(19)
準備室の鍵を無断で持ち出した罰は、トイレ掃除だった。洗剤を撒いて黙々とデッキブラシでタイルを洗って行く。すごく汚いというわけでもない学園のトイレだったが、しかし不浄の場なので、わたしは長居はしたくない気持ちでいっぱいだった。
「あーん! もうなんであたしがこんなことしなきゃいけないのよー?! 掃除は掃除のオバチャンの仕事でしょー!?」
わたしとローズマリアは黙って粛々と掃除をする一方、クリスタルはそんな感じでトイレに入る前からぶちぶちと文句を垂れ流し続けていた。しかし一応、腕を動かさなければ罰則が終わらないという意識はあるのか、あからさまにやる気はないが、掃除をしてはいる。だから結局、わたしはなにも言わなかった。
ちなみにクリスタルの言う通り、通常、学園内の掃除はそのために雇われた人員が行う。学生の本分は勉強なので、学園内の掃除をしたりはしないし、寮内に与えられた自室――ひとり部屋なのは基本的に三年生だけだ――も授業を受けているあいだに掃除のオバチャンがしてくれる。だから生まれてこのかた、掃除なんて一度たりともしたことがない坊ちゃんお嬢ちゃんも学園にはいる。
わたしはもちろんそういう特別な生まれの人間ではないし、前世では学校内の清掃をした記憶がしっかりあるので、特に罰則で掃除をすることに抵抗感はない。クリスタルも同じのようだが、それはそれとしてトイレ掃除なんてイヤなので文句を垂れているのだろう。
ローズマリアは最初はブラシの動かし方がおぼつかなくて、見ていてハラハラしたが、そこは勤勉かつ勉強に関する要領はいい彼女のこと。すぐに動きはスムーズなものへと変わったので、わたしも安心して掃除に専念することができた。
専念できていないのはクリスタルだけだ。雑念が多いのか、大きなひとりごとを口にしながら、やる気なくブラシを動かしている。
そんなクリスタルへ「真面目にしろ」と文句を言いたくなったが、そう言って素直に従うのであれば、彼女はボッチを極めていない。だからわたしは黙っていたのだが――そろそろ我慢の限界である。
「ねえ、クリスタルさん。『トイレのアリスさん』って知ってる?」
「は? 『トイレの花子さん』じゃなくて?」
「ハナコさん……?」
「あー……クリスタルさんの
わたしは後方にいるローズマリアにそう言ったあと、振り返ってクリスタルに視線を送る。さしものクリスタルも、ローズマリアの前で「前世がどうの」とか「異世界転生した」としゃべる気はないらしく、口を閉じて視線でわたしに話の続きを促した。
わたしは怖がりのクリスタルが掃除を早く終える気になれるように、おどろどろしい口調で「トイレのアリスさん」について話してやる。簡単な降霊術の類いで、わたしたちが今いるような女子トイレでやるもので、方法はこれこれこういう感じで――というような説明をした。
しかし、クリスタルの反応は予想に反して冷淡なものだった。
「バカバカしい。『トイレのアリスさん』なんているわけないじゃん」
「いや、まあ……そうだけどさ」
「クリスタルさんは怪談話がお好きなのではないのですか? 『分身様』をされていたので、この手のお話はお好きかと……」
「あ、あれは真相を確かめようと思ってのことで! あ、べ、別に怖いから否定してるわけじゃないのよ?!」
わたしは思わずうろんげな目でクリスタルを見た。ローズマリアがどういう目でクリスタルを見ていたかまではわからないが、なぜかクリスタルはわたしたちのそんな言葉を「煽り」と取ったようで、顔をほのかに赤くして女子トイレの奥へと向かって行く。
「別に! 『トイレのアリスさん』くらいできるわよ!」
「いや、だれもクリスタルさんに『トイレのアリスさん』をしろなんて言ってないんだけど――」
「そこで見てなさい! 『トイレのアリスさん』なんてくだらない怪談、存在しないって証明してあげる!」
クリスタルに掃除を促すつもりが、完全な逆効果を呼び寄せてしまった。暴走機関車のような彼女を操縦するのは無理だとわたしは悟る。そりゃそうだ。わたしごときにクリスタルの手綱が握れるのであれば、海千山千の教師陣にできないはずがない。けれどもクリスタルは入学してからいつまで経っても暴走機関車のまま。結果など、火を見るよりも明らかだったのだ。
――「分身様」でとんでもない目に遭ったばかりだっていうのに……クリスタルって神経が太いんだか細いんだか……。
わたしは呆れた目でクリスタルを見る。クリスタルは「やるわよ!」と律儀に合図をしてから三番目の個室のドアを叩いた。
「――アリスさんアリスさん、いらっしゃいましたらお返事をください!」
ノックする勢いも強ければ、口上もどこか力強い。「いちいち気合が入っているなあ」とわたしは心の中でつぶやいた。
そして「トイレのアリスさん」の結果は――。
「ほら! 返事なんてかえってこないじゃない! 『アリスさん』なんて存在しな――ピギャッ?!」
広いトイレ内に設置されたスピーカーから、突然「ガリガリガリ!」と音が響き渡る。その音に驚いたらしいクリスタルは、比喩ではなく一〇センチは上に飛び上がった。
