第五話 傍に居てくれた日

 

 

 人間は誰しも、何がしかの『願い』があるのだと私は思っている。


 それは例えば『夢』。小さい頃から憧れている職業になりたくて、たくさんの勉強や修練、修行を経てその夢を掴み取ったり。海外にずっと行きたかった人が仕事を頑張ってお金を貯めて、そうしてやっとの思いでそれを実現したり。あるいは抱えている病気や怪我なんかが治る様に治療に励み、完治するのを願う。

 

 それは例えば『恋』。ずっと好きだった人でも、あるいはいきなり好きになった人でも、自分が好きになった相手にも好きになって欲しくて、様々なアプローチをしたり、自分を磨いてみたり、自らにできることはなんだってして、その意中の相手とお付き合いをしたいと願う。


 上記の他にもたくさん、それこそ星の数ほど『願い』というものはあるけど、私はその全てに当てはまるのは、『行動をしなければ叶う可能性なんてない』という事だと思っている。


 もしかしたらそんな事関係なく願いが叶う人だっているのかもしれない。


 けど、そんな事は本当に極々僅かで、希少で、およそ大半の人には縁がないのだと思う。


 だからこそ、願いには行動が不可欠だと私は思っている。


 ただ願うだけでは、それは決して叶わないのだ。


 その願いに応じた行動が求められるのだ。


 ならきっと、『願い』というのは人間の原動力の一つなんだって、私はそう思う。


 なりたい自分があって、欲しい物があって、一緒に居たい人がいて。


 その願いを叶える為に、行動をする。


 こうして並べ立てればなんて事ない当たり前のことの様に思えるけど。


 なら。

 

 なら私の抱いていた願いは、あの気持ちの大きさは、願いという言葉で収まってくれたのだろうか。


 あるモノを強く欲していた、絶対に失いたくないと願っていた私のこの気持ちは。


 その強さは、『願望』なんていうただ願って待つだけの思いではなくて。


 その強さは、『野望』よりも、更に身に余るほど大きな思いのようで。


 その強さは、『欲求』というよりは、ただ無くしたくないだけの思いのようで。


 どれもこれも、違っているように感じた。


 宿願……違う。


 誓願……違う。


 念願……違う。


 所望……違う。


 切願……違う。


 希望……違う。


 希求……違う。


 褐求……違う。


 何を探しても、『これだ』と思える言葉は無かった。


 ならば結局は私が抱いていたあの気持ちもただの『願い』だったのだろう。


 だからそれを叶える為に、行動をするしかなかったのだ。


 たとえその先で、願いの意味を失う事になっても。


 行動をすることしか、私にはできなかったのだから。



 最終的に何が言いたいのかと聞かれたら、今回はこう答えさせて欲しい。


 



 私は『願い』を叶えられず、けれど『願い』を叶えた。





 勝手に願いに振り回された、ただのバカな話。

 





※※※



 

 「いただきます」


 今日もお弁当を作ってくれたお母さんに向けてそう一言告げてから、卵焼きを箸で割って、口へ運ぶ。

 

 うん。今日は甘い方だったか。


 私のお母さんは卵焼きを作る時は、甘い味としょっぱめの味付けをランダムで(完全にお母さんの気分だと思う)入れてくれるので、毎回口に入れるまでどっちの味かわからないのだ。


 「んーその顔は甘い方だったかなー?」


 私の正面に座り、自分のお弁当を食べている同じクラスの友達である千春ちゃんが言ってきた。彼女にはいつもどっちの味なのか当てられてしまう。そんなに顔に出てるのかな?

 小動物みたいに小柄で、表情もどこかぽわぽわとした穏やかな印象を持たれがちな千春ちゃんだけど、実はかなりの切れ者?で、大体の私の悪事(認めたくないけど盗撮とか……)は彼女に止められてしまう。いや、助かってるんだけどね?


 そんな最高に頼れる千春ちゃんだけど、相変わらずちょっと怖いと思ってしまうのは内緒だ。

 

 「そう、今日はそっちだったみたい」


 今日も当てられた事をちょっと悔しく思いながら、正解だと告げる。


 「今日は、ってことは……毎回その、味が違うんです、か?」


 と、こちらを伺う様に聞いてきたのは八色奏さん。今日も首元で結んだローテールの髪はふわふわしていてつい触りたくなってしまう。

 千春ちゃんより少しだけ背が高い奏さんだけど、猫背のせいで千春ちゃんと並ぶとほとんど身長は同じに見えるのだ。こうしてみると双子みたい。二卵性の。


 「そうなんだよー。えみちゃんのお母さんがランダムで作るんだってさー」


 「あ、ハイ……そうなんです、ね」


 問われる寸前に口におかずを入れてしまった私の代わりに、千春ちゃんが答えてくれた。

 私も首を振る事で返事とする。


 しかし……


 と、今私の目の前にある光景を改めて見ると、何だか不思議な気持ちになった。


 中庭に併設される様にして建つ、カフェテリアがある棟の3階。

 階段を上り切った廊下の窪みに嵌るようにして置かれた机とベンチにて、私と千春ちゃん、そして奏さんは3人で昼休みを一緒に過ごしていた。


 というのも、奏さんとは知り合ってから1週間と少し経つのだけど色々とあって、一昨日からいつもこの場所で1人で食べているという彼女と一緒に私も昼食を取る様になっていた。

 それまでの私はたまにカフェテリアを利用する事を除いては、基本的に教室で千春ちゃんと一緒に昼食をとっていたので、当然私が奏さんと食べるとなると千春ちゃんを1人にしてしまう事になる……。


 千春ちゃんは「気にしないで大丈夫だよー」とは言ってくれるものの、私としては千春ちゃんとも奏さんとも一緒にご飯を食べたかったので、考えた末に、完全なる私のわがままで「2人を知りあわせてしまえばいいじゃない!」となったのだ。

 

 そこまでを思い返しながら今もおっかなびっくり話す奏さんと、至って平常運転の千春ちゃんを見る。


 ……ああ、目が癒される。


 そうやってぽーっと2人のやりとりを眺めていると「ねえ?どう思うー?笑美ちゃん」と、千春ちゃんに話を振られた。

 完全に聞いてなかった……。


 「え?ごめんね、ぼーっとしてて聞いてなかった……何の話?」


 千春ちゃんはちょっとだけじとりとした目を向けてきた後、口を開いた。


 「だからー、かなかなって呼ぶか、かなちゃんって呼ぶかーって話」


 「あーっ……奏さんはどっちが良いの?」


 そう言って目を向ける。未だ千春ちゃんに慣れていないのか、初対面の時の彼女を思い出した。頑張って!


 「あ、ハイ……えっと、そのう……かなかなは流石にちょっと、恥ずかしい、です」


 「えーかなかな可愛いのになー。じゃあかなちゃんだね。改めてよろしくー」


 「あ、ハイ。えっと、三条……さん」


 「うんー。そのうち千春って呼んでおくれー」


 「あ、じゃあ私も笑美って呼んで欲しいな!慣れたらで良いから、ね?」


 便乗する。千春ちゃんは結構ぐいぐい距離を詰めることが出来るので、奏さんの人見知りとあまり相性は良くないのかと危惧していたけど、奏さんの困った時に出る「あはは」が出てないのを見るに、意外と悪くないのかもしれない。

 

 表情も初めて顔を突き合わせた十分程前と比べてもかなり落ち着いてきている様に見えるので、少し安心した。


 「あ、ハイ。慣れてきたら、頑張ってみます……」


 「うん、それで大丈夫。そういえばさ、千春ちゃんて絶対か……はちょっとわかんないけど、大体の人のこと2文字で呼んでない?ちゃんとかさんとか抜いてさ」


 「おー、良くお気付きで。えみちゃん偉いねー」


 そう言って頭を撫でられた。千春ちゃんはスキンシップが多いのだ。そのせいか、何だか最近私も影響されて来ている気がしないでもないけど。

 

 「えへへ、ありがと。ってことはやっぱりわざとなの?理由とかって聞いても良い?」


 「そ、そうですね……ちょっと、気になります。コミュ力の参考に……」


 「うーん?理由かあー……面倒くさいからかなー」


 「「はい?」」


 想像だにしていない回答だった。


 「例えばだけどー、水原さん。って言うと合計で6文字になっちゃうでしょ?」


 「うわあ、なんかイヤ!辞めて千春ちゃんー……」


 「い、いや…例えば、ですよ?水原さん」


 「だけど、えみちゃん。なら4文字になるわけでー。呼び捨てはしない派だからそうなると名前を縮めるしかないんだよねー」


 「な、なるほど……?」


 「面倒くさい……ですか。これ……参考になるんでしょうか?」


 「だからかなちゃんも、かなかなにするか、かなちゃんの2択だったんだよねー」


 合点がいった。聞いておいて何だけどちゃんとした理由があるなんて思いもしなかったのだ。


 ん?あれ?


 そこで一つの疑問が湧いた。


 「あれ、でも千春ちゃんって月岡くんのことは普通に月岡くんって呼んでるよね?」


 ぴくっと千春ちゃんの肩が揺れた。


 え!?まさか……え?嘘だよね?


 ゆっくりと隣に座る奏さんに目を向けると、彼女も同じ事を考えたのか、驚いた様な表情で私の方を向いていた。


 一度だけ目線のみで奏さんと会話する。


 え、やっぱり私が聞くの!?


 ……ええい、ままよっ!


 「ち、千春ちゃん?それってー……?」


 質問の意味を成していない聞き方。


 奏さんにガッカリとした顔で見られた……ごめんね、勇気が出切らなかったの。


 ん?というか奏さんが聞けばよかったんじゃない?


 「ふっふっふ。彼は特別なんだよー」


 「「ええ!?」」


 シンクロする。気持ちは同じだった。


 そんな私たちのリアクションを意味ありげな顔で見つめて来た千春ちゃんは、段々と口元がニヤついて行って、しまいには笑い始めた。


 ……もしかして。


 「っくく……くふっ……」


 「え、えっと……あれ?」


 狼狽する奏さん。

 

 まだ状況が飲み込めていないらしい。


 仕方ない、私が言おう。


 「千春ちゃん?……騙した?」


 「くふふっ……ごめんねー、まさかこんなに良いリアクションが見れると思わなかったんだよー」


 やっぱり。本当に悪戯好きというか……。


 「ひどいよ千春ちゃんっ。本当に焦ったんだから!ね、奏さん?」


 「あ、ハイっ……終わったって、思いました……」


 少し青い顔でそう告げる奏さん。ちょっとだけぷるぷるとしていた。きっと本気で焦ったんだろう(自分のことは棚に上げる)かわいそうだけど、ちょっと可愛い。安心させる様に頭を撫でてみた。うわあっ気持ちいい!


 「ほんとにごめんねー。でもかなちゃんはともかく、えみちゃんは騙されないと思ったんだよー」


 「え?なんで?」


 「えー?だって、クラスで普通に男子のこと名字で呼んでるよー私」


 ……き、記憶にございません。


 「う、うーん……そうだった、かなあ?」


 「水原さんは、ほんとうに……悠くんのことしか考えて、ないんですね」


 柔らかい笑みで覗き込んでくる奏さん。


 恥ずかしさから「そんなことない」って突っ込もうと思った瞬間、別のことに気がついた。


 それは千春ちゃんも同様だった様で。


 「「悠くん?」」


 「っは!……あ、いや、えっと……そのう……あはは」


 そう言ってそれはもう恥ずかしそうにもじもじとする奏さん。


 え?何!?何その反応!


 何『悠くん』って!羨ましい!じゃなくてっ!何で!?



 「吐きなさい」


 「ひぃっ……み、水原さん、こ、怖いです」


 「吐くの」


 「みずは」


 「さあ」


 「ちょっ」


 「やめい」


 叩かれた。


 「えうっ……」


 いけない、ちょっと我を忘れてしまっていたらしい。


 ついうっかり詰め寄ってしまっていた……。


 止めてくれた千春ちゃんに感謝しつつも奏さんを見ると、ベンチの限界まで距離を離されていた……。ごめんね。


 「……ご、ごめんね奏さん。ちょおっとだけ、ほら、ね?あれしちゃったというか」


 語彙力がお亡くなりになっていた。


 「ほらほらー。そんなに怯えなくて良いよー。ほーら、チョコだよーおいでー」


 野良猫かっ!いや、猫にチョコはだめだけど。


 「あ、ハイ……ありがとう、ございます。あっ……美味しい」


 「食べたね」


 「「え?」」


 「はーい、情報料だからねー、それで?悠くん、だっけ?」


 何とも恐ろしい顔で迫る千春ちゃん。


 確信する。この人は絶対敵に回したくない。


 こんな手を使うなんて、我が友ながら信じられない……。


 「ひ、卑怯ですようっ……」


 「でも食べたもんね?じゃあ話そっか!」



 同類であった。



 やがて観念したのか、ゆっくりと話始める奏さん。


 「ハイ……えっと、昨日仲直り?したって、お伝えしたじゃないですか。それで、えっと……その時に何でも言うこと聞いてくれるって言って」


 なんでも……ですって……!?


 「なんでも……」


 「えみちゃーん、進まなくなるから黙って聞こうかー」


 口を塞がれた。まだ何も言ってないのに!(言った)


 「あはは……えっと、その何でも券を使ってお願い、したんです。名前で呼んでも良いですか?って……うぇへへ」


 「なーるほどー……やりますなあ」


 「うぇへへ……その、前から、呼んでみたかったんです」


 そう言った奏さんの顔は本当に嬉しそうで、先を越されてちょっと悔しい気持ちもあるけど、素直に良かったねって、そう思えた。


 一昨日の、それまでの彼女の頑張りと、その頑張りが通じなかった哀しい顔を知っているから、だから彼女の気持ちが少しでも報われて私まで嬉しくなった。


 私の抵抗が無くなったからか、押さえられていた口元の手は無くなっていた。


 「良かったね。奏さん」


 しっかりと目を見て伝えた。これだけで、彼女には伝わると思ったから。


 「ハイッ!水原さんの、おかげです……えっと、あり、がとう」


 初めて敬語を外してくれた彼女の気持ちが、私に向けた感謝の思いがじんわりと胸の内に吸い込まれていく様だった。


 だから、この感覚を彼女にも伝えたくて気がついたら抱きついていた。


 「うぇへへ……苦しい、ですよ?水原さん」


 「いーのっ」


 「わーずるい、私もー」


 そう言って私達をまとめて抱きしめてくれた千春ちゃん。


 日の当たらないこの場所だけど、そんな事関係ない位暖かった。






 

 昼食を終えた私達は5限目が移動授業だったこともあって、昼休みが終わる少し前には教室へと戻って来ていた。


 クラスの子たちとなんてことない雑談を交わしながら授業の用意をしていた時、「水原さんのこと呼んでるんだけど」と声をかけられた。


 教えてくれた方を見ると教室を出てすぐの所に1人の男子生徒が立ってこちらを見ていた。


 最近はあまり男子に呼び出されたり、そもそも話しかけられること自体少なくなっていたので相手が男子生徒だったことに少し驚きながらも、用件を聞きにいく。


 「えっと、水原ですけど」


 「キミが水原笑美か」


 そう言って上から下までじろりと見てくる目線に、少し怖くなる。

 顔の造形だとか美醜だとかに関係なく、お世辞にもあまり良い目付きだとは言えなかった。


 その目線から逃げる様に、半身を扉に隠した。


 「そうですけど、何か?」


 「ふん。その態度と言い、首席入学だからってやっぱり調子に乗っているみたいだな」


 「はい?」


 言われた意味がわからずにただ困惑する。


 「えっと、用件っていうのは何ですか?」


 「質問にすら答えないか。聞いていた通りどこまでも鼻につく女だな」


 ……質問なんてされたっけ?


 彼の言葉が理解できずに直前に言われたことを思い返していると、更に言を続けられた。


 「キミみたいな女が学年主席だっていう事実がボクには信じられないな。やっぱり一度見に来て正解だったよ」


 「はあ」


 この人はさっきから一体何を言っているのだろうか?


 様子がおかしいのが伝わったのか、クラスの人たちからの視線を感じる。


 どうにも居心地が悪かったので、早く会話を終わらせようと思ったが、そうも行かなかった様で、私への嫌味?はまだ続いた。


 「ちょっと見た目が良いからってちやほやされて、どうせ噂通り男遊びばかりしているんだろう。でも残念だな、次の中間テストでキミは首席じゃなくなる。今のうちに他の男どもに媚でも売っておいたらどうだ?」


 流れる様に言われた言葉を反芻している間に、その男子生徒は踵を返して行ってしまった。


 ……え?なに?なにが起きたの?


 あまりの展開に放心していると、いつの間にかクラスの子達に囲まれてしまっていた。


 「水原さん大丈夫?」


 「あいつ8組の喜久田だ。委員会で一緒だったけど喋るとあんな奴なんだ、最悪」


 「さいってい!何あれ?水原さん、あんなの気にしないで良いからね!」


 「男尊女卑の権化かよっ。災難だったね、笑美ちゃん」


 口々に言われ、ちょっと反応が遅れてしまった。

 

 意外と声が大きかったのだろうか?会話の内容は筒抜けだったらしい。


 「えと、うん。大丈夫だよ」


 ……何が起きたのかもちょっと、ちゃんとはわかってないんだけど。


 「にしても、あれはないわー!あんな奴が首席なんて取れるかっての」


 「ほんとそれ。水原さん、絶対負けないでね!」


 「いやいや、水原さんが負けるわけないじゃん!あんな勘違い野郎返り討ちだよ。ね?」


 「そうそう!応援してるからね笑美ちゃん!」


 私が会話に入る余地もなく、どんどんと周りの子たちがヒートアップしてしまい、気が付いた時には何故か「水原首席死守!」みたいな空気になってしまっていた。


 あまりのことにさっきから頭がついて行けていない私の腕が、急に引っ張られて、やっと人混みから抜け出せた。


 「ほいほーい、解散だよー。もう移動しないと授業間に合わないからねー」


 千春ちゃんであった。


 彼女の号令が効いたのか、皆一様に「勝ってね!」とか「応援してるぞっ」なんて言いながら移動を開始する。


 あっという間に教室に残ったのは私と千春ちゃんだけとなり、やっと人心地がついた気になった。


 「ありがとう……千春ちゃん」


 「いえいえー、まあとりあえず私たちも移動しよっか」


 「うんっ」


 この時は、あの喜久田という生徒に言われたことも特に気にしていなかったのだ。

 一方的に好き勝手言われて確かに「なんなのこの人」って思いもしたけど、知らない人にあれこれ言われるのも噂されるのも、高校に入ってから少なからず経験して来たことだった。

 だから今までの様に今回も放っておけばそのうち終わると、そう思ってしまっていたのだ。


 それが間違いだったと思い知ったのは、放課後を迎えた時だった。

 

 相変わらず意味のよくわからないクラスメイト達からの応援を、帰りの挨拶の代わりみたいに聞かされひと段落つき、私も帰り支度を進めていた。


 ……今日からまた3人でちゃんと勉強できるんだ。


 そんな風に、1組に集まって勉強をしているであろう2人のことを思い浮かべながら教室を出ようとした時、目の前に人が立つのが分かって足を止めた。


 昼休みの人だった。


 ……えっと、喜久田くんだっけ。


 あまり良い印象は持てそうもなかったので、少し距離をとって顔を見る。


 「聞いたぞ。首席はキミが取るって宣言したらしいな」


 「はい?」


 心の声がそのまま出た。


 目の前で不躾にじろじろと見てくる喜久田くんの視線を不快に感じ廊下へと視線を移した時、見覚えのある顔が一瞬だけ見えた。

 視線が合ったのが分かったのか、すぐに見えない位置に行かれてしまったけど。


 ……誰だったっけ?


 「おい!聞いてるのか?」


 「え、はい」


 「今から楽しみだな。キミが首席から転げ落ちるのを見れるかと思うと、楽しみだよ」


 言うことは言ったとばかりに帰っていく喜久田くん。


 ……なんだかどっと疲れた。


 早いところ帰ったフリをしてみんなの所に行こうと思ったら、まだ教室に残っていた子達に囲まれてしまい、昼休みの再演が始まる。


 なんとか誤解を解こうと試みたものの、彼女達の視線や言葉、表情から伝わってくる『期待』の感情が分かってしまい、結局私は上手く誤解を解くことは出来なかったのだ。


 千春ちゃんは、昼休みとは違って私を引っ張ったりはせず、ただじっと私たちのことを見ていた。


 それが少しだけ、気に掛かった。



 ようやく解放されたのは下校の鐘が鳴る少し前で、「今日は行けなかったな」なんて思いながら、私は帰宅した。





※ 



 

 

 「はあ……ダメだなあ、私」


 そうひとりごちながら、伸ばした足をゆらゆらと動かしてみる。


 足の動きと少しずれる様にして動く水面を眺めながら、私は今日あった事を改めて整理していた。



 ……喜久田くんだったっけ、あそこまで初対面から敵対視されるのも珍しいかも。


 ……『噂通り』とかって言ってたけど、どういうことなんだろう?



 ……それに、『首席を取る宣言』をしたって、心当たりもないしクラスの子達もそんなこと周りに吹聴するわけないし。


 

 「う〜ん……わかんない」


 そう呟いて少し身体を沈める。


 だって、考えようにもそれをする材料が圧倒的に少ないのだ。


 こう言ってはなんだけど、いきなり現れてあっという間に去っていった。という印象しか喜久田という生徒には持てなかった。


 別に彼が言った様に首席から落ちてしまうのは構わないと思っている。


 構わないと言うと語弊があるかもしれないけど、でも本当なのだから仕方がない。


 入学当初の私だったら、きっと喜久田くんにああして挑むようなことを言われるまでもなく、首席の座を死守しようとしたと思う。


 けれど、今はもう違うのだ。


 だって、それはもう溶かしてもらえたから。


 そこまで考えて、彼の−−−八色くんの言葉を思い返した。



 −−−『でもな水原。無理をしてまで頑張らなくていいこともあるんだよ』


 −−−『君が優しい子だっていうのは、変に無理をしなくたって、きっとみんなに伝わるから』

 


 思い出す度に胸が暖かくなる。


 この言葉を言われた時は体調が悪かったこともあって理解なんてしていなかったけど、後になって分かったのだ。


 彼が、私が色々と無理をしているのをちゃんと見抜いていたって。


 ちょうどそのタイミングで千春ちゃんと仲良くなって、彼女にたくさん弱いところを見せてしまって、それでも変わらずに仲良くしてくれる彼女が居たから、八色くんの言った言葉の意味がわかったのだ。


 身を以て、理解できたのだ。


 私がこう考えることが出来るようになったきっかけをくれた言葉。


 どこか私の中でお守りのようになっているその言葉があるから、今日の喜久田くんの様な挑発的な言葉にも大して腹を立てずに済んでいた。



 「八色くんに、会いたいなあ……」


 わざと口に出して言う。


 いつもなら彼のことを考えるだけで、元気が湧いてくる様な気になるのに、今日はなぜだかそうはなれなかった。


 「応援してる……か」


 自然、口から漏れ出た言葉。


 そうだ。そうなのだ。


 どうしても思い出してしまうのは昼休みの、放課後のクラスメイトの言葉。そこから感じる『期待』だった。


 ……みんなにあんなに期待されているなんて、思いもしなかった。


 それもその筈だよね。


 普段から勉強の話はしたりするが、それはあくまで授業内容や宿題に限った話であり、成績や順位などの話は進学校に進んだ私たちには、とりわけ女子には少々ナーバスな話題だった。


 端的に言うと不和を招きかねない話題なのだ。


 みんな口には出さなくともそれを感じ取っていたから、これまで誰もそう言った話題にしっかりとは触れて来なかった。



 だから、知らなかったのだ。


 彼の言葉の悪さのせいもあるのかもしれないけど、それでもクラスのみんながあんなにも応援を、期待をしてくれているなんて、知らなかったのだ。

 

 

 結局その日は、自分がどうしたいのか、その答えが出ないまま眠りについた。

 







 翌日になっても朝から放課後までずっと、クラスメイトとの話題に上がるのは中間テストで私と喜久田くんのどっちが主席になるか、という話ばかりだった。


 一夜明けても自分がどうしたいか、どうすればいいのかハッキリとわからなかった私は、昨日と同じく曖昧な返答しかみんなに返せないでいた。


 私の表情を見てなのか、新庄さんという子が「ごめんね、水原さん。なんか色々勝手に言っちゃって……」と、申し訳なさそうに言ってきた。


 私は「ううん、大丈夫だよ」なんて当たり障りのない返答をして、彼女の言葉に押し黙ってしまった周囲の子たちの顔を見た。


 ……期待されてるなら、やる前から諦めるのは良くないことだよね。


 一様に申し訳なさそうな顔をして、今も口々に「ごめんね」とか「ちょっと熱くなっちゃって」と言って来てくれる彼女たちの期待に応えたいと思った。


 ……うん、決めた。1位ちゃんと取ろう。


 だから、せめて少しでも頼もしく見えるようにわざと明るく言ってみせる。

 

 「いいよ、大丈夫っ。ちゃんと主席守ってみせるね!」


 「え、本当に!?」


 「おおーっ!さすが水原さん。ほんっと応援するから!」


 「水原さんならそう言ってくれると思ってた」


 「笑美ちゃんやっちゃって!あんな奴負かしてやってよ!」


 直前までの申し訳なさそうな顔から一変して、明るい表情で私を応援してくれるみんな。


 喜んでくれる彼女たちの笑顔を見ていたら、この選択は間違っていなかったんだと、そう思うことが出来た。


 ……でも、中間テスト終わるまでは八色くんたちのとこ行けなくなるかな。


 こうしてみんなと話している今も、1組の教室で勉強をしている2人のことを想う。


 首席を取るからには集中して勉強しないとならないし、あまりそういう姿をあの2人に見せて心配をかけたくなかった。


 話していたみんなに断りを入れて、スマホを取り出す。奏さんに《中間テスト終わるまで1人で勉強するね、ごめんね。》とだけ送り、早速勉強をするため私は家に帰った。


 千春ちゃんは、今日も黙って私を見ていた。

 


 夜、自室で勉強をしていると、千春ちゃんからメッセージが届いた。



 《えみちゃんはそれでいいの?》



 簡潔な文章。でも、彼女が何を言いたいのかは分かる。


 用件を端的に書かれたメッセージに、少しだけ八色くんのことを思い出してしまう。


 そんなことにちょっとだけくすっとして、彼女にメッセージを返した。



 《うん。自分で決めたことだし、やるなら1位取らないとね!》



 《そっか。なんかあったら相談してね》



 心配を掛けてしまっているのだろうか。


 千春ちゃんにこれ以上心配を掛けない様に頑張ろう。そう思い直して、勉強へと戻った。



 





 翌日、今日が終われば土日がやってくる。


 今日は私が図書委員の当番の日だったので、千春ちゃんと奏さんとは一緒に昼食を取れなかった。


 私は、そのことに少しだけ安堵してしまっていたのだ。


 奏さんとはメッセージで昨日もやりとりしているし、千春ちゃんとも普通に会話をしているけど、何だか今2人と一緒に過ごすのが気まずいと感じてしまう。


 それが何故なのかもわからずに、放課後を迎えた。



 中間テストが始まる直前が当番じゃなくて良かった。と思いながら放課後の図書当番を終えた私は、下駄箱へと向かっていた。



 「水原」


 いきなり名前を呼ばれて驚く、けどすぐに相手が誰だかわかって呼ばれた方へと振り向いた。


 下駄箱の隅でもたれる様にして立っていたのは、八色くんだった。


 

 「……どうしたの?」


 彼がこんなところにいることに珍しさを感じて、問う。


 「水原のこと、待ってた。委員会だろ?お疲れ様」


 彼が私を待っていてくれた。普段なら飛び上がるくらい嬉しいことの筈なのに、私の心臓はなぜだかイヤな音を発していた。


 それを悟られない様に、返す。


 「ありがと。それで?用件は何?」


 「奏から聞いた。首席取ろうとしてるんだって?」


 恐らく、今日の昼休みに千春ちゃんから聞いた奏さんが彼に教えたのだろう。


 「……そうだけど、それが?」


 「1位を取るのが、水原のやりたいこと?」


 ドクンと、一際大きく心臓が音を立てた。


 彼の質問の意味なんてわからなかったけど、彼の目に自分でも分からない何かを見透かされてしまいそうな気がして、何だか凄く彼の前に立っていたくなくなる。


 「そうよ。首席で入学したんだし、目指すのは当たり前のことじゃない?」


 こうしている間も、勉強をする時間は減っていってしまう。ただでさえ委員会に時間を取られてしまったのに。

 そんな気持ちが出たのか、ついキツい口調で言ってしまった。


 「君が本心でそう思っているなら、そうなんだろうな」


 どこか突き放した様な物言いに、カチンと来た。


 何で頭にくるのかもわからないけど、無性に腹が立った。


 散々嫌味を言ってきた喜久田くんにでさえ腹を立てなかったのに。



 「だからそうだって言ってるでしょ!八色くんは……応援、してくれないんだ?」


 

 自分で言って分かった。


 そうだ、私は彼に応援して欲しかったんだ。


 ただ一言「頑張れ」と言って欲しかったのだ。


 なのに、なのに責める様な口調で言われて腹が立った。


 

 彼の返事も待たずに靴を履き替えて、足早に校門を目指す。



 応援してくれないのか?と聞いた癖に、逃げたのだ。



 校門へと辿り着いて、もしかしたら追って来ているかもしれない。なんて淡い希望を抱いて振り返る。


 けれど彼は、居なかった。


 追って来てくれるどころか、もう下駄箱にすら居なかった。









 「はぁ……最低だ、私」



 目の前に広がる勉強道具を見る。


 集中しようとしても、出来なかった。


 帰りの出来事ばかりを考えてしまうのだ。



 ……あんな言い方なかったよね。八色くんは奏さんから話を聞いたよって言いに来ただけじゃない。


 ……私のやりたいことなのか?ってそう聞いて来てくれただけじゃない。


 ……謝った方が良いかな。心配して来てくれただけかもしれないのに。



 段々と自分の対応の方こそがおかしかったのだと気付いた私は、彼に謝ろうとスマホを取った。


 未読のメッセージがあった。八色くんからだ。


 何だか彼と繋がっている様な気になりながら、それを開く。




 《帰りの件だけど、返事言えなかったから。悪いけど応援できない》



 


 心臓が氷水に浸かったみたいに、一気に冷えていく感覚。


 それが全身に広がっていく様に感じながら、もう一度メッセージに目を通す。


 応援できない。


 そんなことを、八色くんが私に言うなんて信じられなかった。


 だって、だって彼がそんなことを言うなんて思いもしなかったのだ。


 ……あの時だって。


 そう思った瞬間、その光景が蘇る。


 過去、彼が私に言ったことを、その風景を思い出す。


 体温を全く感じられなくなった様な錯覚を覚える中、ぼんやりと昔の記憶を思い描いていた。





※※※




 中学3年5月


 受験生となって初めて迎える中間テストが目前に迫った今日、私と八色くんはいつもの空き教室で勉強をしていた。


 およそ1年近く彼に勉強を見て来てもらったこともあり、私の学力はずっと右肩あがりを続けている。

 1年前は学年のちょうど真ん中より少し上辺りを行ったり来たりしていた私の順位も着実に上がり続けて、2年の終わりには50位を切るまでになっていた。

 

 確実に上がって来ている。そんな事実が私の自信にも繋がっていたし、何より彼と一緒に勉強が出来るということが私の1番のモチベーションとなっていた。


 それこそ、たまに彼が勉強している表情を盗み見たりはしていたけど、それは私にとっては燃料の補給と一緒であり、ただ燃費がちょっとだけ悪いということでしかないのだ。


 今も私の目の前でテスト範囲の復習に取り組んでいる彼の表情をちらと見る。


 ……相変わらずかっこいいなあ。


 みるみる内に私の燃料が溜まっていき、それを動力としてまた勉強に戻る。足りなくなったら補給する。

 最高のループがここにあった。

 


 

 勉強を1時間ちょっとやった辺りで小休止を挟むのがいつもの私たちだった。


 凝りでもあるのか、首をグリグリと回す八色くんを見つめながらチョコを食べる。お父さんでいうとつまみとビールみたいなことだ。捗る。


 私が見ている事に気付いたのか、八色くんが視線だけで「どうしたの?」と聞いて来た。


 「あっ……ううん、疲れたねって」


 「あーうん。まあ一応受験の年だからね。多少頑張らないとかな」


 そう話す八色くん。でも彼はあまり私の前で勉強しないのだ。いつも授業範囲の復習ばかりやっていて、それ以外は私の質問に答えたりしてくれるだけ。


 今までも何回かそれについて聞いて来たけど、いつも「授業ちゃんと聞いてるからね、復習だけしてれば良いかなって。それに、水原の勉強見るのもちゃんと、僕の勉強になってるから」と返してくれるだけだった。


 だけだったとか言って、毎回喜んでしまう自分がいたのだけど。


 

 2人でお菓子を食べながら、自然と話題は中間テストへと移って行った。


 「八色くんのおかげで、今回も最高記録がだせそうな気がするっ」


 「そっか。でもそれは水原が自分で頑張ってるからだと思うよ」


 そんな風に柔らかな顔で私を褒めてくれる八色くん。


 幸せだなあって感じながら、私が勉強を頑張っているのは八色くんと一緒に居たいからだよ。なんて、心の中だけでいつも返事をしていた。


 それだけで、楽しかったのだ。


 楽しくて、幸せで、心が満ちていたのだ。


 そんな幸せ一杯な気分の中、ふと彼に聞いてみたいことが浮かんだ。



 「そういえば八色くんってさ、1位取ってやろうっ。とか、思わないの?」


 「1位?んー、結果的に1位になるならともかく、それが目的だったことはないかな」


 ……やだ何それ!かっこいいよ!やばいよ八色くん!うわあっ!


 わたしのかれしがいけめんすぎる。


 「な、なるほど……えっと、じゃあー……どうしたら1位取ろうって思う?」


 我ながら変な質問だなと思った。


 でも何となく、彼に1位を取って欲しくなったのだ。


 八色くんはちょっと考え込んだあと、口元に手をやって、そっぽを向きながら口を開いた。


 「……1位を取ることが水原の為になるんだってなったら、頑張って取るよ」


 わたしはしんだ。


 息を吹き返してからもう一度彼の言葉の意味を考えて、また亡くなった。


 倒れては息を吹き返す私に何を思ったのか、赤くなった顔で「まあ、そもそもそんな状況がないけど」なんて照れ隠しをしていて、それが恐ろしく可愛くて、また私はお亡くなりになりました。良い最期だった。



 「水原もさ、ずっと勉強頑張ってるだろ。だから、応援してるよ」


 「あ、ありがとう……」


 「水原が勉強を頑張ってることは、僕が1番知ってるし、1番応援したいと思ってるから」


 

 彼の言葉は、本当に私のことを思ってくれているんだって。痛いほど伝わって来て、それがまた私の原動力の一つになっていく感覚が、たまらなく好きだった。


 そんな彼と、こうして勉強できる時間が、私は大好きだったのだ。








 今も私の大事な思い出として残っている記憶を無意識のうちに思い返していた私は、一つ大きく息を吐いた。


 未だ寒さを感じてしまう心を自覚しながら、わざと声に出す。


 「……昔と今の彼が違うなんて、当たり前なのにね」


 記憶の中で私を応援してくれていた彼はもういないのだ。


 そもそも、あの時と今では私たちの関係が違うのだから当たり前の話なのだけど。


 それでも、期待してしまっていた。


 今は彼氏彼女じゃなくても、前とは違う関係になっていても。


 −−−八色くんは私を応援してくれる。


 そう、期待してしまっていたのだ。



 今更ながらに、勝手な期待を押し付けてしまっていたことを思い知った私の心には、彼に抱えていた怒りも、失望に似た感情も、何もかも無くなっていた。


 

 胸の内に大きく穴が広がっていく様な気がして、悲しくなる。


 けど、仕方ないのだ。昔とは違うんだ。


 そうやって自分に言い聞かせて、私は勉強へと戻る。



 みんなの期待に応える為に。



 昔はあれ程楽しかった勉強は、今は全く楽しくなかった。








 週が明けてからも、私は昼食を奏さんと一緒に取ることはやめにしていた。


 彼女と食べる場所は私のいる9組だと距離があるし、移動の時間がもったいなかったのだ。


 奏さんにはメッセージで「テストが終わるまではごめんね」と伝えて、了承も取ってある。


 私のわがままで彼女を1人にしてしまうことに悩んでいた私の気持ちを汲み取ってくれたのか、奏さんの所には千春ちゃんが行ってくれていた。


 迷惑も心配もかけない様にしよう。そう決めた筈なのに、そのどれも満足にこなせていない自分に嫌気がさしながらも「中間テストで1位を取るまでの我慢だ」と言い聞かせていた。


 あとで埋め合わせをすることを自分に誓って、持てる時間の全てを勉強に当てていた。


 そんな私の気迫が伝わったのか、クラスの子たちが私に話しかけてくる機会も、日に日に減っていく。そのことに安堵と悲しさがないまぜになったものを感じながら、私はただ勉強に取り組むだけだった。


 だから千春ちゃんが私にあまり話しかけてこなくなった事すら、私は気付いていなかった。


 彼女がどんな表情で私を見ていたのかなんて、視界にすら入ってはいなかったのだ。


 

 水曜日の昼休み、喜久田くんが私を訪ねてきた。


 勉強の時間を無駄にしたくなかった私は、足早に彼に近付く。


 さっさと用件を済ませて欲しい。ただそれだけを思って。


 「随分必死に勉強しているみたいじゃないか」


 「用件は何ですか?」


 「フン。そんなに首席を守りたいか。まあ、陥落したら困るんだろうな?」


 前はあんなに嫌味を言われてもあまり腹が立つことは無かったのに、今は心の底から腹が立った。


 そのことを隠しもせずに向き合う。


 「だったら何?用件は何ですか?」


 「いやあなんてことはないよ、ただ勝負をしようと思ってね」


 話が見えない。もともとこの人はそういう話を私にして来たのでは無かったか?


 「何が言いたいんですか?」


 「首席の癖に察しが悪いなキミ!賭けをしようって言ってるんだよ。ボクとキミ、どっちが1位を取れるか」


 嘲るような視線。目の前の男の何もかもに苛立ちを感じてしまう。


 この男を見返したい。ぎゃふんと言わせてやりたい。そんな復讐心にも似た感情で、応じた。


 応じてしまった。


 「いいわよ。条件は?」


 「良いね。なあに簡単だよ、どちらかが1位になれば敗者に命令ができる。どちらも1位を取れなければドロー。どうだい?」


 「わかりました。じゃあ」


 

 返事も聞かずに机へと戻る。


 会話を聞いていた生徒たちに心配そうに尋ねられたが、生返事で返してしまった。


 今は一分一秒が惜しかった。


 賭けなんて正直気乗りしないし、今も心の片隅では「何をやってるんだ」と叫ぶ自分が居たが、もう遅かった。


 ……1位を取れば良いだけの話。元々勝つつもりでやってるんだから、余計なことは考えるな。


 そうやって自らの目標を明確化していく。


 私は不器用だから。あれもこれもは出来ないと知っているから。


 だから、1位を取る為に全力で勉強をする。それだけでいい。



 周囲の期待に応える為に、1位を取る。


 

 もうそれ以外、私には上手く考えることが出来なかった。



 自分が取っている行動が正しいのだと、ただ信じていた。




 毎日毎日勉強だけをして、あっという間に時間は過ぎて行った。







 テスト当日。


 どこか重たい頭で登校した私は、頭に入っている勉強したものが抜けてしまわないように、机に顔を伏せていた。


 そうすることで余計な情報を入れないようにしたのだ。



 ……この時間さえ終われば何かが変わる。


 ……いや、何も変わらなくて済む。


 ……首席を守るんだ。


 ……期待に応えるんだ。



 顔だけでなく、目も伏せた暗闇の中で、それだけが脳にこだまする。



 そうして私は、3日間のテストを終えた。

 

 





 


 テストが終わったら何かが変わる。


 そんな風に思っていた私の予想通りとは、いかなかった。


 クラスの人たちや千春ちゃんと話していても、頭の中では常に順位のことを考えていた。


 幸い、あの賭けを決めたあとは喜久田くんが絡みにくることもなかったけど、それでも不安はあった。


 もうテストは終わったのだから八色くん達と会っても大丈夫なのに、彼に向けてしまった態度もあって、私は放課後も八色くん達に会いには行けていなかった。それは昼休みの奏さんとの昼食も同じで……。


 少なくとも、順位が出るまでは行こうと思えなかったのだ。


 テストが返ってくる度に、その点数を見る度に胃が痛くなる。


 首席を守れるのか、期待にちゃんと応えられるのか。


 そればかり考えてしまって、上手く会話も出来なかった。


 私のことを応援してくれていたみんなも、何でか申し訳なさそうに「大丈夫?」、「無理してない?」、「結果なんてね、別にほら……ね?」などと話しかけてくる。



 ……みんなどうしたの?



 ……高い点数を今の所取っている。なのに、何でそんな顔をするの?


 

 訳がわからなくなる。


 みんなの期待に応える為に、1位を取るって決めたのに。


 私がいい成績を取れば喜んでもらえると思っていたのに……。


 なのに、どうしてだろう。


 どうしてみんな、笑顔じゃないんだろう。


 一教科、また一教科とテストが返ってくる度に、私の中の違和感は大きくなっていく。


 もう、どうすればいいかなんて、わからなくなっていた。



 そして、その時を迎えたのだ。



 昼休み、まだ返って来ていない教科はあれど、先生の採点は終わったのだろう。

 

 1年生の棟。その1階に、テスト結果が貼り出される。


 昼休みになると同時、1人で飛び出すように教室を出た。


 うるさい位に鳴る心臓を自覚しながら、結果の紙へと近付いていく。


 大量の生徒がごった返す中を進むのは、少し躊躇われた。しかし、仮にも首席で入学した私に配慮してくれたのか、人垣が自然と割れていく。


 譲ってくれた人たちに感謝をするのも忘れて、吸い寄せられるように結果表へと近付いた。


 上位100人の名前が記された結果表。


 どうしても上から見るのが怖くて、一列目の一番下。25位から追っていく。


 20位……違う。


 15位……違う。


 10位……違う。


 9……


 8……


 7……違う


 6……


 5……


 4……違う


 3位……喜久田俊秀 949点



 え、喜久田くんが3位……。




 ……勝った。




 確信する。1位を獲れたのだと。



 喜びの一心で1番上へと目を向けた。






 1位……月岡悠 958点



 



 ……え



 視界に映り込んでいた2位。


 そこに記されていた私の名前なんてどうでも良くなった。


 ……なんで


 何で。脳裏を締めるこの言葉。


 

 絶望が身体をよぎる。



 1位になれなかった。



 みんなに、みんなの期待に応えられなかった……。


 

 ……八色くんに、邪魔された。



 その事実に気が付くと同時、激しい怒りが私を襲った。



 何で、何で!何でっ……!


 1位なんて興味がないみたいな顔をいつもしてる癖にっ……。


 私が1位を取りたいって思っていると知っているのに……。


 何で……。



 

 「水原」



 見計ったかのように、声を掛けられた。


 顔を見なくても分かる。


 八色くんだ。


 横にそっと立った彼を一瞥もしないまま、声を出す。


 頭ではわかっている。純粋に結果で負けただけ。彼は悪くない。


 だけど、それでも。


 今彼を見たら、感情に任せて酷いことを言ってしまう気がした。


 それだけは、したくなかった。



 「……なんで」


 

 「……ごめん。君の思いを踏みにじるような真似をした」



 そう告げるなり、彼は踵を返していった。


 

 「どうして……」


 

 呟いたその言葉は、彼には届いていなかった。



 教室へと戻る途中、喜久田くんに会った。


 ひどく罰が悪そうな顔で「悪かった」そう一言だけ言って彼は帰って行った。


 どうでも良かった。


 テストの結果で勝負をする。なんていう賭け事をしてしまったことに罪悪感はあったけど、彼に勝てたという結果なんてもうどうでも良かった。


 胸の内にあるのは、想像してしまうのは、クラスメイトの失望の顔。


 1位を取るという期待に応えられなかった絶望だけだった。



 ……みんなにちゃんと謝ろう。


 

 せめてそれだけはしっかりしようと、教室の扉を開いた。



 「おかえり水原さん!聞いたよーっ喜久田に勝ったんだね!おめでとう!」


 その言葉を皮切りに、次々と耳に届くクラスメイトからの「おめでとう」の声。


 頭が真っ白になった。


 心の底から、意味がわからなかった。


 だって、おかしいのだ。


 おめでとうなんて言われる訳がないのだから。


 1位を取ることが出来なかった私に、期待に応えられなかった私に。


 そんな言葉が届けられることなんて、ある訳がないのに……。



 「でも、惜しかったねー……もうちょっとで1位だったのに」


 来た。


 ここからだと、直感した。


 私が1位ではなかった事実を述べる言葉に、肩に入った力が増した。



 謝らないと……



 「あの……ごめ」



 「それでも955点だよ?さすがだね水原さんっ」



 「……え」


 思わず伏せていた顔を上げてしまった。



 「全教科95以上とか凄いよ!」



 笑顔で言われる。


 意味がわからなかった。


 何も言うことが出来ないままの今も、耳に届くのは称賛の言葉ばかりで……。


 現実と夢の境目にいるみたいに、脳がふわふわとしていた。



 ……何でみんな、笑顔なんだろう?


 

 「えーみーちゃん」



 不意に届いた声。


 最近だって話していた筈の彼女の声。


 そんな千春ちゃんの声をどこか懐かしく感じてしまいながら、いつの間にか私の傍に立っていた彼女の顔を見た。



 「ばかだなーえみちゃんは」



 そう言って手を握られる。



 「……え?」



 「1位を取れなかったらみんなが居なくなっちゃうとでも思ってたんでしょー」



 心の内を当てられた。



 いつもみたいになんてことないような口調で、私の心を当てられた。



 「……だって」



 「どうー?離れた?」


 

 言われて周囲を見る。


 さっきからずっと大きく聞こえていた声。


 それは事実で、みんな、私の近くに居てくれた。



 「ごめんね水原さん。あんな風にプレッシャーを掛けるつもりはなかったの……」


 そう言って手を添えてくれる新庄さん。


 

 「ごめんっ水原さん!私たちのせいで迷惑かけちゃって」


 そう言って肩に手を乗せてくれる大蔵さん。



 「ほんと、ごめんだよ。水原さんの気持ち考えられてなかったんだわ」


 そう言って手を合わせてくれる金山さん。



 「笑美ちゃーん!ごめんねー……ごめんねーっ。でも凄いよー!」


 そう言って後ろから抱きついてくれる最上さん。




 ここ最近ずっと私を心配そうに見てくれていた彼女達。


 ここ最近ずっと私が名前すら呼ばず生返事をしてしまっていた彼女達。


 1位を取ってという彼女達の期待に応えられなかった私の傍に、それでも彼女達は居てくれた。



 握られていた手に力が加えられて、正面にいる千春ちゃんへと視線を移す。


 

