(25)

 テスト前に一夜漬けをするかの如く「浄霊術」の知識を詰め込めるだけ詰め込み、予行練習を重ねれば、あっという間に夜も深まった時間帯になった。


 もちろん、寮の門限はぶっちぎっている。その辺りのことはあとでウィンターフィールド先生がフォローしてくれるとのことだが、罰則が与えられても仕方がないこととあきらめている。


 罰則を貰うことと、命の危機とを比べるのであれば、どちらが重要かだなんてわざわざ言うまでもない。


 ローズマリアの作戦はこうだ。まず、急襲されるのを防ぎたいという意図から、わたしたち三人で降霊術である「トイレのアリスさん」を実行する。それで本物のアリスさんが現れたならばもうけもの。その後は旧放送室へと誘導し、防音仕様の部屋で「浄霊術」を実行する――。


 上手く行くのかは、正直に言ってやってみるまでわからなかった。どれだけ言葉を重ねたって、実行に移すまでは机上の論理に過ぎないからだ。


「トイレのアリスさん」を実行するのは、実在したアリスさんが自殺した旧放送室がある旧校舎三階の女子トイレに決まった。ここから旧放送室までの距離はそう離れていないので、絶好の場所である。旧放送室はあらかじめ、先生が鍵を開けておいてくれる手はずとなっていた。


「トイレのアリスさん」で現れなかった場合は、例の準備室で「分身様」を行う予定だった。けれどもどちらを先にしても亡霊となったアリスさんが現れる予感はしていた。彼女は、どういうわけか――さびしさゆえか――わたしとローズマリアを狙っているようだから。


 だから、明確にこちらから呼び込むようなマネをすればくるだろう。そういう算段であった。


 外にある外灯が主な光源である、真っ暗な旧校舎の女子トイレへ、三人で向かう。先ほど旧放送室に立ち寄って、先生はそこで待機することになった。先生はしきりにわたしたちを心配していたが、どうにか説き伏せて出発した次第である。


 女子トイレには曇りガラスの細長い窓がひとつあるきりなので、さすがに先生に持ち出してもらった懐中電灯を点ける。鮮烈な白い光が、古びた女子トイレを照らし出す。


 雰囲気は満点。こんな事態にでもならなければ、夜の学校のトイレなんて、一歩だって近づきたくない場所であった。


 先頭歩くのはローズマリア。「トイレのアリスさん」も彼女がやると言って聞かなかった。作戦の立案者だから、だそうだ。それにローズマリアもアリスさんに狙われているのは確定しているから、誘き出せるだろう、と。


 横にいるクリスタルは、怖がりなこともあってすでにビビりちらかした、怯えた顔をしていた。気持ちはわかる、とわたしは心の中で頷く。それくらい夜の学校のトイレは不気味そのものだった。


 しかし、わたしたちにためらっている時間はない。アリスさんがなにかアクションを起こす前に、こちらからアクションを取る。そうして優位に立った状態で作戦を遂行する。


 ……それに、さすがに一晩も寮に戻らなければ、大問題になってしまう。最悪、警察沙汰だ。なんとか日付が変わる前には寮に戻りたいところだった。


「……やりますね」


 ローズマリアが懐中電灯の先を三番目の個室の扉へと向ける。わたしとクリスタルはローズマリアの言葉に黙って頷いた。


 これからが――決戦だ。


 ローズマリアが個室の扉を三度ノックする。


 コンコンコン。木製の乾いた、どこか軽い音が夜闇に沈む女子トイレのタイル壁に当たって、反響する。


「――アリスさんアリスさん、いらっしゃいましたら返事をしてください」


『   は あ い』


 ――……きた!


 わたしとクリスタルは同時に唾を飲み込んだ。


 ローズマリアがおどろきのためか、かすかに目を瞠って、一方うしろへと下がった。


 同時に、閉じていた個室の蝶番がイヤな音を立てながらゆっくりと開いて行く。


『は あ い』


 ローズマリアが素早く後退する。それを追うように、扉の向こうからひどく緩慢な動作で古臭い制服を身に纏った女子生徒が現れた。相変わらず、どこか薄っぺらい印象を受ける、おぼろげな輪郭が特徴的なそれは――亡霊アリスで間違いないだろう。


 ローズマリアが懐中電灯でアリスさんを照らす。鮮烈な光源を向けられても、身じろぎひとつしなかったことで、今相対しているのが人ならざる存在だということをまざまざと実感させられる。


『―― は あ い ……』


 愛らしい女声だったアリスさんの声が、急に暗く暗く沈んだ、低い声へと変わった。


 ローズマリアの持つ懐中電灯が、アリスさんの顔を照らす。薄墨を垂らしたかのような、暗く白い肌の色。常人ではあり得ない、異様に長くなった首。乾燥して、ひび割れた唇。そんな中で――目だけが異様な生気を帯びて、ギラギラと輝いて見えた。


「――っ! クリスタルさん!」


 わたしは横にいたクリスタルに声をかける。クリスタルは恐怖に怯えた横顔を、ハッと正気に返ったような表情へと変える。そしてクリスタルは両耳に手をやって、勢いよくイヤリングを外した。――魅了魔法を制限する、マジックアイテム。それを外した理由は――。


「――あッ、あたしの目を見ろ!」


 クリスタルの眉間に皺が寄る。瞳は泣きべそでもかいたのか、濡れているように見えた。それでもクリスタルはアリスさんを見た。あまりに悲惨で――哀れな亡霊を。


『――ア゛ッ』


 アリスさんの異様に細長い体が跳ねた。ローズマリアを見つめていた、ギラギラとした目が、クリスタルを映して見開かれたように見えた。そしてアリスさんは何度かびくりびくりと肩を震わせたあと、絶望を体現したかのような――雄たけびを上げた。


『ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛――――!!!!!!』


 喉から究極まで振り絞ったかのような、狂おしい叫び声。そこにあるのは、深い悲哀と――堪え切れない、憤怒。


 長きに渡り、「ただの学園の怪談」であった彼女も、思い出したのだ。――一体、なぜ、己が死んだのかを。なぜ、死ななければならなかったのかを。自ら、死を選んだ理由を。……こうなってしまった、原因を。


 タイル壁に響き渡った絶叫を合図に、わたしはローズマリアとクリスタルの手を引いて、女子トイレの扉を蹴るようにして廊下へと飛び出した。


 三人並んで廊下を疾走し、ウィンターフィールド先生がいる旧放送室を目指す。


 背後は振り返らなかった。否、振り返る余裕などなかった。「バタバタバタ!」というあわただしい音が、背後から確実に迫ってきているのがわかったからだ。


 ――誘導はほぼ成功! あとは旧放送室に入って、アリスさんに「浄霊術」を試すだけ!


 それが成功するのかどうかはわからなかった。そんな雑念が胸に生じる。けれども並走するローズマリアとクリスタルを見ていたら――なんだか成功するような気がしてきたから、わたしの心は単純だ。


「みんな! こっちよ!」


 先生の声が聞こえて、自然と廊下の床ばかり見ていた顔を上げる。先生はわたしたちの後ろにいるアリスさんを確認したのだろう、一瞬だけ硬直したが、すぐにまた「頑張って!」と声を張り上げる。


 わたしたちは疾走する足を緩めることなく、飛び込むようにして旧放送室へと走り込んだ。


「バタバタバタ!」という、乱れた足音がどんどんと近づいてくる。旧放送室へ入ったのは、アリスさんにだってわかっているだろう。わかっていてもらわなければ、困るので、これでいい。


 そして先生が開けっ放しにしていた旧放送室の扉から、廊下に落ちた細長い影が見えた。


「アリスさん……」


 思わず、そう呼びかけてしまう。


 まるでそれに答えるかのように、アリスさんが姿を現した。


「アリス姉さん……! ……本当に、こ、これが――アリス姉さん、なの……?」


 先生の動揺した声が聞こえた。恐らく、アリスさんの姿は、怪談として語られるうちに変容してしまったのだろう。だから、明らかな人ならざる者の姿を持って、わたしたちの前に現れたに違いなかった。


 実のところ、ウィンターフィールド先生の存在があれば、もしかしたらアリスさんは生前のような意思疎通が可能になるかもしれない、という希望はあった。……しかし、それはしょせん希望にすぎなかった。


「アリス姉さん! 私よ! 八つ下の従妹のグレイスよ!」


 放送室の扉を細長い体をかがめて入ってきたアリスさんに、先生は一生懸命話しかける。しかし――アリスさんは先生を一瞥すらしなかった。怒りと憎悪に燃える瞳は、クリスタルだけを見ていた。


「アリス姉さん……!」

「先生、これ以上近づくのは危険です! あとは手はず通りに『浄霊術』を!」


 冷静なローズマリアの声を聞いて、泣きそうな顔をしていた先生はぐっと表情を引き締め、頷く。


「わかったわ。――お願い、スプリングフィールドさん、サマーズさん、オータムさん……アリス姉さんを、救って……!」


 わたしたちは互いに顔を見合わせ、力強く頷き合った。

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