中に出歩いたり、日の高いうちからそういうのも普通であれば悪くはない選択肢ではあるのだが。
「冗談ですよ。もちろん必要であれば私だけではなく、他の娘でもご用意させていただきますけれど」
「……いえ、アリスさんさえよければ、
ここは娼館なのだから確かにアリスさんの言うとおりなのだろう。
お客様が望めば、朝であろうと昼であろうと相手をしてくれるし、アリスさんの言葉からして「固定指名」に拘っているというわけでもないっぽい。
だが今はアリスさんの冗談にのった方が都合がいい。
極力リセットする部分を少なくするためには、今からこの部屋でなにもせずに過ごす時間がそれなりの長さになる可能性が高い。
それに俺は本来、今日の日中に『冒険者ギルド』を再訪する予定だった。
それをすっぽかすことはおそらくは最終的に
だが、とりあえずやり直す前となる
「冒険者ギルドへは『
「……助かります」
俺がなにに期待してこの娼館でアリスさん込みで「延長」を希望しているのか、事の仔細まではわからなくても、骨子の部分を理解してくれているのが凄いというかちょっと怖い。
俺が今日冒険者ギルドへ行くとはずだったということは、アリスさんの中でも確定事項だったということだ。
わりと迂闊に一晩一緒にいたことで、いろいろ把握されてしまっているのかもしれない。
アリスさんの背後にいるであろう聖教会は一晩中情報収集を継続していただろうし、俺が寝こけている間、アリスさんも一緒に寝こけていたという保証はなにもないんだもんな。
ベッドの隅でまさかの今も寝ているクロをあまりあてにするのは危険かもしれない。
「では私は隣室に控えております。御用の際にはいつなりとお呼びください」
朝食の準備だけは完了させ、当然のように隣室へと下がるアリスさん。
普通なら一緒に朝飯を食べるのだろうが、今は正直有難い。
現時点での大まかな考えでは待機せねばならない時間があるはずなので、今のタイミングであわてて『時間停止』を発動する必要はないはずだ。
せっかくなのでアリスさんが整えてくれた食卓に着き、向こうでは終ぞ口にしたことが無いようなささやかではありながらも間違いなくやたらと手間暇、要は金のかかった朝食を喰いながらこれからどう動くべきかを考える。
『時間遡行』を起動して、ディマスさんがまだ殺されていない時点まで戻ることが大前提。
その大前提には『時間停止』の経験から、おそらく『時間遡行』も24時間単位で行われるであろうという予測も含まれる。
となればまず重要なのはディマスさんがいつのタイミングで亡くなった――おそらくは殺されたかという情報だ。
実は馬車の事故とかだったら少々呆れるがほっともできるのだが、まずそんな俺にとって都合のいいことはないだろう。
意識を
それと同時にもぞもぞとクロが起き上がってきたので、やはりこの手の能力を統括管理しているのはクロだと看做して間違いないはずだ。
過去ログとか見れたらなあと思った瞬間、『ディマス・ラッカード』に関する情報変遷一覧が表示された。
いいぞ。
ここまで便利な機能なのだ、中途半端に「そういった機能は搭載されておりません」という方が不自然とさえいえるし助かる。
それによると最初の異常発生は昨夜の19:24。
この時点で文字色は変化していないが、『ディマス・ラッカード:意識消失』とある。
わざわざ表示されているということは、ディマスさんがただ寝たというわけではないはずだ。
次の朝が早いからという可能性もあるにはあるが、いい年のおっさんが寝るにはさすがに少々早すぎるだろうしな。
俺が表示枠に意識を集中していればなんらかの
アリスさんとのお風呂タイムあたりのはずである。
…………。
うん、まず気付かないわな、あの状況では。
なあクロ、以降は俺が絶対に気付くような
さすがにフレンド・リストに登録している相手に危機が迫っていることを知り得る手段を持ちながら、うっかり見逃すとかは避けられるモノならば避けたい。
いや、にゃあ? じゃわからん。
次からはわかるようになっていてくれるといいのだが。
次の変化は日付が変わった0:31。
「意識覚醒」となっている。
つまり19:24になんらかの手段で意識を失わされて身柄を確保され、翌0:31に意識を取り戻したということでまず間違っていないだろう。
そのあとは0:53に「負傷」が表示され、「ディマス・ラッカード」と表示されている文字の色が、数分態度で薄い黄色から真紅まで変化していき、
文字だけでも、いや逆に文字だけだからこそなのか。
正直なところエグい。
まず間違いなくディマスさんは、約5時間にも及ぶ拷問の果てに殺されている。
絶対に無かったことにせねばならない。