 「みんながえみちゃんと一緒にいるのはさー、えみちゃんが頭が良いからじゃ無い。でしょー?」


 「うん!」

 「あたりまえでしょ」

 「はあ?何だそれ?」

 「もちろん!」



 重なるようにして発せられた彼女達の声が耳に届く。


 視界が滲む。


 こうして目の前にしてやっと理解する。


 私はバカだった。


 友達の、何を信じていたのだろうか。


 勝手に1人で空回って。


 みんなに心配をかけて。


 そんなダメダメな私の傍に、それでも居てくれる人がいるんだ。


 それがようやく分かった。



 「……私っ……わた、し……」



 「ありがとう」そう伝えたいのに、言葉が出てこない。


 「ごめんね」も「ありがとう」も、何にも言えてない。全部伝えたいのに、言葉だけが出てこなかった。



 そんな私に寄り添ってくれるみんなの熱。



 それだけはしっかりと感じていた。





※※※






 放課後を迎えた私は、クラスのみんなと少し話をしてから、1組へと向かっていた。

 話していたことで時間も使ってしまったので、今日は裏門を経由したりせず、そのまま向かう。



 八色くんに会いたい。


 彼にどういうつもりだったのか問いただしたい。


 

 それだけを考えて、1組へと向かった。




 扉を開けると、奏さんが居た。


 奏さんが居るだけで、八色くんは居なかった。



 「……久しぶり、奏さん」



 テストが終わってからも、彼女と八色くんに会いに行けなかった私は、そう挨拶をした。



 「あ、ハイ。……久しぶりです、水原さん」



 少し緊張したような表情の奏さん。


 何だか少し距離が離れてしまったような寂しさを覚えたけど、今はそれよりも聞きたいことがあった。



 「……や、月岡くんは?」



 「あ、ハイ。えっと、悠くんは今日バイトで……もう、行っちゃいました」


 

 彼がバイトの日を把握していなかった。


 ……あたりまえか。ずっと連絡取ってなかったんだもんね。


 前は私から聞いて教えてもらっていた彼のバイトのシフト。


 今はそれを奏さんが行なっているのだと知って、胸にチクリと針が刺さった。


 

 「……そっか、教えてくれてありがとう。じゃあ、私行くね」


 

 今日は残って奏さんと話す気分にはなれなかった。


 期待に応えられなくても、私の傍にはみんなが居てくれる。


 そんな暖かい事実は十分に分かったのに、どこか胸の中はもやもやとしたままで。


 ……もう家に帰ろう。


 そう思い、教室から出ようとした時、ブレザーの裾をそっと引かれた。



 「あ、あのっ!」



 奏さんにしては珍しい大きな声に、反射的に振り返る。



 「ど、どうしたの?」



 「あ、あのっ……悠くんのこと、怒らないで貰えません、か?」



 懇願するように言ってくる奏さんは、真っ直ぐに私を見ていた。


 今も私の中に彼への怒りがあるのかは、教室のみんなとの一件でよくわからなくなっていた。


 だから、怒るなと言われてもあまりピンと来ない。


 なんて返事をするか迷っている間に、奏さんが先に口を開いた。



 「わ、わたしが頼んだんですっ……このままじゃ、水原さんが、だめになっちゃうって……だから……だからっ、悠くんを怒らないでくれません、か?」



 目を見張った。


 純粋に驚きが私を支配した。


 何を言っているのかわからないのに、奏さんが私を思って何かをしたということだけは分かるのだ。



 「……どういうこと?」



 彼女の言葉の意味を、ちゃんと理解したくて問いかけた。



 「えと、えっと……わたし、聞いちゃったんです。水原さんと、男の人が喋ってるの……それでっ……大変だって、思って」



 頭を回転させた。


 一つだけ、思い当たることがあった。


 聞かれていた……?



 「……喜久田くんのこと?テストで賭けをするって」



 「あ、ハイ……それもあって、えっと……ずっと、思いつめているみたいだったから……それで」



 理解した。


 ひどく曖昧で、情報と言うには不足している奏さんの言葉だったけど、理解できた。


 彼女がどうして八色くんにお願いしたのか。


 それが分かると同時に、様々な思いが私の中を走り抜けた。


 奏さんに頼まれて、八色くんが動いた。


 

 私の為に、動いてくれていた……?



 思わず喉が鳴った。



 さっきから心臓がうるさい。


 

 何で彼が動いてくれたのか。


 

 何で彼が、1位を取ったのか。



 だって、だってそれは。


 

 動く理由なんて、それって……。



−−−『1位を取ることが水原の為になるんだってなったら、頑張って取るよ』



 頭の中で昔の八色くんの声がした。



 私は唇を強く噛むことで、思考を区切る。



 努めて冷静でいないと、自分に都合のいい解釈をしてしまいそうになるから。



 ひどく甘い勘違いをしてしまいそうになるから。



 それに、たとえ奏さんが頼んだ結果だったとしても、おかしいのだ。



 彼女の言葉だけでは辻褄が合わない部分があるのだ。


 

 だから、確かめよう。



 それまでは、何も考えないようにするんだ。




 「わかった。怒らないから大丈夫だよ。奏さんにも怒ってないから大丈夫」


 「あ、ハイ……でも、ごめんなさい」


 「……ううん。心配してくれて、ありがとう」


 「あ、ハイ……うぇへへ、久しぶりに、水原さんと話しました」


 「そうだね……ごめんね、全然会いに行かなくて。えっと、ちょっと用事が出来たから、今日は帰るね。えっと……明日からまたお弁当一緒に食べても良い、かな?」

 

 「ハイっ……もちろん、です」




 奏さんに別れを告げて、学校を出る。



 目的地は決まってる。



 気持ちに合わせるように、足も急く。



 早く着いたところで、まだ時間は掛かるのに。



 それでも、早く行きたかった。



 少しでも早く、少しでも近く、彼の下へ行きたかった。


 

 ただただ早く、八色くんに会いたかった。






 駅から程近い場所にある静かな公園。


 人も居らず、遠くから電車が走る音しか聞こえない。


 公園入り口の防護柵に腰掛けて、私は彼を待っていた。


 

 2ヶ月前にも同じことをしたな。なんて思いながら、彼が来るのを待っていた。



 足音が近付いてくる。



 ……足音だけで誰か分かるなんて、こんなの誰にも言えないな。



 私に気付いたのか、段々早くなるその足音にちょっとだけ笑みを零す。


 

 足音が私の目の前で止まると同時、声がした。




 「こんな時間に、何をやってるんだよ君は」




 記憶にあるその言葉。わざとなのかな?



 声音に宿る心配の感情を感じて、申し訳なくも嬉しく感じてしまう。



 だったら私も−−−





 「……見てわからない?待ってたの」

  



 

 彼と向き合った、2ヶ月前と同じ場所で。





 同じ言葉で、出迎えた。



 


 






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