(20)

 不気味な放送を聞いた夜はドキドキしながらベッドに入った。オカルトは好きだが、オカルト話はすべて現実にあったものと思い込めるほどの妄想力は前世のわたしには存在しなかった。


 ゆえに、不意打ちとも言える一連の出来事に、わたしは正直言ってビビっていた。怯えて泣きべそをかいていたクリスタルを笑えないくらいに。


 だというのに、その夜はなにも起こりはしなかった。だから、ビビらせるだけビビらせた推定幽霊にちょっと怒りを覚えつつ、安堵したのもたしかで。……そして、油断してしまったのも、たしかで。


 一年生は必ず二人部屋が与えられる。しかし今年のルビー寮の一年生の総数は奇数。偶然にもわたしは二人部屋をひとりで使うことになった。ルームメイトのわずらわしさから解放されたのは、ヒロイン補正なのだろうか。定かではないが、わたしはひとり部屋を堪能していた。


 ちなみにルームメイトは必ず同学年の人間があてられる。別の学年の寮生とはルームメイトにはなれないルールがある。トラブルを防止するためなのだろう。もしそのルールがなければ、わたしは上級生とルームシェアをすることになっただろう。助かった、とひとりごちたのは前世喪女であったことを考えれば、仕方のないことだと思う。


 なにはともあれ、ひとり部屋。ローズマリアという友人がいるのは喜ばしいことであるし、わたしは彼女を好いている。でもそれはそれ、これはこれ。やっぱりひとりの時間は欲しいもので、ひとり部屋になったことはわたしにとっては大変都合が良かった。


 しかし――今は、大変都合が悪かった。


 ベッドに寝そべるわたしの足元に、古臭いデザインの制服に身を包んだ女子生徒の――幽霊が、いる。


 やたらに薄っぺらく、体に厚みが感じられない、おぼろげな姿には見覚えがあった。準備室の幽霊。なぜ、準備室の幽霊がルビー寮のわたしの部屋に出たのか、まったくわからずに混乱する。


 おまけにどうやらわたしは金縛りに遭っているらしい。意識は明瞭で、眼球も動かせるのに、体は指の先一本も動かない。


 それでも幽霊の気配を、身体で明確に感じられた。なにかが、わたしの部屋に、わたしの足元にいるという、明確な感覚。


 キーンと耳鳴りがして、ドッと全身に汗をかくような暑苦しさを感じる。それは足元の推定幽霊がもたらしているのか、それともわたしの緊張がそういった感覚を呼んでいるのか、そこまで判断はつかなかった。


 常夜灯のオレンジ色の明かりが照らす部屋の闇にたたずむ女子生徒の、幽霊。生きている人間だとは思えない、妙に薄っぺらい姿をした彼女の口元が、かすかに動いたのが、薄闇の中でもわかった。


『やくそく どおり つれて いく』


 その言葉を聞いて、わたしの中の思考と思考が、パズルピースでもはまるかのように結合した。


 暗く、絶望に沈んだような、平坦な低い声。それはあのスピーカーから流れてきた声によく似ていた。そして、あの放送の内容は、準備室でした「分身様」が告げた内容と同じで。――そして、肝試しで見た、準備室の幽霊。


 今、目の前にいる幽霊。スピーカーの不穏な予告。「分身様」の言葉。準備室の幽霊――。


 ――全部、全部繋がっていたんだ……!


 だが――今、その事実に気づいたからといって、なにができるのだろう?


 幽霊はすでにわたしの前に現れた。わたしの部屋に進入を果たし、わたしを見つけてしまっていた。――「約束通り連れて行く」――。「どこへ?」などとすっとぼけられるほどの余裕は、今のわたしにはなかった。


 ぐぐっと幽霊の顔がわたしの鼻先まで近づいた。白い、薄墨を垂らしたかのようにくすんだ、白い肌をしている。そんな妙に白い首が、思い切り伸びている。体は、わたしの足元にあるままで、首だけが伸びて、わたしの顔を覗き込んでいる。


 恐怖に冷や汗がどっと噴き出す。それでもわたしの体は動かない。目を閉じたくても、閉じられない。


 今、絶体絶命のピンチであるわたしを助けてくれるような同室者は、いない。ここはひとり部屋だからだ。だから、わたしの非常事態に気づいてくれる人間はいない。


 その事実がわたしを打ちのめす。絶望がドッと押し寄せてくる。


 ――わたし、なにも悪いことしてないのに……!


 人並みに人情があって、人並みに薄情だから、善人とは胸を張っていえないけれど、けれどもわたしは悪人ではないはずだ。なんでこんな風に怖い目に遭わなければならないのかわからずに、泣きそうになりながら腹を立てる。


 けれども、どうやったって、わたしの体は動かなくて――。


 幽霊の木の枝のような腕がわたしの首元に伸びる。骨と血管の浮いた手が、わたしの首に回る。薄暗い部屋の中で、なぜかハッキリと幽霊の姿は認識できた。けれどもそれを不思議に思う余裕はわたしにはなかった。


 ――いやだ! いやだ! いやだ! だれか……!


 死にたくない。前世ではぼんやりと生きていて、「この場からスッと消えてしまいたい」とか「死んじゃいたい」と思ったことは一度や二度の話ではなかった。自分が生きている理由がわからなかった。自分に価値なんてないと思っていた。


 だけど人間ワガママなもので、いざ死に直面したら「死にたくない」という言葉が出てきた。……それは、声にはならなかったけれども。


 ――そうだ、わたしは前世でもそうやって、後悔しながら死んでいった……。


 息苦しさからか、我が身の哀れさからか、絶望感からか、わたしのまなじりにじんわりと涙が浮かんでくる。


 ――また、そうなるの?


 ……そんな絶望を引き裂いたのは、鋭い風のだった。


「エマ!」


 よく通る、凛とした声。そしてその美しい声にたがわぬ、立派な精神の持ち主。だれにだって手を差し伸べることのできる、高潔な人物。


 ローズマリア・ディ・スプリングフォード。


 わたしの――友達。


「――ゲホッ! ゴホッ!」

「エマ! しっかりして!」


 ローズマリアの放った風魔法が直撃したせいなのか、幽霊の姿は煙のように掻き消えた。


 ようやっと体が動かせるようになったわたしは、ボロボロと涙をこぼしながら咳き込む。上半身を起こし、何度も咳をするわたしの背中を、ローズマリアが優しく撫でてくれる。


 ――助かった……!


 そう思った次の瞬間、わたしの耳元で「チッ」という盛大な舌打ちが聞こえた。幽霊はローズマリアの活躍によって今回はあきらめてくれたようだ。しかし、次の夜になれば、また……?


 顔から血の気が引いて行くのがわかる。今はあの、罰則掃除のときにクリスタルの怯えっぷりを内心で笑っていた自分を張り飛ばしたかった。クリスタルの懸念は見事に当たったのだ。準備室の幽霊は――あまりに凶悪すぎる。


「ローズマリア……どうしよう」


 情けない、泣きそうな声でローズマリアにすがりつく。彼女はそんな姿を見ても動じた素振りを見せず、べそべそと事情を説明するわたしの背中を優しく撫で続けてくれた。


 そして今しがた起こった出来事を説明したあと、ローズマリアも例の準備室の幽霊に襲われたのだということがわかった。


「すぐに魔法を放ったせいか、わたくしは無事でしたけれど……嫌な予感がしてエマのところに走ってきたのよ」


 時刻は「草木も眠る丑三つ時」――午前二時半ごろ。寮生たちはすっかり寝入っているらしく、わたしたちの異変には気づいていないようだ。しかしローズマリアのルームメイトも、彼女が魔法を放っても起きなかったと言う。


「あの幽霊が……なにかしているのかな」

「恐らく、そうでしょうね……」

「思ったよりも強い幽霊みたいだけど……ど、どうする? また明日の夜になったらくるかも……」

「それよりもクリスタルさんが心配ですわ」

「あ、そうだ、クリスタルさん! でも、今の時間に寮の外に出るわけには――」

「寮長先生に相談しましょう。なにかあってからでは遅いですもの」

「……信じてくれるかな?」

「しかし、先生方に報告しないわけにも行きませんわ。わたくしたち以外にも被害が出る可能性がありますもの」

「そ、そうだね」


 こんなときであっても冷静にもっとも的確であろう提案が出せるローズマリアを、わたしは尊敬の目で見る。彼女も彼女で、怖い思いはしたかもしれない。それでもそれを明らかに怯えて混乱していたわたしの前では表に出さず、かつこちらを落ち着けさせてくれる――。


 前世のぶんローズマリアより年上の気でいたが、わたしはまったく、彼女よりも人間的に優れていない。そんな、当たり前すぎる事実に、ものすごく今さらながら気づいてショックを受けた。


 けれどもそんなことを表に出せるわけもない。わたしは幽霊に襲われた衝撃と、事実を改めて認識したショックと、クリスタルの身を心配する気持ちがないまぜになったまま、ローズマリアと共に寮長先生の部屋を訪れることにした。

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