そして俺が介入しなければディマスさんをこうやって殺すことが確定している相手には、それ相応の報いを喰らわせてやらねばならない。
そのためにはディマスさんには少々申し訳ないが、拉致監禁そのものを防いでしまうのは簡単ではあれども最良策とは言えまい。
それになぜ身柄を確保してから約5時間もの間、なにもせずにただ放置していたのかもわからない。
だが俺が介入するのであれば、おそらくは拷問が始まったであろう今日の0:53直前がベストのはずだ。
そうすれば敵が誰なのかも完全に掌握できるし、一人たりとも逃がさない。
その上でディマスさんには一切の拷問をさせないことも可能だ。
となると五回目となる『時間停止』の発動タイミングは、ディマスさんが意識を取り戻す直前である0:30でいいだろう。
必要であれば『時間停止』の連続発動を使用すれば、その時点ではまだ生存しているディマスさんの光点まで移動することも含めて問題ない。
となればだ。
『時間遡行』の発動後、『時間停止』を発動可能になるまで最長の4時間が必要になると仮定して、遡行して戻るべき時間の最直近は昨夜20:30ということになる。
それ以降であれば間に合わない可能性が出てくるし、それ以前となれば同じ行動を意識して取るだけになるので意味はない。
そういう意味では20:30であればほぼ問題はない。
お風呂での第二戦を経て、四回目の『時間停止』も完了した後なので、俺もアリスさんも疲れ果てており、健康優良児の如くその時間にはすでに寝ていたからだ。
少なくともそこから先刻まで、俺は意識を一度も取り戻していない。
その時間に戻った時点で、俺の腕の中にアリスさんがいなかったらちょっとぞっとするけれど、無事に朝を迎えられているのだからまあ大した問題ではあるまい。
そう信じる。
クロも騒いでいなかったことだし。
思考展開をしていて今気づいたのだがこれ、『時間遡行』の範疇に『時間停止』中に俺にだけ流れている時間が含まれるのかどうかも一度実験しておく必要があるな。
その時間に戻った場合、『時間停止』が継続されるのかどうかも含めて。
とにかく仮定が多いとはいえ、『時間遡行』が24時間単位だとするならば、俺が発動すべきなのは今夜の20:30ジャストということになる。
そこから昨夜の20:30まで『時間遡行』し、4時間の
ちょっとややこしいが、これで問題はないはずだ。
『時間停止』を発動してしまえば、以降の
よし、これで間違ってないはず。
あとはここで20:30まで時間を潰していればいい。
本来するはずだった行動をリハーサルとしてやってもいいのだが、なんの問題もなかった場合、またそれをなぞって行動するのもだるいっちゃだるいしな。
ここで時間を潰しておけば、本来の予定に上書きするのに妙な徒労感を覚えることもないだろう。
…………。
危険なことに気付いてしまったかもしれない。
つまり今から今日の20:30に至るまでの時間は俺が確定させたい世界の流れにとって必要がなく、
というか『時間遡行』の本当の恐ろしさはそれかも知れないのか。
取り返しのつかないはずのことを取り返せるというのは、その余禄に過ぎないのだ。
俺がなにをやっても、シレっとなかったことにできてしまえる能力。
それこそが『時間遡行』の真の姿。
例えばこれから手持ちの金貨30枚すべてを散財するような娼館遊びをやったとして、支払いも含めてそれはなかったことになる。
俺にとってだけの現実として、経験と記憶が残るだけだ。
いやそんな下世話でとるに足りないことではなく、たった今から俺の力を一切隠すことなく行使し、冒険者ギルド、聖教会、迷宮都市総督府の主要人物すべてから力尽くで情報を引きずり出すこともできるのだ。
なあに誰も大した情報を持っていなかろうが、さほど問題はない。
『時間遡行』を発動した後はそんな惨劇など本当になかったことになるのだ。
しれっと紳士的に、いかにも仲間ですよという顔で振舞っていれば、それだけが認識できる唯一の事実となるのだから。
もちろんそんな恐ろしいことをやらかすつもりはない。
一度やったら俺という存在が、きっと取り返しがつかなくなるほどに変容してしまうだろうから、怖くてできやしない。
それでもやろうと思えばやれるという事実は、確かに蠱惑的ではある。
そんな退廃的なことにしか愉しみを見出せなくなってしまわないように、健全にこの世界を楽しめるようにしないとな。
まあまずは今夜の20:30まで時間を潰さねば。
とりあえず昨夜アリスさんに聞けなかった、この迷宮都市ヴァグラムにおける冒険者ギルド、聖教会、迷宮都市総督府の関係を聞かせてもらうことにしよう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます