第四話 ぼくとかのじょのかさねかた

 

 昔から、『時間』についての格言や名言と呼ばれるものは多様にあった。


 ある人は、時間について『過去も未来も存在せず、あるのは現在という瞬間だけだ』と言う。


 ある人は、時間について『未来はすでに始まっている』と言う。


 ある人は、時間について『それぞれの人間によって、それぞれの速さで流れていくものだ』と言う。


 ある人は、時間について『流れ進むのは人間であって、時間ではない』と言う。


 またある人は、時間を『平等に与えられるが、結果は平等ではない』と言った。


 きっとそれらは、全てが全て正しいのだと思う。


 個々人の感性によって、その『時間』という概念の捉え方はまるっきり異なっていて、でもその異なった全てが、きっと正しいのだ。



 未来だけを見据えて生きる人が居る。


 きっとそれは、成りたい自分というものがあって、到達したい場所があって、明確な目的があって、確固たる決意がある人なのだろう。



 未来にも過去にも縛られず、現在を謳歌する人が居る。


 きっとそれは、今という時間の生き方に信念があったり、今という時間に疑いのない生き方があったり、今しか出来ない何かを探していたり、或いは今しか出来ない何かがわかっている人なのだろう。



 過去に縛られて生きている人が居る。


 きっとそれは、忘れられない約束があったり、忘れてはいけない喜びがあったり、忘れようとも忘れられない後悔があったり、思い残した、やり残した、未来へと持っていけなかった。そんな事柄がある人なのだろう。



 たぶんそれらの全ての生き方が、その人にとっては真実で、もちろん途中で生き方を変えるなんていう人もいるだろう。



 なら僕は、『時間』というものをどう捉えているのだろうか。


 行わなければいけない『未来』があって、為さなければならない『現在』があって、決して忘れることの出来ない『過去』がある。



 それら全てに莫大な思いを抱えている僕は、ならその『時間』をどう生きればいいのだろうか。


 未来も過去も現在も、その全てを見据えて生きようなんて、あまりに無謀なのではないだろうか。

 それはあまりにも、都合が良すぎるのではないだろうか。それは僕という器には、収まりきらない大それた願いなのではないだろうか。


 そんな悪魔の囁きめいたものはとうの昔に無視した僕が、見て見ぬふりをし続けていた僕が、それでも確かに時間を失ったのだと突きつけられて。


 僕の過ごした『時間』の使い方は間違っていたのだと思い知らされた。



 『彼女』と関わって、あろうことか現在に過去を投影し続けた僕の行為が、使った時間が間違っていたのだと、『彼女』の叫びと、『彼女水原』の涙が教えてくれた。

 僕という人間の過ちを、教えてくれた。



 なら僕という人間は、そこからどの様にして時間を使ったのか。



 詰まるところ何が言いたいのかと聞かれたら、今回はこう答えるのが相応しいのではないだろうか。



 失ったと思った時間の意味を拾い集め、現在に重ねて、未来へと繋げる。






 一人の少女と向き合う為に、己を見つめ直した。小さな再起の話だ。








※※※






 

 リビングのソファに横になり、天井を眺めていた。


 夕食も、お風呂も、全て終わっている。


 もうリビングにいなくとも、あとは眠りにつけばいいだけなのに、僕はこうして天井を見上げていた。


 

 数時間前に握られていた手の暖かさが、今も痛む頬の熱が、何より彼女の叫びを聞いた胸の痛みが。


 それら全てが、今もなお僕の脳裏を統べていた。



 考えがまとまらない。

 

 どこから考えていいのかもわからない。


 けれど、けれど確かに、僕は間違ったのだ。


 それだけはハッキリとわかっていた。


 これ以上ないくらい、思い知らされていた。


 あの瞬間、奏の心の叫びを聞いたあの瞬間から、何度後悔をしたのかわからない。


 水原の感情を押し殺した声を聞いて、その内容を噛み締めて、手の温もりを与えられて、過去に生きようと逃げていた僕を思い知らされた。



 ……そうだ。


 そうなのだ。僕は、過去に逃げたのだ。


 それも、抱えている後悔の過去ではなく、幸せだった過去へと、ずっと逃避を続けていたのだ。


 そうやって、悦に浸っていたのだ。奏という一人の少女を犠牲にして。


 「……っ」


 知らず、奥歯を噛み締めていた。


 歯軋りの様なぎりりとした音が口内に響き、それが骨を伝って、大きすぎる後悔として改めて耳へ届いた。



 目を瞑る、目を開いて天井を見る。頭を振る、髪を掻き毟る。何をやっても、どう転んでも、僕の頭を後悔の2文字が離してくれなかった。



 「……はぁ」



 今日だけで数え切れない程出てきたため息がこぼれる。



 わかっている。


 後悔ばかりしているのではなくて、これからどうするのかが大事だって。


 そんなことわかっている。


 それくらい、わかっているのに……。


 僕の思考は、その『後悔』から、どうもがいても抜け出せなかった。



 帰り道で水原が握ってくれた小指を見やる。


 きっと彼女は信じてくれているのだ。


 ここから僕が立ち直ることを。


 奏へと改めて向き合うことを。


 それだってわかっている。


 わがままを言っても許されるというのならば、僕は奏とちゃんと向き合いたいと、思ってはいるのだ。


 けれどそれは、僕が思うだけで、奏がどう思ってくれるのかなんてわからない。


 彼女にこれ以上辛い思いをさせてしまうくらいならば、やはりもうこれ以上関わらないでいた方が良いのではないか。


 いや、でも……


 頭の中で水原の言葉が浮かぶ。


 そうだ、奏の勉強を見ると『決めた』のは、僕だ。


 だから、こんなところで止まってはいられない。


 だけど……どうやって彼女と向き合うべきか。


 奏ともう一度向き合うために必要な答え。


 その答えだけは、いくら探そうとも出てきてはくれなかった。



 ……中途半端にするか?いや、そんなのは論外だ。


 ……素直に謝ってもう一度勉強に取り組めば良いんじゃないか?