『わたし は いじめ を く に しに まし た』
スピーカーから、暗く沈んだ少女の声が聞こえる。この世のすべてに絶望したかのような、暗い暗い声。
「なになになになになに???!!!」
パニックに陥ったクリスタルが、虫を思わせる素早い動作でわたしたちのもとへと走り寄る。しかしわたしはそんなクリスタルを気にしている余裕はなかった。
スピーカーから聞こえてきた言葉には、覚えがある。――「分身様」。あの、降霊術モドキの「お遊び」で呼び寄せてしまったらしい何者かもまた、「イジメを苦に死を選んだ」とわたしたちに告げた。
「分身様」が繋いだ文章と、スピーカーからの言葉――これらはわたしの脳内で直感的に繋がった。
クリスタルは気づいているのかいないのかまではわからなかったものの、突然スピーカーから不穏な言葉が流れてきたことで、またしても泣きべそをかいている。
そうしているあいだにも、スピーカーは穏やかならざる言葉を、途切れ途切れながらも垂れ流し続ける。途中で断線したかのように言葉途切れるのは、まるで苦しんでいるかのようにも聞こえて、わたしはその不気味さに鳥肌が立つのを感じた。
『みっかご おまえたち は しぬ』
『ぜんいん しぬ』
『ぜんいん つれて いく』
『ずっと わたしと いっしょ』
『みっかご ぜんいん つれて いく』
スピーカーは、その言葉を最後に「ブツッ!」という音を発したあと、沈黙した。
わたしは硬直したままスピーカーを見上げる。けれどもスピーカーからはそれ以上、不気味な放送が流れてくることはなかった。
痛いほどの沈黙を破ったのは、明らかに涙声のクリスタルだった。
「なに?! 今のなに?! ねえ!」
「わたしに聞かないで! わたしにも……ぜんぜんわかんないんだから」
クリスタルは狼狽しつつも、わたしの言葉を聞いて大人しく黙り込んだ。彼女とて今の現象をわたしが説明できないということくらいは理解できるのだろう。
「『三日後に連れて行く』とおっしゃっていましたね……」
「そうだね。でも、単なる脅しじゃないかな……?」
「なんでそんな楽観的なことが言えるのよ! もし……もし今のが『分身様』で呼び出した霊と同一人物だったら……きっと、めちゃくちゃ怒ってるんだよ! 『分身様』の途中でやめて紙を燃やしたから!」
「そんな理由で死ぬって……ありえる?」
「……ありえないって、言い切れるの?」
わたしの言葉は明らかな虚勢だった。それはクリスタルにも伝わったのか、泣き喚くような様子だったにもかかわらず、一転して彼女は痛いほどに真剣な……怖い顔をしてわたしに問いかける。わたしはそれに「ありえないよ」とは返せなかった。そしてそう返せない事実に気づいて、ゾッと肌が粟立つのがわかった。
わたしはしばしクリスタルと見つめ合う。ふたりとも、言葉が出てこなかった。「分身様」に続き、スピーカーからの不気味な放送……。そういえば「不吉な予言をする放送」という怪談があったことを思い出すも、それに具体的な対抗策まではなかったはずだ。
――でも、きっと、三日経ってもなにごともないよ……。
根拠もないのに、わたしはそう心の中で口にする。そうでもしないと、立て続けに起こった怪異を前に、どうにかなってしまいそうだったから。
「こういうときって、どうすればいいの?! お祓い?!」
「お祓いしてくれる場所って……あるのかな……?」
「それじゃあ塩でお清めとか!」
「この幽霊に塩って効くの?」
「…………」
建設的な意見はわたしとクリスタルのふたりとも、なにも思いつけなかった。
「――た、たしかに、現状、想定幽霊はポルターガイストを起こしたりできるけれど、さすがに殺人までできるとは限らないから……様子見でいいんじゃないかな?」
「そんな悠長なこと言って!」
「ねえ、ローズマリアもそう思わない? ……ローズマリア?」
「……アンタ、なに考え込んでるの?」
ローズマリアはうつむいて黙り込んでいた。先ほどの放送がそんなにも怖かったのだろうか。心配になったわたしはローズマリアの肩に手を置こうとしたが、その前に彼女がゆらりと頭を持ち上げたので、伸ばした手は引っ込めた。
「この幽霊さんは……存外と寂しがり屋のようですわね」
「え?」「は?」
わたしの声と、クリスタルの声が重なる。しかしローズマリアの目は至極真剣そのもので、その意志の強い瞳を前にすると彼女の言葉に真実味が帯びてくるような気迫さえ感じられた。
しかし流されそうになったわたしと違って、また別ベクトルにひねくれ者のクリスタルは揺るがない。
「んなわけないでしょ!」
ローズマリアに鋭いツッコミを入れるクリスタル。そんなふたりの会話によって先ほどまであった、剣呑な空気が乱されたように感じられる。
脱力もののやり取りを前にして、わたしはようやくひと息つく。
――なにも起こらないといいんだけど。
心の中でそうつぶやくが、そうは問屋が卸さない。それから三日後の夜、わたしは背筋も凍る恐怖体験をすることになるのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。