第10話 柊アリサ5
【柊アリサ】
具体的な行動に移ったのは、翌日からだった。本当なら昨日から早速怪盗探しに挑みたかったのだが、マリアの居住空間を整えるのに思ったよりも手間取ってしまったのだ。
マリアは想像していたよりもこちらの世界の常識というものを知らなかった。本人は事前に日本の常識というものを学んできたと言うのだが、聞けばそれは教科書を一読した程度のことであり、実際役立つ知識は何一つ持っていなかった。
まず、マリアは財布を落としたと言っていたが、支給された銀行のカードや通帳はまだ持っていた。魔法の国とやらは、怪盗を追うために必要になるだろう費用をきちんと与えてくれていたのだ。だが彼女はお金の引き出し方が分からず、そのため現金をなくした時点で一文無しになったと思いこんでいたのだ。
お金がないと思いこんでいたマリアはしばらく公園で寝泊まりする生活を続けていたそうだ。髪や体、衣服を洗うのも公園の水をひっそり使う生活をしていたようで、相当な苦労があったと思われた。アリサはマリアを銭湯へ連れていき、新品の下着を買い与えてやった。マリアは泣いて喜んだ。
マリアは今、事務所に寝泊まりしている。本来なら、お金の引き出し方を覚えた今、彼女はホテルにでも好きに泊まることができる。だが、アリサとの協力体制の都合、事務所で寝泊まりするのが一番だと判断した。マリアがホテルの使い方に不安があるというのも理由の一つだ。
事務所には元々ある程度の食料が備蓄してある。探偵の仕事が忙しく、アリサが寝泊まりすることもあったからだ。冷蔵庫もあれば給湯室もあり、仮住まいにするには十分な設備が揃っている。
そんな風にマリアがまともで文化的な生活を送れるよう手助けしている内に貴重な一日は過ぎてしまった。仕方のない消費ではあったが、今日こそ怪盗探しに本格的に勤しんでいきたい。
今日は平日だったが、アリサは学校を休んだ。アリサにとって、探偵としての仕事は学業に優先する。そのため探偵活動の方が忙しくなれば学校を休むのは彼女にとっては当然だが、あまりやりすぎると母親が心配する。
なので、アリサは朝早く制服を着て学校に向かうふりをした。途中で学校に電話し休む旨を連絡する。嘘が発覚して教師に怒られるのは別にたいしたことではないが、母親にバレるのは少し怖い。しかし、怪盗を追わなければならないというのに学校に行っている暇などない。後で見つかってしまったら、その時はその時だ。
ともかく、朝早く家を出たアリサは柊探偵事務所へと向かった。
「おはよう!」
事務所に入るなり大声で挨拶したが、室内は静まり返っていた。アリサの声が虚しく部屋の中で反響する。マリアはどこだろうと視線を巡らすと、床で眠っていた。ソファから転がり落ちたらしい。昨日から観察していて気づいたが、彼女は寝相が悪く、ついでに寝起きも悪い。
「起きなさい!」
「ふぇっ⁉ は、はい。すみません……!」
マリアの毛布を剥ぎ取り、叩き起こす。そしてさっさと支度をさせる。顔を洗っている間に、アリサはアリサで準備をした。
「ふむふむ……」
鏡の前に立ち、セーラー服の上にケープコートを羽織り、帽子を被った。ここにパイプでも咥えれば、いかにも古風な探偵そっくりだ。何度かポーズを決め、鏡に映った自分を眺めた。長い亜麻色の髪。利発そうな切れ長の瞳。ウエストは細く、中学生になってから膨らみ始めたバスト。もう少し背が高ければ言うことなしだが、基本的には文句なしのスタイルだ。
鏡に顔を近づける。柔らかくきめ細やかな肌。全体的に見て、なかなか悪くないと思う。
そう、悪くない。アリサは、自分のことを絶世の美女だと思うほど浮かれてはいないが、かと言ってむやみやたら卑下するほど悪い容姿でもないと思っている。いや、むしろ良い。あと数年もすれば、道行く人が振り返るくらいの美女にはなるだろう。