 ……だとしても、僕がまた同じ過ちを繰り返さない保証なんてないだろう。



 そうだ。それなのだ……。


 いくら奏との関係の再構築が出来ることになったとしても、僕が同じ過ちを繰り返さない保証なんて、どこにもありはしないのだ。


 きっと、僕はそれを恐れている。


 自分でも気付かないうちに、再び彼女を蔑ろにして傷付けてしまうことをこそ、恐れているのだ。



 何度同じことを考えたのか、それすらも分からなくなる程、後悔と答えの模索を繰り返していた僕の頭に、触れるものがあった。


 いつの間にリビングへと来ていたのか、水月だった。


 水月は僕の頭に乗せた手を無造作に動かした後、ソファの後ろから回り込んできて、僕の隣へと腰を降ろした。


 普段あまりリビングへとこない水月がここに来たということは、考えるまでもなく、僕を心配してのことだろう。


 直前までの葛藤を、後悔を一度頭の隅に追いやろうとした僕ではあるが、それすらもままならず、不安げに眺めてくる水月の顔を見た。


 ……こんなに心配をかけるなんて、僕は本当にどうしようもない。



 「どうした水月?何かあったか?」


 努めてなんでもない風の、いつも通りの口調で問いかける。


 「……何かあったのは、お兄ちゃんでしょ」


 疑問符などつかない、断定した口調で言われる。

 これ以上誤魔化しても、余計に心配をかけるだけだと思い直す。

 当たり障りのない嘘をついて、安心させるために口を開いた。


 「……まあ、学校でちょっとな。疲れてるだけだから気にしないで大丈夫だ」


 「ほんとうに?」


 「本当に、だよ。悪かったな、心配かけて」


 「……ううん、じゃあーお兄ちゃん、ここ!寝そべって」


 そう言って水月が示してきたのは、自分の太腿だった。


 「はあ?いや、寝ろって言われてもな……」


 「いーいーかーら!ほら!早くっ!はーりー!」


 まるで犬の様な扱いをしてくる水月の言に従い、妹の太腿へ頭を乗せる。


 「じゃあ、耳掻きするね」


 「……じゃあの意味がわからないんだけど?」


 「良いの!今日はお兄ちゃん孝行するんだから。現役JCの太ももだよ?お金取れちゃうんだから」


 あまりにも下世話な物言いに、妹の私生活が心配になった。


 「水月……頼むからそんなことしないでくれよ?変なこと考えちゃダメだからな。お金が必要なら僕に言うんだ。もし水月がそんなことになったらお」

 

 「うるさい。早口でキモいし。そんなことするわけないじゃんっ。全くもう……お兄ちゃんてたまにシスコン入るよね、キモい」


 ぐうの音も出ないとはこのことだったか。


 心配になるあまり少しだけ浮かせてしまった頭を押さえつけられて、ようやく落ち着いた。


 ……いや、妹の太腿を枕にして落ち着くという表現は流石に外聞が悪すぎる。


 そのまましばらく無言で耳掻きをされた。


 「はい、じゃあ反対」


 「はいはい」


 ここまで来たら僕も反抗する意思など残ってはいなかったので、素直に頭を水月のお腹側へと向ける。


 耳に自分の意思とは関係なしに棒が入ってくるという懐かしい感覚に身を任せた。



 耳掻きのガサゴソという音と一緒に、水月の声が降ってくる。


 「お兄ちゃんてさ、お兄ちゃんだよね」


 「はあ?なんだそれ」


 「そのままの意味だよ。……ずっと、お兄ちゃんなんだよね」


 「まあ、そりゃあな」


 「へへ、ぜったい意味わかってない」


 流石にわかる筈もないだろう……。


 「……たまには、さ。お兄ちゃんじゃなくても良いんだよ?」


 「……」


 「今日もそう。帰ってきてからあんなにしんどそうな顔してるのに、ご飯作って、お風呂掃除して、洗濯もしてくれて……ずっと、ずっとそう」


 どう返事をすれば良いのか、わからなくなった。


 言葉が、浮かんでは消えて、口を開いては閉じて。


 妹の、僕を労る感情だけが伝わってきて、どう返せば良いのか、わからなかった。


 僕がそうしている間にも、言葉は連なる。



 「バイトをしてるのもそう。私にお小遣いたくさんあげる為だって、ちゃんと分かってるよ。僕の分も取ってあるから、なんて見え見えの嘘ついちゃってさ、バレないわけないじゃん。妹舐めすぎ」


 「嘘ではないよ」


 咄嗟に口をついて出た否定の言葉。


 「私、13だよ。もうすぐ14になるんだよ?いきなり何でもかんでも辞めろって言っても絶対聞いてくれないから言わないし、それに……お兄ちゃんの気持ちもわかってるつもりだから、それだけは言わないけどさ……でもさ、それでもたまになら、お兄ちゃんじゃなくて良いんだよ」


 「……」


 「私も、頑張るよ?もっと、お手伝いするよ?部活だって辞めて良いし、なんならじゅけ」


 「水月」


 それ以上は、言わせてたまるか。


 そんなこと、言わせちゃダメだろう……。


 「……ごめん」


 耳掻きはとっくに終わっていた。


 顔を少しだけ見上げて、頭に手を乗せる。


 「水月が謝ることじゃないよ。そうやって、思ってくれるのは嬉しいから。気持ちだけで、本当に嬉しいんだよ」


 「……うん」


 成長……してるんだな。


 だったら僕は、どうすれば良いのだろう。


 どこまで水月に、役割を与えてあげれば良いのだろう。


 「水月の気持ちはわかった。もしかしたら、これから何かもっとお願いするかもしれないから。その時は頼むよ」


 答えが出ない僕は、またこうやって嘘をついた。


 「……わかった。ね、今日何があったのか、聞いても良い?」


 「んー……そうだな、誤魔化すとかじゃなくてさ、話してあげたいのは山々なんだけど、僕もまだ上手く整理ができてないんだ」


 「それって、女の人のこと?」


 「いや、違う」


 「やっぱり女の人のことなんだあ〜」

 

 さすが僕の妹、僕の嘘なんてお見通しである。


 しかし、認めるわけにはいかなかった。


 過去、僕の女性経験のせいで水月に辛い思いをさせてしまったことは、あの張り裂ける様な叫びは、今も僕の中にしっかりと残っているのだから。


 「違うって。ほら、もう良いだろ?」


 頭を起こす。


 「……まあー妹には話しづらいか。私もお兄ちゃんに恋愛相談とか、絶対無理だし」


 思わず目を見開いた。


 「待て水月。水月まちなさい。お前あれか?彼氏とかいるのか??」


 「出たシスコン!怖いんですけどっ!」


 距離を取る妹。


 「まあ、待て。お兄ちゃんに話してみろ。今なら耳掻きもしてやろう。どうだ」


 「どうだって言われても、普通に嫌なんですけど……ていうかお兄ちゃん必死すぎ」


 「世間様は知らないが、僕の家庭では水月に彼氏なんてまだ早いだろうがっ」


 「何がまだ早いだろうがよ!お兄ちゃんだって中2の時に彼女できたじゃんか!」


 言われてハッとなった。


 確かにそうだ……。


 「……す、すまん」


 水月の口から『彼女』という単語が出るたびに、つい思い出してしまう。


 「……別に、そんな謝んなくても良いけどさ。彼氏いないし」


 彼氏がいないという水月の言葉にも、そんなにほっとは出来なかった。


 これじゃあシスコンと言われても何も言い返せない。本質はきっと違うだろうに。そんなこと、嫌ってほど自分がわかっているのに。


 「そっか。まあ、彼氏が出来たら紹介しろよ。晩ご飯くらいご馳走してやるからさ」


 「はいはい、そん時はよろしくね。じゃあ、お兄ちゃん、これ」


 そう言って投げ渡されたのは水月のスマホだった。


 「いや、え?何?」


 「私には話せなくてもさ、多分誰かに相談した方が良いと思う。わがままだと思って、聞いてよ。シスコンのおにーちゃん」


 そう言われて、スマホの画面を見ると、ある人物の番号が表示されていた。


 心臓が止まるかと思った。


 意味がわからずに、水月に視線を向ける。


 「この時間なら落ち着いてることが多いんだってさ。……婦長さんが教えてくれたの。じゃ、終わったら返しに来てね」


 そう言ってリビングを後にした水月を引き止めることも出来ずに見送った。



 一人になったリビング。手に持った番号へは、タップすれば一発で電話が掛かる。


 その番号は、母親のものだった。


 唾を飲み込む。


 心臓の動悸が激しくなっていくのが分かった。


 今も入院している母の下へは、日用品や嗜好品などを持って主に2週間に一度会いに行ってはいるが、こうして外から電話を掛けることはしてこなかった。

 

 正確に言えば、する勇気がなかったのだ。


 それが今、目の前にある。


 分かってる。電話なんて掛けずに水月に返せばそれで良い。


 もしくは電話したフリをして、適当に時間が経ってから水月のところへ持っていけば良い。


 それくらい、分かっている。


 なのに、僕は迷っていた。



 思春期の悩みを、しかも学校での異性との悩みを実の母に相談する。


 そういったことを行っている家庭もあるのかもしれない、けれど。


 母さんは入院しているんだぞ。病気なんだぞ……。


 そんな人に、悩み事なんてぶつけるのか?


 本人が自分の状態に1番悩んでいるであろうに、なのに僕はそんな母さんに悩み事をぶつけるのか?

 


 僕の理性がNOだ!と、辞めろ!と強く訴えている。


 なのに、僕の自分でもよく分からない位に深い部分が、指を勝手に動かしていた。


 発信へと変わった画面を見て、呆然とした頭のまま耳に寄せた。


 石のように固まって動かない身体でコールの音に耳を澄ませる。


 「出てくれ」と、「出ないでくれ」がせめぎ合っていた。


 


 『……もしもし、水月?』


  ……あぁ。


 『……もしもし?』


  ……母さん。


 『あぁ…………悠、どうしたの?』


  …………なんで、なんで僕だって……。


 「……ぁ」


 『……大丈夫、ゆっくりで良いから。ね』


 「……あぁ……かあ、さん」



 なんでかなんてわからない。



 いちいち理由を探すのも、いいやと思った。



 どうしてかもわからないのに、とめどなく流れてくる涙を、母さんはただ黙って聞いてくれていた。





 



 

 「……ごめん、急に」


 落ち着いた僕は、訳もわからないであろう母さんに、とりあえず謝った。


 『ううん。お母さん、嬉しかった』


 その優しい声音に、また喉がつまりそうになる。


 「いやほんと、ごめん。訳わかんなかったでしょ」


 『うーん……それは悠もじゃないかなあ?』


 「っ……」


 『ふふっ……ほら、図星だー』


 なんでわかるんだよ……。


 年甲斐もなく泣きじゃくった後だからか、今更強がる意味なんてない様に思えた。


 そう、今更なのだ。


 そうして自分に一つ言い訳をしてから、切り出した。

 

 「少し、悩みがあって。悩みというか、自分でも上手く説明できるかわからないんだけど……」


 『うん』


 「……学校でさ、一人の生徒の勉強を見ることになったんだ。あーいや、見ることになったっていうか、見てあげようかって、声を掛けたんだ」


 ……そうだ、声を掛けたのは、勉強を見ると決めたのは僕だ。


 『へえ、凄いじゃない。勉強頑張ってるのね』


 「まあ、ね……それで、2週間くらいかな。その子の勉強を見て、一緒に勉強して……それで……」


 ……そうだ、僕と奏は2週間近くはもう知り合ってから経つんだ。


 『うん』


 「こんなこと、おかしいって、どうかしてるって、今ならわかるんだけどさ……僕、その子の事をちゃんと見れてなかったんだ……その、昔付き合ってた彼女が居て……それで、その子に彼女のことを重ねて見ちゃってて……」


 ……奏に、当時の水原を重ねていたんだ。


 『……うん』


 「でもそれを、自分じゃ気付いてなかったんだ……違う。多分、たぶんどっかでは気付いてた癖に、それを辞められなかったんだ」


 ……今ならわかる。僕はずっと奏から彼女を感じようと目を凝らしていた。いや、目を曇らせていた。


 『うん』


 「それで今日、その子に言われたんだ。わたしに誰を見てるんだって……それで、それで初めて、彼女を傷付けていたって……それでやっと……」


 ……今もずっと目の奥に焼き付いて離れない。夕日で見ることが出来なかった奏の顔。


 「それでやっと、僕は彼女を蔑ろにして、目の前の彼女のことじゃなく、大事だった過去のことばかりを考えていたんだって……わかったんだ」



 ……過去に逃げていたんだと、思い知らされたのだ。



 『そっかあ……じゃあまず。良く自分の間違いを、ちゃんと認められたね、頑張ったじゃない』


 ……思ってもいなかった言葉、僕はてっきり−−−


 「ち、違うだろ母さんっ。何やってんだって、バカじゃないのかってっ……そうやって、そうやって!他にもぼ」


 『だって、もう十分怒られたんでしょう?』


 「……え」


 『悠が言ったみたいに、ちゃんとダメだねって怒ってくれる人が居たんじゃない?』


 ……水原のことだ。でも、でもなんで−−−


 『ふふ……何年あなたのお母さんやってると思ってるの。それくらい、言われなくても、わかります。だから、私からはもう怒らないよ……目一杯反省したんでしょう?その上で、どうしたら良いか、わかんなくなっちゃったんでしょ?』


 ……どうにも、僕の涙腺は近頃おかしいらしい。


 「……ああ」


 『それも嬉しいのよ?悠のこと、ちゃんと見てくれてる人が居るんだって、わかったから。悠ってば、自分の事あまり話してくれなくなったから。男の子だもん、それもわかるんだけどね』


