空を満たす
バックミラーを確認しながら、俺は微かな違和感を覚える。メトロポリスから離れていくごとに交通量は減り、自然保護区域の緑が見え始めた。眼下の区画整理された草原や花畑も未だ太陽が当たることはなく、厚い雲のカーテンに遮られている。
「ラウド、身を潜めた方がいい。シートベルトもちゃんと締めろよ。今から、飛ばす!」
『なんで……!?』
背後に接近する影は、見慣れた姿だった。国家権力の威光を示す威圧的なエンブレムと、危機感を煽る非常用ランプ。警官隊の追跡用ビークルである。
こちらは型落ちの乗用車、向こうは追跡用のビークル。追いつかれるのは目に見えている。追ってくるのは一台だけだが、制限速度以上を間違いなく出しているのだ。
古びた車体に鞭打つようにアクセルを踏み、なんとか距離を離そうともがく。だが、車体性能と最高速度には勝てない! 並走され、ふらついたビークルに車幅を詰めるように追突される!
「おいおい、国家権力が…….違う、あいつは!」
助手席の窓越しに、ビークルの運転手を視認する。警官隊以上に会いたくなかった相手だ。
ラウドの家族を殺した薬物中毒の男が、濁った目で哄笑していた。
『ヒーロー、どうしたの!?』
「……じっとしてろ!」
俺かラウドを追ってきたのか? だとすれば、どうやって?
疑問は尽きないが、考えている余裕はない。追突によって助手席側のドアが歪み、今にも車体が横転しそうだ!
俺はラウドのシートベルトを外し、運転席のドアを開けた。最大限アクセルを踏み、彼を抱えて跳ぶ!
速度を上げた車は脱出のための囮だ。俺は摩擦に耐えながらコンクリート道路を転がり、ラウドの体を庇った。
炎を放ちながら路傍を転がる車体を一瞥し、俺は動揺するラウドを背に隠す。敵は何をしてくるかわからない。様子を伺いつつ、脱走を検討しなければ。
「ハハハハ……よく燃えるな、まるで花火だ!」
「おい、何のつもりだ……!」
側面に傷が付いたビークルから降り、例の男が笑いながら接近してくる。拘束具の手錠は鎖が切れ、押収品から取り返したであろうナイフを携えている。ラウドの両親を殺した、因縁深い刃だ。
相変わらず涎を垂らし、目の焦点は合っていない。戯言めいた呟きを漏らしながら、準備運動かのようにナイフを振り回す。
「見つけた、見つけた見つけた見つけたッ! 忘れ物ってのが嫌な性分でなァ、このままだと死んでも死に切れねェ……!」
「……どうやって追ってきた?」
「ヘヘッ、偶然だよォ。神の思し召しってやつかァ? 警察車両を奪って逃げようとしたんだが、ガキを見つけてな……!!」
隙を見てラウドを逃すことは難しいようだ。俺は身を呈すように男の前に立ち塞がり、ナイフを奪う態勢に移る!
「そうだ、アンタにも会いたかったんだ……!! 昨日は急に組み伏せられてビビったが、クスリが抜けて冷静になって気付いたよ。アンタ、先週俺に……」
「……黙ってろ」
不確かな男の足取りにローキックを食らわせ、姿勢を崩させる。咄嗟にナイフで斬りつけられ、肩口から人工血液が吹き出した。だが、動揺するわけにはいかない。そのままマウントポジションを取り、奴が沈黙するまで殴り続ける。
ラウドに最も聞かれたくない事を彼の前で言われるのは困るのだ。彼の理想とするヒーロー像が崩れ、空虚な俺の本性が露わになってしまう。昨夜までの俺なら露ほども思わなかった“幻滅されたくない”という思いが湧き上がっていることに、俺自身が一番動揺していた。
「今のうちに、逃げろ……。俺のことは構わなくていいから!」
男を殴りながら振り向けば、既にラウドの姿はない。きっと、逃げたのだろう。時間を稼いでいる間に、できる限りその場を離れる事を願った。
そんな一瞬の気の緩みが悪手だったのだろう。気付けば、ナイフは俺の腹部に深々と刺さっていた。
「…………!?」
「……形勢逆転だなァ!」
虚を突かれ、脱力する俺は追撃の蹴りを正面から食らってしまう。ドラッグによるドーピングで一時的に肉体のリミッターが外され、奴の一撃はとても重い。俺はガードレールに背中を強かに打ち、苦悶の声を上げた。
「どうしたァ? このままそこで転がってると、下に落ちるぞ? 落ちて死ぬか、刺されて死ぬか、どっちを選ぶ?」
