わけならある、だから結婚しよう


 幻聴だろうかな。


 白紙の進路希望調査票と無表情な伊吹を前に、まさるはまだ固まっていた。


 今、お前、俺と結婚しろ、と聞こえた気がするのだが。


 え、誰と?


 この全然、甘い雰囲気もなく、腕を組み、冷ややかに私を見下ろしているこの人と?


 ……誰が?


 私が……?


 よく考えたら、驚くようなイケメンにプロポーズされたという状況なのに、小躍りして喜ぶどころか、机の上で握りしめている優の両の手のひらは、緊張と混乱で悪い汗をかいていた。


「先生、すみません。

 もう一度……」


 おっしゃってみてください、という部分は、声が掠れて上手く出なかった。


 だが、伊吹には伝わったようで、ほう、と伊吹は小馬鹿にしたような顔で優を見下ろし、言ってくる。


「お前もなかなかだな。

 この俺に二度もプロポーズを要求するとは」


 いっ、いやいやいやっ!

 本当にプロポーズだったんですかっ、今の!


 その、なにかを断罪しているかのような鋭い目線でっ? と思いながら、優は訊いた。


「いやいや、先生、信じられませんっ。

 なんで、急に結婚しろとか言うんですかっ?


 白紙でこれを出したから嫌がらせとかっ?」

と言うと、伊吹は嫌そうな顔をした。


「どういう意味だ? それは。

 俺からのプロポーズは、お前にとっては迷惑だということか?」


 この人と結婚して、日々、緊張をいられる生活を送るとか、勘弁なんだが。


 確かに、口に出して言うのは、失礼だったな、と気づき、優は一応、否定した。


「そういうわけじゃないんですけど。


 でもあの、突然、結婚したいとか言われましても。

 なにかわけでもない限り、信じられません」


 もう二度と開かないんじゃないかという勢いで拳を握りしめ、優は伊吹を見上げて訊く。


 すると、伊吹は、

「いや、わけならある」

と言ってきた。


 ……あるのか。

 いっそ、ホッとしたな、と優は思っていた。


 こんな女生徒たちの憧れの的の先生に、いきなり結婚しようなんて言われても信じられない。


 まだ、なにか裏があると言われた方が、安心できる気がする。


 そう思ったとき、

「……まあ、お前は莫迦じゃないからな」

 俺も本音で話そう、と伊吹が言った。


「瀬ノ宮優。


 俺はお前を使って復讐したい。

 だから、俺と結婚しろ」


「は?」


「他にもお前を利用しようとしているやからが居る。

 俺は、そいつに先を越されたくない」


 ある意味、ものすごくわかりやすい理由でしたね……と思う優を、伊吹は真正面から見つめてくる。


 どんな女でも、くらりと来そうなその顔で。

「瀬ノ宮」

と伊吹が囁くように、その名を呼んだ。


「……そういうわけだから。

 俺と結婚しろ」


 最初、名前を呼んだときの、ちょっとやさしい感じは何処へやら。

 だんだん本性が出てきたかのように、口調は鋭くなり、最後には脅されていた。


 そんな伊吹を見ながら、優は思う。

 そこで頷く女をいっそ、見てみたい、と。


 お前を使って復讐したいとか言われて、結婚したい女が居るものか。


「あのー、でも、先生……」

と反論しかけた優の鼻先に、伊吹は机の上にあった進路希望調査票を突きつけてくる。


「お前は俺にこの白紙の調査票を出してきた。

 それは、俺に白紙の委任状を渡したのと同じっ。


 つまり、お前は俺に、自分の将来を譲り渡したのだ!」


 いやー、待て待て待てっ、と優は思う。


 先生。

 そこに田中くんのもあるけど、それも白紙ですよっ、と。


 だが、そんな優の視線を追った伊吹は、

「男は知らん」

とすげなく言ってくる。


「いや、毎年必ず居るんだ」

と伊吹は言い出す。


「第一志望がミュージシャンの奴とか、詩人の奴とか、白紙の奴とか」


 その並びで、ひとくくりにされますか……と思う優に向かい、伊吹は宣言する。


「お前は俺に白紙委任状を譲り渡した。

 つまり、お前の将来の決定権は、俺にある。


 瀬ノ宮優。

 高校を卒業したら、俺のところに嫁に来い――」


 いや、今すぐにでも構わんぞ、と伊吹は言った。




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