 「……っ」


 『でもねえ、お母さんちょっと違うと思うな』


 「……違う、って?」


 ……また何か、僕は間違ってしまったのだろうか。


 『悠はさ、彼女の事を大事に出来なかったって、言ってるじゃない?でもお母さん、それは違うと思います』


 ……懐かしい、変に先生ぶった口調。


 返事なんて、もう出来なかった。


 『だって、おかしいじゃない。大事に思えない人に、自分の大事な記憶なんて重ねるかしら?お母さんだったらちょっと無理かなあ』


 ……思考が出来ない、なのに……なのに、母さんの言葉だけが、しっかりと頭に入って来る。


 『だから悠は、その子の事もちゃんと大事に思っているんじゃない?……それに悠は、その子の事をちゃんと見れてなかったって言うけど、それは半分正しくて、半分間違ってるって、お母さんは思います』


 「……」


 『まだ辛くて、わけが分からなくて、それで上手く思い出せないだけで、あなたはちゃんとその子の事も見ていたんじゃないかしら。……その子と過ごした2週間っていう時間は、ちゃんと悠の中にあるんじゃないかな』

 

 一瞬だけ、光が見えた様な気がした。


 震えそうになる声を、深呼吸をする事で無理やり押さえつける。


 これ以上の長電話は母さんの負担になる。

 

 ただでさえ、僕が泣いてしまったから時間を取ったのに。


 「……ありがとう、母さん。母さんに話して、少し頭の中も整理できた……気がする」


 『ううん。ふふっ……久しぶりに、お母さんらしい事、してあげられたかな』


 どこか寂しげに呟いた母さんの声。


 ……僕はバカか。本当に、本当にどうしようもなくバカだ。


 そんな事を、この人に思わせていたのか。


 深呼吸をすることすらも忘れて、震える声のまま話す。


 「……何言ってんだよ。母さんは、ずっと。ずっと、ちゃんとずっと……僕等の母さんだよ」


 『うん……ふふっ。……優しく育ってくれてありがとう、悠』


 「っ違うだろ……母さんが、母さんがこう育ててくれたんだろ」


 精一杯、わざとらしく、とぼけて言う。


 それが出来ていたかなんて、わからない。


 『ふふっ、そうでした。じゃあ悠、最後に一つだけ』


 「……うん。何?」


 『その子にちゃんと会って話すのよね?整理ができたら』


 「うん、そのつもり。いや、絶対そうする」


 『ならその時は、正直になりなさい。難しいことばっかり考えてると、気持ちなんて伝わらないわよ』


 「……わかった。ありがとう」


 『上手くいったら後でも良いから報告するのよ?お母さんも気になっちゃうから。じゃあ、またね……水月とも、仲良くね』


 「分かった……おやすみ、母さん」


 ……久しぶりに、母さんに『おやすみ』を言った。


 ただそれだけの筈なのに、それが僕にはとても大きく感じた。




 電話を切った僕は、水月にスマホを返しに行くのが、少しだけ遅れてしまった。







 水月にスマホを返した僕は、自分の部屋へと戻ってきていた。


 その際に少しだけ水月と話した。


 水月は週に何回か今日僕がしたみたいに、母さんへと電話を掛けているらしい。


 水月は水月で、僕にも母さんへと電話をして欲しかったそうだが、それをどう僕に伝えて良いのか分からずに悩んでいた様だった。


 普通に言ってくれれば良いのに、なんてことは思わなかった。それが水月の真剣な悩みであり、僕と母さんへの思いであり、心配であった事が分かるからだ。


 「これからはたまには僕も掛けるよ」と、感謝と共に伝えると、やっと水月は笑ってくれた。


 今日、帰ってから今までずっと、水月が笑顔を一度も浮かべていなかった事に、その時になってようやく気付いたのだから、僕は本当にダメなお兄ちゃんだなと改めて思う。


 だからこれからは少しだけ、ほんの少しだけ、水月にも相談をしていこう。何も語らず、闇雲に心配を掛けてしまうだけなら、少しだけでも、相談をしていこう。


 これが前進なのか、後退なのかは分からないけど、そうやって僕ら『きょうだい』の新しい形にしていこう。


 改めて、そんな事を思った。




 座っていた椅子から、ベットへと移る。


 帰ってきた時はあれ程までに混沌としていた頭が、今では随分とすっきりしている。


 時計を見る。


 時刻は22:50分


 まだ時間はある。これからもう一度頭を、考えを整理する前に、僕にはもう一つやらなければいけないことが残っている。


 正確に言えば、二つか。


 けれど、片方は自分で出来ることだ。


 いや、他でも無い僕にしか出来ないことだ。


 さっきまではそんなこと1ミリすらも考えられはしていなかったけれど、今ならそれをしなくてはいけないと分かる。


 手に持ったスマホを操作し、何度かタップした。


 

 耳にスマホを当ててから、先にメッセージを送っておけば良かったと思い至る。


 どうやら気が急いていたみたいだ。


 いつもいつも、何かを考えてからじゃないと行動するのを躊躇ってしまう癖に、一度思いついてしまったらこうも考えなしになるのか。なんて、コールが鳴るのを聞きながら考えていた。



 何度目かのそれで、彼女が出た。


 彼女−−−正確に言うと元彼女であり、現同級生。水原笑美。


 僕を、僕の過ちを……見ていてくれて、間違っていたと教えてくれた人だ。


 それでも……まだ立てる、まだ間に合うと、信じてくれた人だ。



 『……もしもし、八色くん?』


 「急に電話してごめん。今、大丈夫だったか?」


 『うん、平気。どうしたの?』


 ……いつもより柔らかい声。電話だと彼女は普段よりも話しやすくなる。


 「水原に、話しておきたいことがあるんだ」


 余計なことが伝わらない様に、簡潔に。素直に。


 『……うん。聞きたい』


 一つ、深く……深呼吸をした。


 「水原、ありがとう……僕を見ていてくれて、間違っているって教えてくれて。……まだ大丈夫だって教えてくれて、手を握ってくれて……信じてくれて、ありがとう」


 息を飲む様な音。


 返事がくるまでは、だいぶ掛かった。


 『っ……ぅん……うんっ……ごめんね。何にもっ……なんにもでき、なくてっ……ごめん、ごめんね……』


 「水原が謝ることなんて、一つもないよ。君のおかげで、ちゃんと分かることがあったんだから」


 ……そうだ、彼女のおかげで僕は、僕が自分自身で決めた事を思い出せた。


 自分の意思で、彼女と関わる事に決めたのだという事を、思い出せたのだ。


 『……でもっ!……もっとほかにも……私っ……もっと』


 「泣かないで、水原。これで良かったんだ。間違ってしまった僕が、良かったなんて言っちゃいけないんだろうけど、でも……こうして気付けたから、きっとこれで良かったんだ」


