第2話 魔女
帝国〈ヴァルカン〉には、古くからの言い伝えがあった。
誠かただの子供騙しか、信じるものもいれば疑うものもそれぞれ。
あまりにも奇妙な噂なので、若者は殆どが信じていない。しかし、老人たちは口を揃えてこう言うのだ。
――――魔女の森には決して、近づいてはならぬと。
木造建築の薄暗い一室で、俺は目を覚ました。ゆっくりと起き上がるうちに、少し古びた匂いが鼻を伝った。辺りを見渡すと、俺は全くその場所に身覚えがない。
その部屋の記憶を虱潰しに思い出そうとするうちに、自分がベッドの上で寝ていたことに気が付いた。
遅れてその事実に気付いたのには理由がある。それは、とてつもないベッドの硬さであった。
まるで床の上にでも寝ているのかというような感覚。こんなものがベッドだとは到底言えもしない。
あまりにも硬いベッドだなぁ......
更によく見ればベッドにも布団にも破れた箇所がいくつもあり、しかし糸で綺麗に縫い合わせられていた。このベッドの持ち主が丁寧な人だということだけはひしひしと伝わってくる。
というか、本当にここはどこだ? こんな部屋に来た覚えはないが......もしや、誘拐でもされてしまったか? 兵士に笑えない話だな......
俺は益々この部屋を不思議に思う。
更に周りを見回せば、机の上に綺麗に並べられた試験管やメスフラスコなどの実験道具。
その試験管の一つを俺は右手に取り、中身を確認する。底に溜まった液体がなんだか不気味な色をしている。一瞬人の顔が見えたような気がするが......気のせいか?
寝室にまで実験道具を持ち込むなんて......余程実験好きの科学者らしい。
「......あ! こんなことしてる暇はないんだった! 早く稽古に向かわないと先生に殺される!」
俺は周りには若輩と言われるが、これでも傭兵をやっている。傭兵と言うだけあって剣術の先生もいるが、何分厳格な性格で遅刻や居眠りした者を片っ端から処罰し、稽古に全く妥協がない。
そんな先生ではあるが、自分の決めたことを貫き通すことが出来るその芯の強さは俺も尊敬している。
俺は急いで鎧と剣を探すが、この寝室のどこにも見当たらない。
こんな部屋に用もあるわけではないのだ。
俺は颯爽とその部屋を後にし、鎧と剣を探し始めた。
「......ない、ない、ない、ない!」
しかし、一向に見つかる気配がない。
とは言うものの、俺は未だたった一室、それもリビングしか探すことが出来ていない。
この家はどういうわけか、入り組んでいるというわけでもないのにどう足掻いてもここに辿り着いてしまう。
リビングの中はとてもシックで、キッチンがあり、その近くにある横長の机に赤いテーブルクロスを掛けられている。
そして隅にある大きな暖炉が大きな存在感を放つ。
その暖炉と目が合うように緑のソファが置かれていた。
俺はソファに座ると、両腕を組んで昨日のことを思い出すことにした。
「昨日は確か......朝から魔女の森へ向かった。新たな資源の確保の為......で確か、途中で休憩を取って、アルと勝負することになったんだよな......何故か」
アルというのは、俺の後輩に当たる。本名はアルメディオ・ナーダと言い、剣士というか盗賊っぽい、短刀二本で戦うというトリッキーな剣術使いなのだ。
気配を消すのが得意で、いつも敵の不意を突く、傭兵団の要。
ーーーーなのだが、いつもアレンにちょっかいを出すので、アレンは少し鬱陶しく感じている。
「......結局、俺とアルの相討ちで休憩も終わって、また森の奥へ進んだんだよな。確か不思議な鉱石が見つかったから国に持って帰ろうって話になって」
そうだった。薄い青の光を放つ透き通った石。
傭兵団の全員がその所在を全く知らず、新たな発見かもしれないと兵士長が言い出したのだ。
それから、日も沈み出した頃だ。
「それで、確か......うぐっ!」
突然、俺に激しい頭痛が襲った。
まるで思い出すなとでも言わんばかりに......。
俺は思わず頭を抱えながら跪いてしまう。
しかし尚、思考は止まることはない。
「そうだ......確かその後だ......巨大な......ケルベロスが現れて......それで......」
その後の言葉を思い浮かべて、俺は息が詰まった。
忘れていた事実が、記憶の底から甦ってきたのだ。
「俺......確か......死んだよな.....?」
思い出したその事実で、俺は自分自身を恐怖した。
死んだ者は蘇ることはない。それは世の摂理である。しかし何故か俺は世の理から外れ、今もこうして生きている。……いや、俺は生きてるのか? もしかしたらここって天国なのか? だから俺はここから出られない的な……いやないわ。ここを天国だなんて信じたくもない。
何故このようなことが起きたのか、自分自身にも分からない。
思わず引き攣ったような笑みを浮かべてしまう俺が次に見てしまったのは、自分の頭を抱える右・手・だ。
そう、俺の右手は、死の過程でケルベロスによって切断された筈であった。
しかし、まるでそんなことはなかったかのように元通り、何の違和感もなく自分の右肩にくっついている。
まるで頭がおかしくなってしまいそうだ。
別に俺は死にたかった訳ではない。
しかし、この状況で、は思っ俺てしまったのだ。
自分はもう、人間ではないのではないかと。
ふと、リビングの隅に置いてあった姿見が、俺の視界に入った。
俺は立ち上がり、その姿見の側に立った。
......なんだか少し恐ろしい。
これで自分が、化け物になんてなっていたらどうしようか。
そんなことを考えてしまうと、自分の姿を見るのが怖い。
アルや兵士長、先生になんて言えばいいのだろう?
俺は、どうやって生きていけばいいのだろう?
足が震えているのをひしひしと感じる。
体が思うように動かない。ーーいや。動きたくないんだろうな。
「......行くぞ」
震える両足を両手で思いっきり叩く。自然と震えはおさまった。
もし、自分が化け物でも、「アレン」の面影が微塵もなくとも、アレンは立たなければならない。
もしかしたら、皆は自分を否定するかもしれない。それは怖い。
それでも、俺は姿見の前に立った。
それは、どれだけの人が「アレン」を否定しようと、自分だけは自分を「アレン」だと肯定しなければいけない、そう思ったからだ。
俺は自分の映った姿見を恐る恐る覗き込んだ。
なんだか一気に力が抜けていくような気がした。
兵士に配布される黒い衣服と白いズボンを身に付け、腹の出っ張りも無くすらっと細く、それでいて我ながら筋肉質な身体。頭髪は白くなってしまっているが、兵士と名乗って恥じないくらいの体格の人間の男が、そこにはいた。
「......あっはは、無駄に焦ったな......」
肩の力が抜けて床に尻もちをつく。
安心したように笑うが、そのすぐ後に自分の頭髪を見つめる。
「しっかしこの頭はどうなってるんだ? 髪を染めた覚えはないぞ?」
俺は自分の白くなった頭を弄る。
前まで地毛の黒から変えたことがなかったため、とても違和感を感じている。
まぁ、蘇りの代償がその程度だったら良いもんだが。
「......まぁ、生きているだけマシだよな。取り敢えず、鎧と剣を探そう」
そう言って立ち上がった時だ。
俺の首に何かが見えた。
思わず進まんとしていた足を止め、姿見に近づいて首にかかっている髪を掻き上げ、首を露わにする。
「......! 何だよ......これ......」
俺の首の右側には、空色で百合の花を模した印がまるで痣のように刻まれていた。
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