噴き出した血が止まらない。灰色の地面を赤く濡らしながら、俺はどうにか立ち上がる。意識が朦朧とする。息ができない。それでも、俺は拳を振りかぶった。少しでも時間を稼ぐことを目論んで。
「なぁ、頼みがあるんだよ。あのガキ、連れ戻してくれねェか? そうすれば、お前の命は助けてやる。悪い話じゃないだろ?」
昨日の俺なら、どうしていただろう。既にラウドはどこか遠くに逃げ、俺だけが命の危機に陥っている。自らの命題を進行するために、俺は生き延びなければならないのだ。そのために、今まで生きてきたのだから。
だが、今たどり着いた答えは真逆だ。俺は深夜のダイナーを思い起こしながら、静かに言葉を継ぐ。
「悪いな、先客がいるんだ。……まだ、ラウドの願いを叶えられてないんだよ!」
「……交渉決裂だなァ!」
奴がナイフを構えて俺の心臓を狙う数秒間、俺の時間は止まっていた。意識が飛んだわけでも、死に恐怖したわけでもない。俺の視線は、一箇所に留まっていた。
逃げたはずのラウドが、震える手で銃を握っていた。銃口の先を、親の仇に向けて。
「うご、くな……!!」
警官隊のビークルに常備されている犯人確保用のピストルだ。それは小さな手に不釣り合いなほど無骨で、危険な輝きを放っているように見えた。
「……そこを、動くな!!」
ラウドは自らを鼓舞するかの如く、腹底から声を絞り出すように叫ぶ。夢の中で聞いた、声を失う前の声だ。恐怖も嫌悪も全て呑み込んでいくような、独特の覇気を内包する声だ。
「オイ、なんで逃げなかったァ……? お前が握ってるそれは、オモチャじゃないんだぞ?」
「ラウド、やめろ……。俺のことならいい。撃つ必要はないんだ。銃を放して、逃げろ」
悔しいが、奴の言うとおりだ。その銃はプレゼントの光線銃とは訳が違う。彼を守るべきヒーローが守られるわけにはいかないのだ。空っぽな俺を守るためなんかに、その手を汚して。輝かしい未来を無駄にして、いったい何になる?
「どうした? 撃ってみろよ。素人のガキが引き金を引けるわけねェがな。ママとパパに会わせてやるのは、その後でいいだろ?」
「……なんで、殺した?」
「あァ……? たまたま近くにいたから、だけど……」
「……もういい」
ラウドを取り巻くのは、怒りだ。読み取らなくても感じる思念の渦に同調しそうになりながら、俺は悔しさに歯噛みする。
立て。力を込めろ。拳を握れ。ラウドの怒りを晴らしてやるのが、ヒーローの務めだろう。
「ハハハッ、撃て。撃て、撃て、撃てッ! 俺の心臓狙えよ。一息で殺れよ。じゃねェと、次に死ぬのはお前だぞ?」
「…………ッ!!」
銃声が響き、奴は静かに崩れ落ちた。
「……間に合ったか」
標的を失った弾丸がガードレールに火花を散らす。弾丸が当たる前に、俺が背後から奴を殴り倒したのだ。
「不意打ちなんてヒーローらしくない真似、許してくれよ。俺は、君を守るために側にいるんだから」
「……あいつを傷つけてやりたかったのに」
俺はラウドを静かに抱き留めた。血が付いたかもしれない。ヒトとは違う等間隔の心音を知られたかもしれない。だが、それでもよかった。彼の本当の願いを叶えるためには、それ以外の方法を知らないのだ。
厚い雲を破り、陽の光が降り注ぐ。メトロポリスでは見ることのない、青い空が頭上に広がりつつあった。
俺は例のサイコキラー野郎を今度こそ厳重に縛り付け、警官隊に入電する。俺の存在を伏せ、護送中に脱走した犯人と行方不明の被害者遺族が遭遇したことを伝えたのだ。メトロポリスの警官隊は素晴らしい。30分ほどすれば、すぐにここまで現れるだろう。
「ヒーロー、これからどうするの?」
「困ってる人の願いを叶えにいくさ。ヒーローはみんなのための物だからな」
嘘を吐いた。これ以上ラウドに近づくのが、怖いのだ。
誰かの願いを叶える時に“責任”など感じたことはなかった。感じてしまえば、俺は自らの命題に、延いては存在意義に疑問を感じてしまう。
だから、自分が自分でなくなりそうで怖いのだ。
「ヒーロー。よかったら、僕と一緒に……」
「バイバイだ、“少年”。達者で暮らせよ」
せめて、彼の見ている間はヒーローらしく。俺は個人に肩入れしすぎたことについて考えながら、晴れ渡る青空の下、長く続くハイウェイを風のように駆け抜けた。
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