 『……でも』


 「水原が、教えてくれたんじゃないか……まだ大丈夫だ、って。水原だったから、僕に教えることが出来たんだよ」


 『っ……』


 「だから、ありがとう。僕が気付けなかった間も、奏に寄り添ってくれていたんだろう?それも、ありがとう……君が、水原が居てくれて良かった。水原が居てくれたから、だから……僕はここで止まることが出来たんだ」


 ……これ以上、落ちていかなくて済んだのだ。


 『……ぅん……っ……うん……』


 「明日、になるかはまだちょっと答えが出切ってないから何とも言えないんだけど、もう一度奏と話すよ。奏に断られても、きっとしつこく話しを聞いてもらおうとする。だからもう、泣かなくて良いんだ。大丈夫にしてみせるから……大丈夫にするって、決めることが出来たから」


 『……うん……うん。……ねえ、八色くん』


 「なに?水原」


 『私が信じてる……八色くんがもしまた迷っても……私が八色くんを、信じてるよ。だから……覚えてて』


 「……ありがとう」


 通話を切る。


 ……本当に、僕は何度君に助けられてきたのだろうか。


 昔とは違う彼女の、強くなろうと頑張ってきた水原の言葉は、生の声を変換して伝わってくる電子音なんかじゃ伝えきれないくらい、力強かった。


 これ以上無いくらい、心強く、胸に刺さった。



 

 たった今交わした彼女との言葉を、もう一度自分に刻み込んだ。



 覚悟を決める。


 

 もう一つ、僕にしか出来ない事をやる時が来た。


 そっと瞼を閉じる。


 思考は深く、意識して深く潜らせていく。



 思い描くのは、僕の2週間の過ち。


 その最中ずっと奏に重ねていた、彼女の事を思い出す。


 中学当時、付き合っていた水原笑美を、思い出す。


 4月に僕は、水原のことが好きだと自覚した。


 けれど、それは誤りだったのだろう。


 僕の初恋は捨てたもので、今水原に抱えている感情は、ただの好意。


 そう、納得した筈だった。


 そう、理解した筈だった。


 けれどどうだ、実際の僕が思い出して、思い描いて、無意識のうちに求めてしまっていたのは、全部『過去の水原』だった。


 奏と比べて頻度が低かっただけで、僕は水原にもきっと、過去の水原を重ねていた。


 僕が好意だと、そう思い込んでいたのは……



 それは、ただの記憶の愛惜あいせきだ。



 僕が平穏に過ごしていれば、僕が別れるという決断をしなければ、母さんがああなってしまう事を未然に防げていれば。


 そんな無数の後悔の延長にある、たらればが生んだ、未練にも満たない愛惜だ。


 それを僕は、後生大事に抱えていたのだ。


 知らず抱え込んでいた自分の心を慰めるためだけに、過去の記憶に縋っていたのだ。


 それを好意だと、都合よく自分に割り当てて、『今』をみようとしていなかったのだ。


 だから僕は、ここからまた水原を見ていこう。


 彼女に抱えている想いは、過去の記憶に縋った僕の弱さだけなのか、改めて彼女と関わっていく中で、もう一度見つめ直そう。


 昔の彼女と、今の彼女は、全く同じなどでは決してないのだから。



 今の水原が教えてくれた。



 僕が今いるのは『ここ』なんだと。



 目が醒める思いがした。



 過去に比重が傾いてしまっていた自分がいた事を、自覚した。


 今、一緒に居てくれる人がいる事を、伝えられた。


 今、僕が誰の勉強を見ているのかを、それを誰の意思で行っているのかを、教えてくれた。


 今こうしている間も、僕を信じてくれている人がいるのだと、心が理解した。


 過去に縋り付きながらも、それでも確かに積み重ねていた時間はあったのだと、やっと分かった。



 ……ならもう、それで良いだろう。



 きっとこれからも、水原と過ごした時のことを、その思い出を振り返ってしまう事はあるのだろう。


 けれど、縋り付くためだけの思い返しは、今日で終わりだ。


 未練でもない、好意でもない、ましてや愛惜でもない。


 大切に想う記憶の宝物と言うべき物に、変えるのだ。


 過去に傾いていた僕の比重を、元に戻す。



 決別する。



 彼女達に記憶を重ねて悦に浸っていた自分に、決別する。



 あの記憶は、当時の僕らの思い出は……



 そんなくだらない事の為に、あったのではないのだから。




 目を開ける。



 整理はできた。



 何の生産性もない自慰行為に決別もした。




 あとは、答えを見つけるだけだ。

 


 

 






 記憶と感情の整理を終えて、僕はベットの上で壁に背を預けていた。


 思い出すのは、水原との放課後の会話。


 会話というにはあまりに一方的だったそれを、けれどしっかりと僕に届いていたその言葉たちを、思い返していた。



 −−−『笑うと少しだけ八重歯が出るのよ』


 思い起こす。

 

 確かに奏は、「うぇへへ」と笑う時、その小さな口には確かに八重歯が出ていた事を。



 −−−『スマホのタイピングがすごく速いの』


 思い起こす。


 確かに奏は、「……お母さんから、またお使いです」と言って、素早く返事を打っていた事を。その時の彼女の指を。いつからか、ぴかぴかに磨かれていたその爪を。


 


 −−−『奏さんあの髪色、地毛なんですって』


 思い起こす。


 僕が奏に水原を重ねていたから、聞こうともしなかったその事実を。

 髪色なんて、奏と水原じゃあ全く違うという事を。




 −−−『背筋伸ばしたらスタイル良いのよ』


 思い起こす。


 勉強がひと段落ついた奏が大きく伸びをして、その豊かな膨らみから咄嗟に目を逸らしてしまった事を。

 そんな僕に気付く事もなく、お菓子をぽりぽりと頬張りながら食べていた彼女の姿を。




 −−−『誰にでも敬語なのに、あなたにだけはそれを外そうとしてたの』


 思い起こす。


 ずっと敬語だったのに、時たまそれを外したり、外そうとして結局出来なかったりした奏の事を。

 勉強会の最後の方には、どこか諦めた様にそれをしなくなっていた事を。



 −−−『奏さんってね、『あはは』って、笑うんだよ?』


 思い起こす。


 −−−『……困ってたり、泣きたい時にね、『あはは』って。そうやって無理して笑うんだよ……?』


 思い起こす。


 −−−『……段々増えてくの。知らなかったでしょう。彼女、八色くんと話すたびに……それが、増えて行ってたんだよ?』




 思い出す……。


 急に突拍子もない事をして、僕に咎められた後の彼女のそれを。


 ノートの受け渡しの後に、そうやって笑っていた彼女の姿を。


 必死に僕に伝えようとしては、裏切られて笑う、彼女の悲しそうな声を。




 奏の声を、思い出す。



 −−−『月岡くんが、初めてだったんです』



 −−−『月岡くんとの勉強が、楽しかったんです』



 僕にその疑念を、抱いた確信を突きつける前に言った彼女の言葉。



 そこに込められていた、意味を噛み締める。



 改めて後悔の念に支配されそうになる心を、意地でもって耐えた。



 脳裏に蘇るのは、尊敬する母からの言葉。



 −−− 『大事に思えない人に、自分の大事な記憶なんて重ねるかしら?』


  