優れた探偵には美しさも必要だ。古今東西、あらゆる文脈で登場する探偵というのは皆大抵、格好良い。そうアリサは信じている。無論、風貌が醜い探偵は存在する。しかしそんな彼らも、時間をかけて彼らのことを理解していくうちに、秘めたる輝きに気づくことができる。探偵とはその内に隠しきれない知性がある。どんなに醜い風貌をしていても、その知性の輝きは隠せない。ゆえに、探偵とはみな必ず格好良いのだ。
探偵とは常に格好良くあらねばならない。そう考えてみると、風貌はだらしなく、しかし実は格好良いというパターンの探偵は、いわゆる探偵上級者なのだとアリサは思う。見た目に頼ることなく、その知性の輝きでもって人々を魅了するのは生半可な実力ではできないだろう。そうすると、いまだ未熟な自分としては、容姿の格好良さにすがるのもまた仕方のないことだろう。アリサは、お前は形から入るタイプだと昔父に言われたが、別に悪いことでもないだろうと思っている。形を真似し、そのふるまいを続けていくうちにいつか自分の中にも本物の探偵としての輝きが宿るはずだ。
そういうわけで、アリサは自分の容姿を整えることについてはある程度の努力をしていた。そしてその努力は実っている。今日も私は、いつものように美しく、格好良い……。そう思い鏡を見つめた。
「なにやってるんですか?」
マリアが恐々とした目で話しかけてきた。
「今日も私は綺麗だなって」
「そうですか……」
そっと目を逸らしマリアは言うと、そそくさとその場を離れていった。さっさと支度を終えて欲しい。
身だしなみのチェックを終えると、今度はバットやスプレーといった諸々の装備を確認した。探偵活動は時に荒事になる。常に万全の準備を整えておくべきだった。
それからアリサは珈琲を作ることにした。お湯が沸くのを待ちながら、父のことを思い出す。父は仕事前には必ず珈琲を飲んだ。インスタントの安物だが、それで良いのだと言っていた。インスタントコーヒーの安っぽい苦味こそが仕事に気合を入れるのに必要なのだと語っていた。アリサも父を見習い、仕事の前には必ず珈琲を飲むようにしている。苦いだけで、特に美味しいとは思わないけれど、探偵になるには必要なことなのだと思っている。時々何か騙されているような気分になる。別に探偵だからって、誰もが珈琲を飲んでいるわけではない気がする。けれどとにかく父は珈琲を飲んでいたのだ。だから、アリサも珈琲を飲む。ブラックで。
騙されているのかもしれないが、それでも習慣というのは大切だ。苦い珈琲を飲めば、無条件にスイッチが入る。探偵としてのスイッチだ。お湯が沸いた。マリアの分も作って、給湯室から出る。するとあの魔法使い装束に身を包んだマリアが待っていた。準備完了ということらしい。
アリサはマリアに珈琲を渡した。
「飲みなさい」
「え……? なんでですか」
「今日からあなたは私の助手になるからよ」
「いや、なりませんけど……」
「なるのよ。いい? あなたと私は怪盗を追うために行動を共にするパートナーであり、運命共同体であり、仲間なの。あなたは私の依頼人でもあり、そして私と共に怪盗を追う、探偵助手なのよ」
「わたしが助手に……?」
「そう。不満かしら」
「あ、いえ。めっそうもないです。はい」
「そう。それじゃあ飲みなさい」
「あ、でも、なんで……?」
「探偵の一日は珈琲からはじまるのよ。……たぶん」
「はあ……。そうですか」
マリアは何かを諦めたため息を吐き、カップに口をつけた。ブラックが苦手らしく、ほんのわずかしか飲んでいないが、まあ良いだろう。アリサも苦いのを我慢し一気に飲み干す。
カップをテーブルに勢い良く置く。口を拭い宣言した。
「さあ、行動開始よ」
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