 −−−『その子と過ごした2週間っていう時間は、ちゃんと悠の中にあるんじゃないかな』 


 

 ……ああ、本当だ。



 ……本当に、あなたは偉大な人だ。



 頭の中を、これまでの2週間が駆け抜けて行った。




 知らず、閉じていた目を開く。



 「……当たり前のことじゃないか」



 心に思い知らせる様に、わざと声に出していた。



 「……そうだよ、その通りだったよ、母さん」



 こんな簡単な事を気付かせてくれた、たった一人の母に向けて。



 「……僕は、奏が大事なんだ」



 難しいことなんて何にもない、胸の中に残った単純な感情を、声に出す。



 「……最初は違ってても、今日になるまで気付けなかったけど」



 ……過ちの重さに、幸せな過去の記憶に埋もれてしまっていた、それを。



 「……半分しか、いや半分もないかもしれないけど、僕の中にも、あったんだ」



 自分の中にしっかりと『あった』ものを、二度と忘れてしまわない様に、声に出した。



 

 答えはでた。


 これが正しいかなんて分からないけれど。


 それでも、奏に伝えたくなった。


 ついぞ何も返すことが出来なかった彼女の言葉に。


 僕の言葉で、ちゃんと返事をしたいと、そう思えたんだ。


 




 

 

※※※





 ◆ ◆ ◆ 八色奏 ◆  ◆ ◆




 放課後の教室で、私は手に持ったスマホの画面を見ていました。



 差出人はお母さんじゃありません。


 短く、簡潔に。


 ほんとうに『彼』らしい文章です。



 《奏に話したいことがある。放課後に来てくれないかな。お願いします》



 今まで私とのメッセージでは一度たりとて使ったことのない敬語が目につきます。


 『お願いします』の一言が、私に不安を与えました。


 今更何を言われるんでしょうか。


 頭の中ではそうやって考えます。


 なのに。


 なのに……昨日さんざん泣いたのに、恋は潰えたと思っていたのに、私と月岡くんの時間は無くなってしまったと痛いくらいわかったのに……それでも期待してしまうんです。



 そんな私の期待を打ち消す様に、「今度こそ打ちのめされるだけ」と、頭の中で嫌な私が囁きます。



 わかってます。


 あれほど彼を傷付けて、今更なんて言えば良いのですか。


 あんなに彼に傷付けられて、今更何を思えば良いのですか。


 わかってるんです。



 わかってるのに……。



 『ごめんなさい』の一言が、どうしても打てないんです。



 またあの目で見られる。


 また彼に傷付けられる。


 また彼を疑ってしまう。


 また彼に、会いたくなる。


 月岡くんに、会いたくなる。



 ……ああ、思い知りました。



 初恋って、こんなにも、苦しいんですね。



 苦しくて……切なくて、なのに……心が願ってしまうんですね。



 会う事を否定する言葉達は、いつの間にか頭から居なくなっていました。



 ……月岡くんに会いたい。



 ……月岡くんの声が聞きたい。



 もう、いいです。



 泣くのも、悲しいのも、一人で居るのも耐えられます。



 でも……。



 彼に会えないのは、耐えられそうもありません。




 『あの目』で見られても良いです。もう、良いんです。

 

 悲しいのも、苦しいのも、辛いのも、耐えます。


 だから、良いんです。


 彼に会えるなら、もうそれで、良いんです。



 スマホをしまいました。


 お母さんには《遅くなるね》と送ってあります。


 ……水原さんに何て言いましょう。


 一瞬浮かんだその考えも、えいやって後回しにしてしまいました。


 ごめんなさい水原さん。


 どうやら私は鈍臭い上に、バカみたいです。



 3組の教室を出ます。いつの間にか生徒はほとんど居なくなってました。


 廊下の反対側。うんと向こうの1組に、彼が居ます。


 彼が、私を待っています。


 そんな事実が辛いはずなのに、それ以上に嬉しい。


 バカみたい。って自分で自分に言い聞かせました。


 だって、そうじゃないですか。


 自分を見てくれないってわかってるのに、それでも会いに行くんですから。


 分かってるくせに、こんなに足がくのですから。




 1組の教室、その扉。

 

 いつもしていた様に、扉をちょっとノックします。


 彼は変わらず座っていて、私が来たのに一瞥いちべつもしません。


 

 静かに歩み寄って、いつもみたいに鞄を置きます。



 心臓が跳ねました。



 ドキドキと鳴る心臓。最初は嬉しかったその鼓動。


 段々嫌な音に変わっていったその鼓動。


 今は一体どっちなのか、考えてみてもわかりませんでした。


 いいえ、考えることすら、きっと出来ていませんでした。



 だって……



 「待ってたよ、奏」



 見てたんです。





 彼がを、見てたんです。

 





※※※





 ◆ ◆ ◆ 月岡悠 ◆ ◆ ◆





 「待ってたよ、奏」


 目の前の少女、八色奏を見据えて言う。



 彼女は何も言わず、驚いた表情のまま固まっていた。



 ……大丈夫。


 

 震えそうになる手を、握り締めることで誤魔化す。


 懸念はあった。


 彼女がそもそも来てくれるか。


 彼女が来たとして、決別をしたとは言え、僕は奏に彼女を重ねないで見られるか。



 けれど、大丈夫。



 そう言い聞かせていた通り、僕は『八色奏』を見れていた。


 

 −−−『彼女、私と全然……違うでしょ?』


 ……水原の言った通りだ。


 思わず笑ってしまいそうになる。


 ……本当に全然、違うじゃないか。


 僕は一体、何を見ていたのだろうか。


 こんなことすら気付けなかった僕を改めて殴り飛ばしたくなった。


 たくさんの事を教えてくれた水原に、感謝をした。


 昨夜全部の答えが出た後に、メッセージでお願いした事を承諾してくれた彼女に、感謝をした。


 僕の話を聞いてくれた母さんに、感謝をした。


 後悔ばかりで出口が見えなかった僕の心に、光を射してくれた母さんに、感謝をした。


 僕が君を見ていないんだって、そう教えてくれた奏は、今僕の目の前に居る。


 だから彼女に、伝えよう。


 

 今も驚きから戻れていないのか、動きが止まってしまっている奏に、近付いた。


 机を挟んで向かい合っているこの距離では、届かないかもしれないと思ったから。


 僕がちゃんと見れていなかった彼女を、ちゃんと今は見れているんだと、全霊で伝えたかったから。


 固まったままの奏の正面に移動した。


 目線が合う。


 ……意外と目の色素、薄いんだな。


 「意外と目の色素、薄いんだな」


 声に出てしまっていた。


 「ひゃぃ……」


  ……くそ、完全に出だしをしくじった。



 脳裏に母さんの言葉がよぎる。



 −−−『ならその時は、正直になりなさい。難しいことばっかり考えてると、気持ちなんて伝わらないわよ』 



 ……絶対、こういう意味では無かったと思うけど。


 でもまあ、その通りかもしれない。


 奏に話す為に考えてきていたあれこれは、自分で思ったよりも簡単に手放せた。


 


 「奏」



 ひとつ、名前を呼んだ。



 「……ハイ、月岡くん……」



 目を合わせる。彼女に伝える、だから決して逸らしはしない。



 「ずっと、ずっと……ずっと、君をちゃんと見れていなくて、悪かった」



 「っ……」



 「奏に、聞いて欲しいことがあるんだ。良いかな?」



 「……ハイ」



 「僕は、君が昨日言ったみたいに……奏に、昔の彼女を重ねて見ていた」



 「……そう、ですね」



 「しかもそれ、中学時代の水原なんだ」



 「……ハイ、水原さんを見て、わかりました」



 「……そっか。あのあと、水原に言われたんだ。僕が今いるのはここだろう?って」



 「……」



 「馬鹿だよな。水原に言われるまで、君に教えてもらうまで、何一つ……僕は気付いちゃいなかったんだ」



 黙ったままの奏。けれど、その目線だけは僕を見てくれていた。



 「……ごめん。たくさん、嫌な気持ちにさせてしまった。たくさん、君を傷付けた」



 奏の瞳から、涙がゆっくりと流れた。


 けれど彼女は、拭いもせずに、僕を見ていた。


 僕を、真っ直ぐ見てくれていた。



 「奏、僕に……僕の間違いを、教えてくれて……ありがとう。君が居たから、僕は僕の間違いに気付けたんだ」



 「……わたしが……居たから、ですか?……わ、わたしのせいで、わたしが居たから……前の水原さんを、思い出しちゃったのに、ですか?」



 「……違うんだよ。奏だけじゃなかったんだ……僕は自分でも気付いてないうちに、色んなものに過去を重ねて見ていたんだ。それこそ今の水原にさえ、僕は過去の彼女を重ねていたくらいだ」



 「……」



 「だから、奏が居たから気付けたんだよ。君が、僕に教えてくれたから……だからこうして今、僕は君の前に立っていられるんだ」



 「……ぅぅ」



 「許してくれなんて、言えないのかもしれない。けど、ごめん。許してくれるまできっと僕は諦められない……僕は……僕は、また奏と一緒に勉強がしたいんだ」



 「……あぁ……っぅ……」



 「2週間……奏と一緒に勉強した2週間は、本当に、楽しかったんだ……」



 泣き声を我慢している奏、きっと上手く言葉が出ないのだろう。


 でも、言いたい事は、何となく分かった。



 「重ねていたのに、こんな事を言うのはおかしいって、僕でも思うんだけどさ……でも、違ったんだ。昨日、いろんな事を考えて、いろんな事を思い出して、それで分かったんだ」



 「ぅ……」



 「僕は君に彼女の面影を重ねてしまっていたけど、でもそれが全部じゃなかったんだ……たくさん思い出して、分かったんだよ……僕と、僕と八色奏が、確かに積み重ねていたモノは、その時間はこの2週間にそれでもあったんだって、分かったんだよ」



 「……ぇ」



 「そもそも彼女は君みたいに、消しカスを飛ばしたり、足でちょっかいを掛けてきたりしないし、腕にシャーペンを刺して来たりも、ノートに落書きもしないし、何の意味があるのか徐に第2ボタンなんか開けないし、顔面にご飯をぶちまけたりなんかしなかった。何より、君ほどは変な奴じゃあなかった」



 「……そ、それっ……全部、わるぐちじゃあ、ないですかあっ……」



 笑ってしまった。


 確かに冷静に聞いたら悪口だ。



 「……っはは、そうだな。悪口かもしれない。っふ……いや、ごめん。でも違うんだよ」



 涙目でじと目を向けてくる。


 僕はもう自分の口が何を言ってるのか、気にするのは止めることにした。


 というか、とっくにそうなっていた。



 「僕は、そんな奏と勉強をするのが好きなんだ。中には僕に気付いてもらう為にしたことがあったのかもしれないけど、でも……全部じゃないだろう?奏は、考え事をしてるのかわからないけど、たまに人の話を聞いてなくて。くっだらない事で意味の無い揚げ足ばっかりとってくるやつで。食べ物を口一杯に頬張って美味しそうに食べる人だ……彼女とは違う。君が……奏だから一緒に居て楽しいんだ。だから、何としてでも許して欲しい……奏と一緒に、また勉強がしたいんだ」



 ただ思いが伝わる様に、真っ直ぐに目だけを見て。



 「……だって、わたし……変なやつ、ですよ?」



 「知ってるよ。だから許してほしいって謝っているんだ。知っているし、もっと知っていきたいから一緒に勉強しようって、誘ってるんだ」



 「っ……なん……でっ……なんで……」



 「決まってる。僕が自分の意思でそう決めたからだ」



 彼女が返答できる様に、一拍おく。



 「奏。改めて聞きたいことがあるんだ。良いか?」



 僕がまだ完全には奏に彼女を重ねていなかったあの瞬間。


 だからきっと、この言葉を言おうと思ったのだろう。


 これからの時間を重ね始める為に、この言葉を言いたくなったんだ。



 「……っハイ」



 謝罪になんてならなくて、誘うにしても不確かな言葉。


 僕の全部の気持ちを含めて、右手を差し出し、彼女に問う。


 



 「君、勉強大丈夫か?」





 「ハイ、月岡くんに……教えて、ほしいっ」






 『あの時』とは違う言葉で、表情で、彼女は返してくれた。



 僕の出した右手には、彼女の右手が重なっていた。




 言いたい事の全部なんてとてもじゃないけど、言えなかったと思う。



 伝えきれない言葉がたくさん残った。



 それでも、その残した気持ちが奏に伝わる様に。



 水原が昨日、僕にそうしてくれた様に。



 握った手に、優しく力を込めた。




 

 

 

 

※※※






 ファミレスに来ていた。


 言わんや『プレミアムホスト』である。



 僕の目の前にはデラックス抹茶パフェと、それを頬張る奏が居た。


 ……君、口に大量に物を含まないと食べられないのか。


 本当は声に出して言いたかったそれを、また吐かれてはたまらないと思い、心の中に留めた。



 「お待たせしました、ゴールデンストロベリーパフェになります」


 「……ありがとうございます」


 「いいえ〜っごゆっくり〜」



 そう言ってにやにやと笑いながら去っていく宮内さん(僕が面接に来た時にレジにいた女性の人で、大学生のお姉さんだ)


 ……今度あったら根掘り葉掘り聞かれそうだな。


 そんな事を思い、今も新たなデザートの登場に目を輝かせている奏を見る。


 明らかに泣き腫らした目の女の子を、バイト先に連れてくる後輩の図。


 きっと宮内さんにはそう見えてしまっているのだろう。まあ、これも仕方ない、受け入れよう。



 「美味しいか?」


 「……んっ。あ、ハイ。とっても……そのう、美味しいです」



 なんともにこやかな笑顔で言うもんだ。と、さっきまでの泣き顔をこうして笑顔に変えることが出来たことに安堵しながら、コーヒーを啜った。



 「あのう、月岡くん……」


 「ん?どうした?」


 「あ、いや……そのう、もう一つ注文しても良いですか?」


 「……もちろん。好きなだけ頼むといいよ」


 ……財布、いくらあった?


 「うぇへへ……ありがとう、ございます」


 「どういたしまして。第一、お腹が空いたって言った君をここに連れてきたのは僕だ。お詫びになるかわからないけど、奢るとも言ったしな」


 「あ、ありがとうございます……あ、でも……違う、よ?」


 「え?違うって何が?」


 「あ、えっと……お腹が空いたじゃなくて、甘いものが食べたい……だよ」


 「?……それの、どこが違うんだ?」


 「だ、だってそれじゃあ……わ、わたしが食いしん坊みたいじゃ、ないですかあ」



 そんな事をもじもじと言われてもな。


 ……君、すでにそれ3つ目だろうが。



 「……奏、それは屁理屈って言うんだ」


 「うぇへへ……」


 「褒めてないんだけど……まあ良いか」


 「あ、あの……さっき、なんでもしてくれるって、言ったの……嘘じゃ、ない?」



 伺う様に聞いてくる奏。

 確かに言ったのだ。あの後も散々泣いて話をしようにも出来なくなった奏に、「なんでもするから」と。


 ……でもこいつ、それ言った途端に泣き止んだよな?気のせいか?



 「……確かに言ったけど、僕にできる範囲でならの話だぞ」



 釘を刺す様に告げる。許しを乞うている立場の物言いではないかもしれないが、僕にも出来ることと出来ない事があるのだ。



 「あ、ハイ。それなら、大丈夫……です」


 「で?何をお願いされるんだ?僕は」


 「あ、あの……まずは」


 「待て。まずはって、何個もあるのか?」


 「……えっと、2つですかね?」


 ……2個か。まあそれくらいなら。


 「分かった。止めてごめん。で?」


 「あ、ハイ。まずはえっと……あ、頭を、撫でて……ください」



 思考に空白が生まれた。


 ……落ち着け。彼女は泣いたばかりだ。散々傷付けて来ただろう。


 水月にだって毎週の様にしているんだ、どうって事ない。よし。



 「……分かった。ほら」



 そう言って手を伸ばすと、頭を少しだけ傾げて来る。

 

 そっと、地毛だと言う暗めの茶色い髪を撫でた。


 手入れもきちっとしているのか、さらさらとした手触りで心地よさすら感じる。


 少しだけ撫でて手を離す。



 「はい。これで良いか?」


 「あ、ハイ……うぇへへ……」


 「それで、もう一つっていうのは?」



 努めて冷静に聞いた。


 なんだか落ち着かなくて、早く別の話題に変えたかったのだ。



 「ハイ、えっとね……名前、なんですけど」



 直前の笑顔が戻りきっていない表情のまま、告げてくる。

 八重歯がしっかり見えていた。



 「名前?」


 「あ、ハイ。そのう……悠くんって、呼んでも良い……?」



 ほんの一瞬だけ、動揺してしまった。


 おずおずと見上げる様にして聞いて来る奏には、幸い気付かれてはいないと思うが。


 ……僕が『奏』って呼んでいるからだろうな。


 そもそもこっちは許可もなく下の名前呼びを行っていたのだから、今更の話である。


 だから、そのまま答えた。



 「良いよ。僕だって奏って呼んでいるんだ。名前じゃなくたって、好きに呼んでくれて構わない」


 「ハイっ……悠くん、ですね」


 「まあ、なんだ……改めてよろしくって感じだな」



 なんと返せば良いかわからず、とりあえずで言う。



 「ハイ……よろしく、お願いします。えっと、明日の放課後からまた……勉強、ですか?」


 「そうだな。再来週の頭には中間テストもあるし、テスト範囲を重点的にやっていこうか」


 「ハイ、わかりました。あ、えっと……水原さんも、誘って良い……かな?」



 目を見張った。


 僕が中学時代の水原を重ねていたと知っても、そう言ってくれる奏に。

 

 本来だったらそれは、僕が君にお願いしないといけないのに。



 「ありがとう。僕も水原には改めてお礼を言わないといけないからな」



 ……君にも、まだまだ感謝してもしたりないんだよ、奏。



 「ですね……うぇへへ。あ、そういえばわたし……水原さんと、友達になりました」




 そんな風に、今この場にはいないけれど、僕等2人がこうしてまた一緒に勉強ができる様になった立役者とも言える彼女のことを思った。


 奏に寄り添ってくれた彼女。


 僕を叱咤し、それでも尚信じてくれた彼女。


 そんな水原のことを、今この時、僕と奏は想っていた。


 間違ってしまっていた過去にも意味はあったのだと分かって、こうして今を重ねていける僕達は、また明日から一緒に勉強をする筈の彼女の事を想っていた。



 また3人で、あの放課後の教室で勉強する事を夢見ていた。


 




 

 しかし、次の日も、その次の日も。







 放課後に、水原が姿を現すことは無かった。












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